「チェギョンは?」
シンはブルックリン女官長を捕まえ、問いただした。彼が仕事から戻ってきた時間に、彼女がいないことは珍しいからだ。いつもなら、ティータイムの用意がされている。チェギョンの好物のいちごタルトの香りがただよっているはずなのに、今日はそれもない。だとすると、ちょっと席を外していると言うわけではなく、チェギョンがここに居ないことを示している。
「チェギョン様は王妃様のところです」
シンは時計を見た。そして眉を上げる。
「やけに遅くまで母上はチェギョンを引き留めているんだな」
不満げな声に女官長の口元が微妙に上がった。シンがチェギョンを溺愛していることは、既に宮殿内で有名になっており、些細なことであたりかまわず嫉妬をする『ジェラシー王子』というニックネームまでつけられていた。
 
「王妃様と言うよりは、チェギョン様が熱心に質問をされているからだと思います」
「チェギョンが?」
「はい」
「そうか…それでは、母上のところまで迎えに行こう」
女官長が微笑んだ。
 
チェギョンからの願いで、1か月ほど前から王妃のもとで宮廷のマナーについて学んでいる。実際、シンが彼女の両親に正式な挨拶をした後は、王室の一員になるための基礎的な知識を学ぶ手はずになっている。それらの人選が急ピッチで進められている最中だ。数か月後から始まる講義を前倒しして、チェギョンが王妃に学びたいと言い出してくれたことが、シンにはことさら嬉しかった。
彼女が王太子妃になるための意思を示してくれたからだ。
 
 
トントントン
 
 
母は相当チェギョンを気に入っているようだ。なにしろ、プライベートな自室で彼女と一緒にいるのだから。
通常、こういった場合は、家族だけが出入りできる部屋ではなく、知人たちと過ごす居間を使う。今日もシンは最初、そちらの部屋へ赴き、女官たちに「王妃様のお部屋です」と告げられ驚いたのだった。
 
「失礼します。いい加減、僕の恋人を返してもらいたくて参りました」
「あら、もうそんな時間?」
母が掛け時計を見て驚いていた。
「母上、これからはアラームをセットさせましょうか。これでは、夜になってしまいます」
シンの不機嫌そうな声に母が笑い声を立てた。
「そうなったらそれでいいわ。そうしたら、一緒に夕食をとることができるから。ねえ、チェギョン」
「はい。夕食の席でも、王妃様にマナーを教えていただけてるので、嬉しいです」
チェギョンの真面目な答えに母が一瞬、心配そうな顔になった。細い母の手が伸び、センターテーブル越しにチェギョンの手を取っていた。
「そんなに、熱心になることはないのよ。家族での団らんの場は純粋に楽しめばいいの」
「で、でも…練習の場になると思います」
「それはそうよ。でも、料理の味が分からなくなってしまったら、食欲もなくなってしまうでしょう?」
hセギョンが口を開けた。しかし、何か言う前に彼女は黙って頷き返していた。シンはそんな母と恋人のやり取りを眺め、ブルックリン女官長が言った通り、チェギョンが大層熱心に学んでいることに気が付いた。
 
彼は母の頬にキスをした後、チェギョンの隣にピッタリと並んで座った。少々行儀は悪いが、ここは母の自室だ。恋人に近づいて何が悪いと言うのだろうか。母と父もみっともないぐらいベタベタした夫婦なのだから。
「僕はもうお腹がペコペコだ。ここでティータイムにしよう。母上、いいですか」
脚を組みながら腕をソファの背に沿って伸ばす。するとチェギョンの肩を抱くことができるのだ。もちろん彼はそうした。母の視線がシンの手をとらえていたことに気が付いた。
「もちろんよ。あなたの宮殿からいちごのタルトを持ってこさせましょう」
「そうしてください。どうせ、もう準備がされているはずですからね。チェギョンも毎日、あのタルトを食べてるけど、よく飽きないな」
 
シンの言葉に、チェギョンがにっこり微笑んだ。本当に愛らしい。母がいなければ、熱いキスをするところだ。
「だって、美味しいもん。1年中、いつも同じいちごの種類でもないはずなのに、同じ味がするってすごいでしょ。今日はどこが違うのかって一生懸命探してるんだけどぉぉ、分かんない。だって、美味しくてすぐに飲み込んじゃうから」
唇を尖らせてそんなことを言う彼女の様子を見て、彼は笑った。彼女がこのような素の様子を見せることは、最近では珍しい。母の笑い声がして、二人は同時に前を向いた。
 
「あ、あの、し、失礼しました…え、えっと、王妃様と王太子様の前で」
彼女が真っ赤になってしどろもどろ弁解を始めたところ、母がそれを遮った。
「いいのよ。家族の間にマナーが立ちふさる必要がない場面だって、あるでしょう」
「そうだよ、チェギョン。僕はこの部屋にいるときは、王太子でもないし、母上も王妃ではない」
「でもぉぉ」
シンは彼女のおくれ毛を指で挟んだ。
「熱心なことはいいけれども、息抜きだって必要だ」
「だけどっ」
その時、女官たちがワゴンを押しながら入ってきた。色とりどりの菓子にチェギョンの意識が移り、少しばかり緊張したやり取りが一気に和んだ。だからシンはこの時、チェギョンがどんな思いでいたのか聞きそびれてしまった。
 
 
****
 
 
はふぅぅぅぅ
 
チェギョンは欠伸をしながら、ベッドに横倒しになっていた。今日はシンが地方へ出かけていて、帰りが遅くなっている。顔だけ上げて時計を見ると、そろそろ彼も帰ってくる頃だろう。だらけた部屋着から着替え、玄関まで迎えに行こうと考えた。その一方でもう一度着替えて部屋から出ることが、ひどく億劫になっている自分がいる。
それでもシンには1秒だって早く会いたい。
 
「えいっ」
チェギョンは勢いをつけて起き上がることにした。するとマットレスが波打ったせいで、スマートフォンが床に落ちてしまった。
「やだぁぁ、壊れたらどうしよう」
急いで拾い上げたけれど、どこも支障はないようだ。分厚い絨毯のおかげだろう。
 
「あ…」
液晶画面に触れた瞬間、ブラウザがひらき、トップページが飛び込んできた。そこには、シン王太子と彼が今日訪れた財団の代表者が握手をしている様子が映っている。財団の代表者は彼と同じか、もう少し年上の若い女性だった。特別美人というわけでもないけれども、静止画からも彼女が上品な才女であることがうかがえた。チェギョンはその女性プロフィールを眺め、そしてため息をついた。
「そう、よね…うん、そうだと思った」
貴族の血を引くその女性の経歴は申し分がない。そしてコメント欄にある『こんな女性が王太子妃になってくれたら』という言葉に胸が痛くなり、彼女は無意識に左胸の上の布をぎゅっとつかんでいた。
 
王妃様からレクチャーを受けている。一生懸命メモを取り、何度も眺めて覚えているのに、実際そのシーンになるとあれこれと落ちがある。王妃様は「場の数を踏めばできるようになるわ」と慰めてくれるけれど、それでも自分がふがいなくて情けなくなる。
シンは「自信のある人なんていない」と言い切っていたけれども、その「自信のある人なんていない」のレベルが高すぎる。チェギョンなど、彼のいうところの「自信のある人なんていない」のカテゴリーに属することさえできないだろう。
 
そして、分かったこともあった。
少しだけ努力したら自分でも表面上のマナーなどできるようになると、たかをくくっていたけれども、表面上のマナーなど一つもないと言うことに。それぞれ意味があり、それを理解しないでいてはマナーそのものが身に付かない。そして、途方もないほど多くの王室の一員としてのマナーがあり、それは、1年やそこらで身に着くものでもないと言うことを。
貴族の娘でマナーの基本を身に着けてきた王妃とは違い、自分はその何倍も時間と努力が必要であることが。
 
「ここだけがお家だったらいいのにな」
とうとう本音がこぼれてしまった。
「シン君が、シン君だったらいいのにな」
この部屋にいるときの彼は、ただのシン・サヴェージ。それが、部屋を出た瞬間に、王太子シン・サヴェージになる。ただの“家”なのに、その家の中に公私の区別が歴然とあることが、チェギョンを苦しくさせていた。
「寝ちゃおうかな…」
夕食はリナと二人で食べた。妹ともう少しおしゃべりしたかったのに、リナは「課題があるの」と言って、早々に切り上げて図書室へ行ってしまった。
シンは帰ってきたらすぐにここへ来るだろう。だったら、ここで待っていてもいいかもしれない。それでも、彼を玄関へ迎えに行かないことに、理由が欲しい。
「だから、寝ちゃおう」
チェギョンはシーツの中に潜り込んだ。スマートフォンをポイと絨毯に投げ捨てて。
 
それから10分ほどしたとき、なんとなく、宮殿内で音がしたような気がする。きっと彼が帰ってきたのだろう。主が戻ってくると、大きな宮殿は急に活気づく。チェギョンはじっと耳を澄ました。
 
 
 
「チェギョンが出てこないなんて、珍しいな。さては寝てしまったか」
シンは口元をほころばせながら、独り言ちた。帰りが遅くなってもチェギョンは必ず玄関に出迎えに来てくれる。家に戻った時に愛する女性が迎えてくれることが、これほどまでに心を慰め優しくされてくれるとは思ってもみなかった。まだ自分が小さく家族で王太子の翼棟で暮らしていた時、母が父の出迎えに、シンもできうる限りさせていたのは、つまりはこういうことなのだろう。
 
チェギョンに出会ってから、父と母が自分に伝えたかったことが少しずつ理解できるようになった気がする。
 
シンは出迎えた侍従と女官たちに頷き、自室へ向かった。今日はもう執務をする予定はないと、ドレイク侍従長に伝えてある。階段を上っている途中でふと足を止め、ドレイクの姿を探すと、彼が図書室のある廊下に向かって歩いている後姿が見えた。リナと待ち合わせでもしているのか、あるいは、まだ二人はそこまでの関係になっていないのか。多分後者だろう。だからこそ、ドレイクはリナの姿を見るために図書室へ行くのだ。
 
――――意外な組み合わせというべきか。
 
とはいえ、チェギョンの妹と自分の側近が親しくなることは悪い事ではない。しばらく知らんぷりをしてることにしよう。
 
シンは小さく笑い、それから寝室へ向かった。
 
ノックをせずにドアを開けると、案の定、ベッドが盛り上がっている。チェギョンが眠っているのだろう。シンはそっと近づきベッドを覗き込んだ。キスをしようと顔を近づけると、彼女が目を開けた。
「ごめん、起こしたね」
「シン君なの?」
「僕じゃなかったら困るよ」
冗談とも本気とも取れる言葉を言うと、彼女が微笑んだ。細い腕が伸びてきて、首に巻き付く。
「おかえりなさい。寝ちゃったみたい」
「ただいま。眠るといい。僕はシャワーを浴びてくる」
「私も、まだ、着替えてないのぉ」
「じゃあ、一緒にシャワーを浴びようか」
「シ、シン君っ」
チェギョンの驚く声に彼は笑った。
「冗談だよ。チェギョンからシャワーを浴びるといい」
「ううん、ここのシャワーはシン君が使って。私、隣の部屋のバスルームを使うから」
 
王太子の部屋は続きの部屋があり、そこは、王太子妃の部屋になっている。そちらにもチェギョン用のベッドルームがあるけれども、シンは夜に限ってそこは「使わないように」と彼女と約束させたのだ。
「『隣の部屋』ではなくて、チェギョンの部屋だよ」
シンが言い直すと、彼女の表情が変わった気がする。
「チェギョン?」
「ちょっとゆっくり入ってもいい?バスタブにお湯を張って、体を温めてくるね」
「そうだな、今日は寒いから」
「うん…」
ベッドから抜け出した彼女が、寂し気に見えたのは気のせいだったのだろうか。