「レノーは、さぞかしお前を甘やかしているんだろうな」
リリアンは祖父のリスター伯爵の顔を見た。祖父のために紅茶をティーポットから注いでいた最中だった彼女は、もう一度視線を落とし最後までカップに注ぎ切った。

そっと祖父の前へティーカップを置く。

「おじい様の言っている意味が分からないわ」
自分のティーカップを鑑賞する仕草をして、彼女は祖父から視線を反らすことにした。なにしろ祖父はあの“ルーシャス・エセックス”だ。視線を合せたら、この心の中を全て覗かれてしまうだろう。

ふふん、祖父が鼻で笑った。

「おじい様?」
彼女が伯爵を見ると、ロマンスグレーの伯爵は優しい笑みを浮かべていた。

「リリアン。お前をからかうつもりではない。ただ、私は嬉しいのだよ」
祖父が言いたいことは分かる。けれども“大いなる間違い”を指摘しなければならないだろう。
「あのね、おじい様。はっきり申し上げますけど」
リリアンが先を続けようとした時、執事が来客を告げた。

「レノー・ハートリー様がおいでです。お通ししますか?」
「だめよ、留守と言って」
「ああ、通しなさい」
伯爵とその孫娘の言葉が重なり、執事は迷うことなく主の言葉に従った。
リリアンは祖父を睨んだ。無駄なことだとは重々承知だったけれど。





「これは嬉しい誤算だったね」
レノーが伯爵家を訪れると、彼の恋人が―――リリアンには“恋人候補”と言われ続けているが、彼自身は“恋人”だと強く主張している―――むっとした顔でソファに座っていた。
レノーにとってリリアンのそうした表情は慣れっこだ。
レノーと伯爵以外の人前で彼女はそんな憮然とした顔を見せることはない。だとしたら、彼女のこうした表情を引き出す自分は、かなり“高得点”をあげているのではなかろうか。

いつだったか、リリアンにそう話したら、
「あなたって、すっごくポジティブな人なのね」
呆れた答えが返ってきた。
リリアン・エセックスを手に入れるためだったら、どんなことを言われても構わない。

「レノーにとっては、ね。私にとっては嬉しくない誤算よ」
リリアンがツンとして答えると、伯爵が声を立てて笑った。
「つれないなぁ。でも、君のそんなところが、僕は可愛いって思ってるって前にも言ったよね。おっと!もしかしてワザとそうした態度をしてるのか?」
「レノー!」
リリアンの隣に腰かける。もちろん、彼女の向かい側も空席だったが、レノーはそこに座る気はさらさらなかった。

リリアンの美しい眉がピクリと上がる。
批判めいた目つきで、レノーを見てきた。そうしたところで、彼女の美しい顔にはなんの影響もない。むしろ美しさがプラスされると、レノーは思った。

「どうして、ここ?前の席が空いてるわよ、ハートリー様」
「僕はこちら側のほうがハンサムなんだよ、レディ・エセックス」
リリアンがまた厳しく睨みつけてきたけれど、彼はニッコリと極上の笑みでお返しをした。

メイドがレノーのティーカップを運んできた。彼は迷うことなく、ティーセットに手を伸ばし、自ら自分のカップに紅茶をなみなみと注いだ。


「私が淹れたのに。あなたはお客様よ、レノー」
リリアンに向かってレノーは微笑んだ。
「誰が淹れても同じだよ。僕が飲むんだから僕が淹れてもいだろう?」
「でも…」
リリアンの細い手を掴み、レノーはその繊細な指先を自分の唇に当てた。

「レノー…や、やめて」
ぼんやりと指先を見つめていたリリアンが、急にハッとしたような顔をした。ここが彼女の祖父の屋敷であり、目の前に伯爵が座っていることに気づいたのだろう。





「ご依頼の件ですが」
指先がじんじんする。リリアンはまだ彼に掴まれたままの手に視線を向けた。彼の膝の上に置かれた彼女の手は、大きな彼のそれに包まれたまま。
祖父がどういう目で二人を見つめているか、想像に難くない。

祖父とレノーがビジネスの話をしている間、リリアンはぼんやりと二人の会話をBGMにして、他のことを考えていた。
そう、レノー・ハートリーのことを。

彼のことはよく考える。いや、しばしば。むしろ、一日に何度も。こうしてふっと気づくと彼の事ばかりを考えている。


レノーはとても魅力的な男性だ。
誰が見てもそういう答えが返ってきそう。

けれどもリリアンが彼のことを考えるその理由は、ハンサムなでスタイルの良い外見ではなくて、彼の人間味あふれる中身だった。ビジネスの世界で聞こえてくるレノー・ハートリーと、素の彼のイメージがこれほど違うと、誰も教えてくれなかった。

例えば彼はとても“子どもぽい”。大人びて洗礼されたルックスからは想像できないほど、無邪気な笑顔を見せてくれる。些細なことにムキになり、些細なことで喜びを見いだせる人だ。

先日もこんなことがあった。


レノーがリリアンのスケッチについてくると言ってきかなかった。根負けした彼女は
「邪魔しないでね」
ときつく言い渡して、彼の同行を許可したのだ。そうでもしないとレノーは危険すぎる。
隙を見てリリアンの唇を奪い、彼女の平常心を連れ去ってしまうのだから。

彼女の言葉に彼は、
「もちろんだ。犬の彫刻のように大人しくしてるよ」
神妙な顔で頷いていた。

実際、彼はとてもお行儀が良かった。むしろ行儀がよすぎた。余りにも大人しくリリアンの傍に寝ころんでいるので―――二人はピクニックシートに並んでいた。リリアンはスケッチ中―――、彼女は彼が気になってしまった。とても。

折角の美しい風景なのに、筆が進まない。
キスしてほしくてウズウズしてしまったのだ。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らないでか、くだんの男性はのんびりと寛いで見えた。

とうとう、しびれを切らしたのはリリアンだった。
「ね、ねぇ。普段のレノーからすると考えられないほど、静かね。飽きてるの?」
―――私との時間に。
「まさか。そんなことないよ。今は雲を見ていたんだ」
「雲?」
その時になってリリアンは初めて空の青さと雲の白さに気づいた。そんなこと、今まで一度だってないことなのに。レノーといると、何かと勝手が違う。

「ほら、あの雲。追いかけられた鶏みたいだな」
彼が指さす雲を見たけれど、リリアンにはそんなふうには見えなかった。
「想像力が豊かね」
クスリと彼女は笑った。
「ふーむ。君は鶏が追いかけられた必死な様子を見たことがないんだな」
そういうと彼は起き上がって、鶏の切羽詰った様子を体で示して見せている。
その滑稽な姿にリリアンは笑い声を立てた。
そんな彼女に彼は目を細めて見つめてきた。謎めいた表情で。


「あなたって、何でも面白がるのね」
リリアンが目じりの涙を指先で拭いながら言うと
「どんな時でも、楽しいことにするのが僕の得意技だよ」
彼はさらりと言ってのけた。
「―――世の中の多くの人は、そんなふうにできないと思うわ」
そう、自分がまさにその人間だ。些細なことを理由にふさぎ込んでしまうことが多い。

「リリアン…。ポジティブに生きても、ネガティブに生きても、同じ時間なんだ。どうせなら楽しんで生きていた方がずっと気が楽だと僕は思うんだ」
「レノー…。そ、そうね。その通りだわ。私もレノーみたいに考えるようにするわ」
その時彼が見せてくれた笑顔。あの笑顔に胸が躍らない女性などいるだろうか。

リリアンは、踊った。






伯爵とビジネスの話をしながら、どうも気持ちがそちらに向かないことにレノーは気づいていた。原因は明らか。
リリアンだ。

彼女の甘い香りを嗅ぎながら、澄ました顔で仕事の話などできるものか。だが、相手は彼女の祖父だ。適当なことを答えたら、すぐさま自分の心を見透かされてしまうだろう。

「仕事の話はこれぐらいにして。リリアン、最近のことを話しておくれ」
「はい、おじい様」
リリアンが顔を上げた。彼女が祖父に会いに来るのにはわけがある。
リリアンが言うには「おじい様は、私が興味を持つことが何なのか、知りたがるの。きっとご自分で自由に外へお出かけになる気力が少なくなってきたんだわ」と。
けれどもレノーの意見は違った。わざわざ彼女に話してはいないが、伯爵は孫娘に周りに不審な人物が現れていないのか、常に注意と警戒を怠っていないのだ。

その理由とそうなった原因こそが、リリアンがレノーに心を開いてくれない一因になっていると彼は睨んだ。
ルーシャス・エセックスの驚異的な活動量を知っている人々からしたら、『気力が減った』など露とも思わないだろう。


「丘の上でスケッチをしたわ」
伯爵がその場所を尋ねた時、リリアンがポッと頬を染めた。

「そ、そこの場所?詳しくは分からないの」
「どうしてだ?いつも『何処どこだ』と断言するリリアンにしては珍しいことだな。どこの場所か知らなくて、よく帰ってこられたな」
「ナビをセットすれば済むことよ」
リリアンが必死に答えている。レノーは笑い声を噛みしめた。

「それはとてもおかしなことだな。リリアンの性格からして、下調べをしないで出かけることなどないだろう?」
「それは…」
リリアン・エセックスは几帳面な性格だ。行き当たりばったりと言う言葉は、彼女の中には存在しない。偶然そうなることがあったとしても、意図的にそうなることはないのだから。

「僕が運転していたからですよ。リリアンはその丘がどこの丘なのか知らないのは当然です。僕だって知りませんから」
「ほう?」
伯爵の白い眉が上がった。

「レノーが、ついてきたの。勝手に」
リリアンが慌てて付け足しをしたけれど、伯爵は孫娘の言葉を無視することにしたようだ。
「よく二人で出かけてるのか?」
「そうですね」
「違うわっ」
レノーとリリアンの言葉が同時に発せられたが、老人は彼の言葉を選ぶことにしたらしい。
「今週はどこへ行ったんだ?ふたりで」
レノーでなく、リリアンに向かって尋ねたのだから。


彼女が喉の奥を不満げに鳴らした。
「―――スケッチと。食事と。それだけよ」
「食事は4回だったね。3回がディナーで、1回がブランチだ」
レノーはすぐさま補足した。
「わざわざ、回数を答える必要はないわ」
鋭い言葉だったが、声は小さかった。
「僕は正確さを自分のポリシーにしているんだ」
リリアンがレノーを睨む。


「おっと!そらから、君の作品を観に行ったね」
「それは!レノーが勝手に打ち合わせ先に押しかけてきたんでしょう?私は『来て』なんて頼んでないわ」
「でも、僕が行って良かっただろう?」
彼の言葉にリリアンは黙った。肯定だ。

伯爵が「教えろ」と目で合図を送って来た。レノーは口を開く。
「彼女が『売るつもりはない』と言った作品を、ギャラリー側が無理矢理、販売しようとしたんですよ」
「それで?」
伯爵の厳しい顔にリリアンは、ばつの悪そうな顔で答えた。
「―――レノーが“たまたま”通りかかって。『作者の意向を尊重しないギャラリーだと噂を流してもいいのか』って脅しをかけたのよ」
「そこのギャラリーは勉強不足ですね。彼女が誰なのか、正確に把握していなかった。だからその場で僕が契約を打ち切りにしました。代りに他のギャラリーを彼女に紹介しましたよ」




レノーの言う通りなのが悔しい。
リリアンがそのギャラリーを個展の場に選んだ時、そんないい加減な仕事だと思わなかった。
何かと口を出したがる祖父に
「立派な大人ですから。自分で出来ます」
と啖呵を切っているだけでに、いたたまれない。
現に祖父の目に「ほら見たことか」と言う非難の色が見えるのだから。

「だ、大丈夫よ。たまたま、だったの」
「リリアン」
「はい…」
リスター伯爵は確かに自分の祖父であるが、普段は呑気なルーシャス・エセックスだ。けれども目の前にいるロマングレーの老人は、リスター伯爵。

「専任のスタッフを付けなさい。今すぐにだ。人選は私がする」
「おじい様、やめて」
立ち上がろうとしたリリアンを押し留めたのは、レノーだった。


「リリアン、おじい様の言う通りだ」
「レノーには関係ないわ」
「いや、ビジネスの世界では、君の先輩である僕だ。一言アドバイスしてもいいだろう?」
普段のにこやかな笑みを消したレノー・ハートリー。リリアンは無言でソファに腰を下ろした。
彼を見る。

「専任のスタッフがいたら、君は作品作りに集中できるよ」
「分かってるわ」
そんなことは自分でもわかっている。
「君の想いを理解できるスタッフでなければ、ダメだって言いたいんだろう?」
リリアンは彼を見つめた。

「“そんな人はいない”って決めつけることは良くないな。君はそもそもそういう人物を探したのだろうか?」
彼女は首を横に振った。
「探してみたらどうかな?おじい様はその道に顔が広いだろう?君一人で決めかねるなら、僕も一緒にいるよ」
レノーの言う通りだ。『この作品はいいけれど、この作品は世に出したくない』とか『納期を決められたらいやな時と、そうではない時』とか、リリアンにはリリアンなりの都合がある。
それを彼女を同じ価値観で理解してくれる人が傍にいたら、どれほど楽になることだろう。

けれどもそんな人物を探し当てるのは、山奥で見上げた満天の星空の中から一つの星を見つけるのと同じくらい困難だ。

「…一緒に探してくれるの…?」
小さな声で言ってみた。


「もちろんだよ」
レノーが答えてくれた。はっきりと。頼もしく。そして、嬉しそうに。