父である国王のプライベートな客間でティータイムをすることになった。シンはテスに警戒していた。
 
―――とにかく、テスをチェギョンに近づけないことだ。
 
ソファに座り、妻の細い腰を引き寄せる。そう、1ミリも隙間がないように。チェギョンが恥ずかしがってピンク色に頬を染めているが、それさえも忌々しくて仕方がない。いや、妻のその初心な様子や上気した顔は、食べてしまいたくなるほど可愛らしく感じているは事実だ。しかし、問題はシンがそう感じるという事は、他の人たちもまた、そう感じることに他ならない。そう、テスも大いに興味を持つだろう。

「シン、どうしたのよ、そんなむすっとした顔して。妃殿下がハラハラしてるわよ。ねぇ、そうでしょう、妃殿下」
「え、ええ…。」
テスが近寄ってきて、声を掛けてきた。そしてテスは、シンが明らかに嫌がっているそぶりを見せているにもかかわらず、二人が座るソファに腰を下ろそうとしてきた。それも、チェギョンとアームの細い隙間に。
シンは思い切り不機嫌な声で言った。
「シン君?どうしたの、怒った顔してるけどぉ」
妻がそんな彼の態度に驚いていたが、今はそれを説明する場面ではない。

「テス、そこは狭い。君がスリムなのは重々承知してるが、そのスペースにはさすがに無理だ。こちら側に座ったらどうだ」
“シンの隣”を叩いた。十分に掃除が行き届いていよかった。彼は座面を埃が立ちそうなぐらい強く叩いたからだ。
「あら」
テスが眉を上げる。
「あっ、あの…、よ、よかったら、ここにどうぞ。私が少しずれればいいことです。ねぇ、そうでしょ、シン君」
チェギョンが口を開き、あろうことかテスを隣に座らせようとしている。シンは唸った。テスを見ると、悪戯そうに目を輝かせている。
―――そうはさせるか。
 
彼はグイグイと尻で妻を押し、チェギョンとアームをピッタリとくっつけた。チェギョンが怪訝な顔で彼を横顔を見つめているが、今はそれどころではない。緊急事態なのだから。いっそのこと、自分の膝の上に抱き上げようか。
「それがいい」
「え?あ、シン君っ」
彼がチェギョンの細い体を軽々と膝の上に抱き上げると、彼女は小さく悲鳴を上げた。その声で部屋にいた人たちがこちらを向いたけれど、家族ばかりなのだ、大したことはない。確かに父と母がいる、それもテスの家族のいる前では少々破廉恥だと言われるかもしれないが、それがどうした。何度も言うが、ことは緊急事態なのだ。
 
 
 
「シ、シン君、あ、あの…おろして」
「ダメだ」
夫が不機嫌なのはここへ来た時から感じていた。もしかして、足が腫れているのに、彼の忠告を無視してノコノコと人前に出てきたチェギョンの事を怒っているのかもしれない。
 
―――き、きっとそうだわ。
 
チェギョンはグスンと鼻を鳴らした。王太子妃らしからぬ音が少々漏れてしまったが、家族しかいないのだ、不作法なことは勘弁してもらおう。
「チェギョン、どうした?足が痛むのか?」
シン心配そうに顔を覗き込んできたから、チェギョンは首を横に振った。
「違うのか?」
目に涙が溜まっていることを自覚しながら、彼女は夫を見つめた。ハンサムな顔が揺らいで見えた。
「可哀想に…気分が悪いんだな」
優しく親指で涙をぬぐわれた。彼の手はチェギョンの指に比べると男らしく大きくて長いけれども、皮膚は驚くほど滑らかですべすべしているのだ。この指が自分に触れてくると、チェギョンの体は一気に熱くなる。今だってそうだ。こんな状況だと言うのに、いや、むしろこんな状況だからこそ―――最愛の人の古くからの知り合いだと言う美女が、彼の前にいるのだから―――熱い想いでシンを見つめ返した。
夫の方もチェギョンの想いに気がついたのだろう。きらりと目が光ったから。
 
「あら、素敵」
そのとき、突然楽し気な女性の声が聞こえた。チェギョンは慌てて見つめていた夫から顔を背けると、自分たちのすぐ前にテスが立っていて、驚いた。
「ふぅぅぅん…」
尖った顎を―――一生、二重顎という厄介な代物と関係なく過ごす顎だろう―――指でピタピタと叩きながら、チェギョンとシンをを交互に眺めていた。
「私の趣味としては、シンなんかに惹かれてることが気に入らないけど…。でも、まあ、いいわ。誰かにうっとりしている視線は好きよ」
「テスの好みなど関係ないっ。あっちで父上たちと話してくるといい。積る話があるんだろう?1年ぶりなのだから」
「陛下とはもうすでにお話ししてきたわ。十分にね」
「1年分の話が、そうそう短く終わるはずない。まだ話し足りないはずだ」
チェギョンにはシンが何故か彼女を追いやろうとしているように思えた。昔の恋人との秘密をチェギョンに知られるのが嫌なのだろうか。
「きっと、そうだもん」
「チェギョン?」
こうなったら、シンの秘密とやらをテスから聞き出そう。それが辛い事だとしても、内緒にされるよりずっといい。それにテスのシンへの気持も見えるかもしれない。
「じゃあ、私とお話をしてくれますか」
チェギョンは背筋を伸ばし、テスに向かって微笑んだ。
 
 
「チェギョン、何言ってるんだ。テスと話すことなど一つもないだろう?共通の話題がないのだから」
シンが慌ててそういうと、チェギョンがむっとした顔で睨んできた。
「あるでしょ、私とテスには」
「なんだって?」
まさか、テスの“好み”をチェギョンも共感できるということだろうか。だとしたら、非常に厄介だ。この宮殿の中で、チェギョンに直々に仕えるのは、圧倒的に女性が多い。シンが意図してそうしたところもある。
よくよく考えると、1日のうち、シンと居る時間より女官たちと過ごす時間の方が妻には多いのではないだろうか。
 
「チェギョン、その“共通の話題”をやらを僕に教えてくれ」
「い・やっ」
「嫌?」
まさかの返答だった。そしてますます怪しい。
妻が自分の膝の上から降りようとしているが、そうはさせるか。シンは細いチェギョンの腰を掴んだ。
「シン君、降ろしてちょうだい」
「足首をひねってるんだ。無理しない方がいい」
「無理してないもん」
「僕の膝の上の方が安心だ」
「あらあら、そんな不安定なところに座っていたら、それこそ危ないわ」
テスが余計なことを言う。
 
「テスは黙っていてくれ」
「私は妃殿下と話したいだけ。そして妃殿下も私と話したいのよ。シンとではなく」
「チェギョン、部屋に戻ろうか。連れて行くよ」
シンはテスを無視して、妻に声をかけた。
「私はテスとお話がしたいの。シン君は黙ってて」
「チェギョン、そう意固地にならなくてもいいだろう?」
その一言が地雷だったようだ。
 
チェギョンがいきなりグイっと立ちあがったかと思うと、テスの肘に手をかけ
「足首が痛いから、腕を貸していただけますか」
愛らしく首をかしげてテスに尋ねたのだ。
「もちろんですとも。さあ、行きましょ」
「チェギョンっ」
シンが立ち上がる前に、テスが2人の間に入り込み、さっさとチェギョンを連れ去って行った。
 
 
 
「シンには困ったものね。独占欲が強すぎるわ、ねえ、そう思いませんか、妃殿下」
「チェギョンと呼んでください。私もテスと呼んでいるのですから」
美女が優美に微笑んだ。二人の共通の話題と言ったら、シンのことだ。チェギョンはゴクンと喉を鳴らし、テスと向き合うことにした。彼女の口から、シンのことを聞くには、心にあらかじめ鋼のベールをかけておかねばならない。そうでなければ、泣き出してしまいそうだ。
「それは嬉しいことね」
そっと窓際に置かれが長椅子に座らされた。そしてすぐ隣にテスが腰を下ろした。それにしても、余りに二人の距離が近くないだろうか。ここまでチェギョンの領域に入り込む人間は、家族以外だと、シンだけだ。
チェギョンが2人の間を空けようとしたとき、
「本当にすべすべしてるのね…」
テスの指が伸びてきて、チェギョンの頬をそっとかすめた。そしてふっと温かな息を頬に掛けたのだ。
 
―――こ、これって、なぁに…?
 
妙に居心地が悪い。チェギョンが身を引こうとすると、テスが2人の手をぎゅっとつかみ、そして指を絡めてきた。
そして絡まったままの手をあげると、テスが自分の唇にそれを持っていき、チェギョンの指を唇に挟んだ。
 
「あ、あの…」
「想像した通りね。細くて柔らかいわ。でも…指先が硬いところを見ると、楽器を演奏するのね」
「あ、は、はい…少しは」
「そういえば、チェギョンはジェラルド・マークスのお嬢さんだったわ。そうでしょう?」
「ジェラルド・マークスは私の父です」
テスが指を挟んだまま頷いた。失礼にならない程度に指を引っ込めようとしたけれど、びくともしない。美女の指は細いわりに力が強いようだ。
「何を演奏するのかしら」
「え?」
「バイオリン?」
「あ、あのぉぉ」
テスの片手がチェギョンの右の上腕を掴む。
「バイオリンではなさそうね。じゃあ、コントラバスかしら、チェロとか」
「ち、違います」
「ハープも似合いそうね」
「多少は…でも、めったに弾きません」
今度はチェギョンの指を1本ずつ“舌”で確かめてきた。
 
「あ、あのっ」
もう我慢できない。失礼かもしれないけれど、チェギョンはテスをグイっと押しのけ、立ち上がった。
「痛いっ」
そうだった、忘れていたが足首をひねっていたのだ。スマートに立ち去ろうと言う計画は崩れた。
「足首が痛いのでしょ?どうなってるのか、診て差し上げるわ」
「だ、だ、大丈夫ですっ」
肩を押されてチェギョンが長椅子に再び腰かけると、テスがしゃがみ込んで、チェギョンのドレスの裾を引き上げようとしていた。
「テス、大丈夫だから」
「あら、遠慮なさることないのよ。私とチェギョンの仲じゃないの」
 
「そこまでだ」
「シン君」
夫の声が聞こえ、チェギョンは軽々と抱き上げられた。彼の横顔を見ると、頬がぴくぴくとしている。怒りを我慢しているだろう。
 
「白馬の王子が登場ってわけね」
テスが立ち上がってそういうと、
「でも、これぐらいはさせてちょうだい」
チェギョンが事の成り行きを理解する前に、甘い香水の香りが鼻腔を満たした。それはそうだろう、テスの唇が重なっていたのだから。
 
 
****
 
 
「まだ、怒ってる?」
ベッドのヘッドボードにもたれた妻が、目の下までシーツを引っ張り上げ、シンを見ていた。
「気分はよくないさ」
「そ、そうよね」
「目の前で妻がキスをされたんだっ。機嫌よくしろって言っても無理だ」
シンはシャツのボタンを乱暴に外し、前をはだけた。ダイヤモンドのカフスを外し、放り投げる。カツンと音がしてテーブルの上から一つ落ちたようだが、どうだってよかった。掃除のときにカーペットの中から出てくるだろう。
 
「で、でもぉぉ、あれは、不可抗力だったもん…」
小さな声が聞こえてきてシンはチェギョンを睨んだ。彼女がピクリと反応して、シーツの中に潜ろうとしていた。
「僕はテスには近づくな、と警告しただろう」
「そ、そうだけど…でも、本当のことを教えてくれないから、私…違う意味だと思ったんだもん」
「違う意味?」
シンはベッドに上り、妻の両サイドに手をつき、彼女を見下ろした。顔を近づけると、大きな目が不安そうにこちらを見返してくる。
「どういう意味だ?」
唇を重ねる直前で尋ねる。
「―――内緒」
「内緒?」
触れ合う寸前にそう言われて、シンがチェギョンの顔を覗き込もうとした時、細い腕が首に巻き付き唇を重ねられてしまった。積極的な妻は良いものだ。なにしろ、今夜はいろいろあり過ぎて、我も忘れて妻と愛し合いたい気分なのだから。
 
―――まあ、いいさ。あとで聞き出すことにしよう。
 
今はとにかく、柔らかな体を味わいたい。

「足首が痛いだろう?今日はこんなふうにしてみよう」
いつもとは違う愛し方を考えただけで、テスの事は頭から消え去って行った。
 
 
 

****
 
 
 
もぞもぞと動く妻の背中を軽く撫でながら、シンはサイドテーブルの上のスマートフォンを掴んだ。ピカピカと光るライトが、着信を告げたから。
「ふん、テスか」
そんなところだろうと思っていた。あのテスとチェギョンのキスのあと、さっさと妻を抱き上げて退出した自分たちのその後の行動などお見通しというわけだろう。
王太子夫妻の睦み合いが落ち着いたころ合いを見て、メッセージを送ってきたのだ。
 
『いいところだったのに、退場するなんてひどいわ』
 
『当り前だ』
 
『シンが妃殿下を味わっていることを想像すると、嫉妬してしまうと言ったら、どうする?』
 
『勝手に想像してろ。だが、忠告しておく。チェギョンは僕のものだ。他の誰にも触れさせない』
 
『妃殿下は、私の理想なのに、残念ね』
 
そうだと思っていた。テスの歴代の恋人を思い出すと、チェギョンは好みにドンピシャリなのだ。だから、シンはテスとチェギョンを会せるのが不安だった。そしてそれは的中したわけだ。
 
『次はもっと素敵なキスをするつもりよ。覚悟してなさい』
 
テスのメッセージを見て、シンは唇をぎゅっとつむんだ。
 
『そうはさせない』
 
メッセージを送ると、シンはスマートフォンを閉じ、そしてベッドの下へ投げた。
 
「そうはさせるかっ」
チェギョンの額にキスをして、寝顔を見つめた。
 
―――そうはさせるか…。
 
次にテスが宮殿に来た時には、絶対チェギョンを部屋から出さないようにしよう。心に固く誓った。
 
 
 
~end~



「なあ、チェギョン、テスから何て言ってきたんだ?」
「どうしてシン君に教えなきゃならないの?」
チェギョンはツンとして答えた。あれから、テスとチェギョンは仲良くなった。どこをどうやって調べたのか、テスがチェギョンに個人的なメッセージを送ってきたのだ。

テスが男性に興味がないことが分かり、チェギョンは現金なことに安心し、そしてテスが好きになった。回りくどい言い回しなど無く、ストレートな物言いのテスは、今ではチェギョンにとって大事な存在になっている。
来月テスが帰国した際には、宮殿に遊びに来てくれることになっているのだ。

「妻がいかがわしい人物と親しくなってるんだ、夫として心配するのは当然だろう」
「テスはシン君の友達でしょ。それって、いかがわしい人物なの?」
「そうではない」
「じゃあ、どうなの?」
チェギョンは難しい顔をして夫を見た。内心、彼をからかうのが楽しい。

「だから、分かるだろう?」
「分かんない」
「チェギョン、頼むよ、僕の言う意味が分かってるだろう?」
「分かんない」
くるりとスカートを翻し、チェギョンは庭園に出た。すると夫が後からついてくる。
あれこれ、いいわけを言いながら。


『シンをからかうために、私はシンに、チェギョンが魅力的ってことを言ってるのよ』
テスがそう教えてくれた。実はテスには、恋人がいるのだ。彼女が言うには
『運命の人よ。私、黒髪で緑の瞳の彼女に夢中なの。ずっと金髪で青い瞳の女性が好みだと思っていたけど、違ったわ』
とのことだった。

『でも、シンには内緒にしておきましょ。私の歴代の恋人を知ってるから、チェギョンが好みにぴったりだって思い込んでるはずよ』

『そう、これは私の秘密』

「なあ、チェギョン…そろそろテスが何て言ってるか、教えてくれ」
後ろから抱きしめられながら、チェギョンは微笑んだ。もう少し行くと、東屋がある。今日の天気はいつもに増して空が青く、こんな日はいつもの寝室のベッドではなくて、空が見える場所で愛し合うのもいいだろう。

―――これもテスの影響かなぁ。

恋愛経験の豊富なテスが教えてくれたのだ。
愛し合う場所は、ベッドだけではないと。