リリアンはアルコールに弱いのだろうか。ほんのりと頬をピンク色に染めている様子からすると、多分そうだろうとレノーは判断した。
おいおい自分がアルコールの美味しさを覚えせていこう。
何事もリリアン・エセックスに“教える”と言うことは、素晴らしい。
レノーは膝に広げたナプキンで口を拭った。

「美味しかったわ」
「それは良かった。リスター伯爵家のコックはさぞかし腕がいいだろう。舌の肥えたリリアンに、気に入ってもらえるか、内心ドキドキしていたんだ」
レノーの言葉に、リリアンが可愛らしく吹き出した。
「レノー・ハートリーが、“ドキドキ”することなんてあるの?」
細められた目元。それさえも自分を誘っているような気がする。レノーは膝の上にナプキンが広げてることを、この時ほどありがたいと感じたことはなかった。そうでなければ、パンツのジッパー付近が不自然に盛り上がっていることに、気づかれてしまうだろう。

「それはあるよ」
平然とした声が出せた。内心の動揺をひた隠し、彼は澄ました顔で答えることにした。
「あら、あるの?」
テーブルに頬づえをついたリリアンは、やはり少し酔っているのだろう。行儀のよいレディが、素面でそんな不作法なふるまいをするとは、考えられないから。
でも、酔っている方がいい。少しばかりくだけたリリアンが、とても魅力的だから。

「そうだね。とある春の女神がすぐそばにいる時は、僕の心臓は狂ったように動いてるさ」
レノーの言葉の意味が通じたのだろう。リリアンがばつの悪そうな顔をして背筋を伸ばした。
「―――か、からかってるのかしら」
ツンと顎をあげたリリアン。もし、彼女の顔を見ていなかったら、機嫌を損ねたと勘違いしてしまいそうだ。けれどもレノーはリリアンを見ていた。
彼女の白い頬はピンク色に染まり、その薄茶色の瞳は不安そうに揺れている。
そのくせ、強がっているのか、飲めもしないワイングラスに手を伸ばしている。

「からかうほど余裕があったらいいなって僕も思うよ」
「え…」
レノーは手を伸ばし、ワイングラスの細い脚を掴んだリリアンの手を覆った。

「気づいていると思う」
「な、なにを…?」



なんて気の利かない受け答え。
彼の周りにいる大人の女性ならば、きっと簡単にあしらってしまうゲームだろう。
けれどもリリアンにはそんな術はない。ただ、レノーの眼差し―――リリアンの思い過ごしでなければ、ひどく真剣な―――と、堅い口調に身動きが取れなくなっている。

「こういうのって、ヘビに睨まれたカエルって言うの?」
不意に口についた言葉に、リリアン自身がぎょっとした。
当然のことながら、レノーの方も驚いたようだ。大きく目を見開らき、息が止まっているようだ。

ぷっ

突然レノーが笑い出した。静かな店内にBGMのかわりのピアノの生演奏が流れていなかったら、自分たちのテーブルは注目の的になっていただろう。
ひとしきり笑ったレノーが―――それでもリリアンの手を掴んだまま
―――親し気な表情で彼女を見つめてきた。
そう、とても優しくて温かな顔。まるでこの世で一番大事なモノを見つめているような視線。

「リリアン」
「なにかしら」
思い切り澄まして答える。そうでなければ、年上の彼に対して漏らした失言を繕うことができないから。
「君が好きだ」


彼は何て言ったのだろうか。リリアンは瞬きさえ忘れ、レノーの顔を凝視した。

ふと手の甲に温かな唇を感じて、彼女は視線を落とした。彼が彼女の手の甲に口づけをしていた。

―――やめて。私の心を乱さないで。

手をひっこめたいのか、そうしたくないのか。
リリアン自身も分からない。ただ……レノー・ハートリーの魔法は確実に彼女に効いたというわけだろう。彫像のように身動きが取れなくなってしまったのだから。

「……答えは待っているよ。いつまでも待つさ」
テーブルに下ろされた手は、まだレノーの大きな手に包まれている。
「わ、私…」
喉の奥が引きつったように動かない。
「もし君が、僕を怖がってるなら―――」
「怖くないわ」
そう、レノーに対して恐怖心を抱いたことはない。ただ“警戒”しているだけ。
リリアンが即座に否定したことで、彼がホッとしたように見えた。

「怖がられてなくてホッとしたよ。好意を寄せている女性に、怖いと思われることほど致命的なことはないからね」
「私へ“好意”を寄せてるの?」
リリアンの言葉にレノーが眉をひそめた。何か間違ったことを言ってしまったらしい。

「―――僕はつい数分前に、君のことが好きだとハッキリ口にしたはずだよ」
「え、ええ、そ、そうね」
確かにこの耳で聞いた。
「で、でも!」
「でも?」
レノー・ハートリーが有能なビジネスマンであることを、今なら実感できる。声を荒げるわけでもなく、とても落ち着いているけれども、圧倒的なプレッシャーを相手に与えることができる人。
リリアンは喉がカラカラになった。

彼に掴まれたままの手を引き抜くと、そのままひったくるようにテーブルの上に置いてあるワイングラスを掴み、一気に喉へ流し込んだ。

「私のことが、す、好きって言ってくださったけれど」
「言ったよ。何度だって言おう」
レノーの態度からすると今にも口に出しそうだ。
「遠慮するわ」
「それは残念。この店中に聞こえるぐらい大声で叫んでもいいぐらいだ」
「それはやめてちょうだい」
リリアンは慌てて答えた。今の彼なら冗談ではなく、本当にそうしてしまうかもしれない。




「レノーが言う“好き”って……」
リリアンがぼんやりと、運ばれてきた芸術的とも思える盛り付けをされた宝石のようなデザート皿に、視線を落としている。
「この『チョコレートケーキが好き』っていうのと同じ次元だと思ったの」
「まさか」
レノーは一蹴した。リリアンの言葉が冗談だと思ったからだ。
ところが彼女の顔を見て、それが本心だと悟った。


「リリアン」
レノーは立ち上がると、向かい合わせに座るリリアンのすぐ隣に立った。
見上げてきた繊細な顔の顎をそっと撫でる。
「―――君を一人の女性としてみているんだ」
「レノー…」
不安そうな彼女に彼は微笑んで見せた。

「君に恋人がいないなら、どうか僕を恋人候補にしてほしい。しばらく一緒に過ごして、僕のことを好きになれないのなら、その時は潔く身を引こう」
「でも―――」
何か言いかけたリリアンの唇にレノーは人差し指を当てた。


「僕を好きにさせてみせるよ」
言い切るだけの確信と自信があるわけではない。けれども、リリアン・エセックスの心を絶対に掴んで見せる。
彼女を手放したくないからだ。

レノーは彼女の額に唇を寄せると、自分の席へ着いた。

「さぁ、食べよう。ここのデザートは絶品だよ。デザート目的で来る人もいるんだ」
「そうなの?」
ホッとしたような彼女を横目で見ながら、レノーはこれからの長い道のりに思いをはせた。

まだキッカケを掴んだだけだ。彼女からはっきりと『恋人になる事』について承諾を得たわけではない。けれども、少なくとも否定はされていないのだ。
ここは持ち前のポジティブさを生かして、自分をリリアンの『暫定的な恋人』として位置付けてしまおう。 

レノーはチョコレートケーキを一口食べた。
ほろ苦く濃厚なチョコレートと、甘酸っぱいラズベリーのソースが口に広がった。

「甘酸っぱさが、チョコレートの甘さを引き立ててるな」
「そうね」
「きっと僕たちもそうだ」
リリアンの気持ちを惹きつけるまでの期間は、その後の甘く濃厚な二人の関係を引き立てるために必要なステップなのだ。
「レノー?」
リリアンが不思議そうな顔をして彼を見ている。レノーは「なんでもない」というふうに笑うと、一口フォークにケーキを載せ、彼女の口元へ持って行った。

一瞬戸惑ったような彼女に視線を合せると、彼は
「ほら、口を開けて、落ちてしまうよ」
食べるように促した。彼女が頬を染め、それからおずおずと口を開けてくれた。それだけでレノーは十分だった。
―――そう、今はこれでいい。





*****






「シープドックって機敏ね」
小さなスケッチブックを持ってきて良かった。リリアンは柵にもたれながら、のどかな田園風景を鉛筆で描いていた。レノーはリリアンの横に立ちながら、のんびりと羊と牧羊犬の様子を見ている。
「仕事を与えられて生き生きしてるな」

リリアンはチラリと彼の横顔を盗み見た。

秀でた額に、高くすらりとした鼻梁。女性たちが羨ましがるほど長い睫毛は、くるんとカールしている。つっと手が伸びた。

「リリアン?」
驚いた彼が彼女を見て、その時初めて自分がレノーの睫毛に触れていたことに気が付いた。
「あ、あの。ち、違うの」
「何が?」
パタンと大袈裟な仕草でスケッチブックを閉じると、リリアンはパタパタとワンピースをはたいた。何もついてはいなかったけれど。

「睫毛が」
「睫毛?」
リリアンは顔を上げてレノーを見た。
「睫毛が羨ましいほど長いのねって思っただけ」
そう、思っただけ。けして彼に触れたいと感じたわけではない。
それなのに、レノーは嬉しそうに笑うのだ。
心臓がぎゅっと握りしめられてしまうような、魅力的な笑顔で。


「そんなに僕の顔を見つめていてくれたとは、感激だね」
「銅版画家としての視線よ」
ムキになって答えると、彼の方は余裕な顔をしている。
「美しいものをスケッチするのは、当然だわ」
「じゃあ、僕のことを“美しい”って感じてるわけだ」
「レノー!」
リリアンはぷいっと横を向いた。彼はからかって遊んでいるのだ。


「リリアン、悪かったよ」
ふんわりと後ろからレノーがリリアンを抱いた。

レノーの体は広く逞しい。背中からすっぽりとリリアンを包み込んでしまった。そしてどうしてだか分からないけれども、とても安心できた。

「見せて」
「え?」
レノーがスケッチブックを開いた。
「うまいな、さすがだ」
耳元でレノーの声がして、リリアンは目を閉じた。温かな息が耳と頬にかかる。

「この絵が、僕のオフィスの壁に掛けられる日が来るといいけど。どうだろう?」
「スケッチした絵が全部作品になるとは限らないわ」
そう答えながらリリアンは確信していた。
自分はきっとこの絵をもとに、作品を作るだろうと。そして、それは他人には売らないと。