鏡の前に立つ。
ベージュのワンピースに、ミルク色のカーディガン。ありきたりのコーディネイトにリリアンはため息をついた。
「これってなんだか私らしくない」
レノーにデートに誘われた。詳しく言えば、明らかに『デート』に誘われたわけではない。彼はさり気なくそちらの方向へ話を持って行き、リリアンが気づいた時には二人の間に“約束”がされていたのだから。
レノーのそんなところが、大人だと彼女は感じていた。だから今日の服を選ぶとき、これほどまでに悩んでいるのだ。

「どうあがいても、8歳の歳の差は埋められないわ」
手持ちの服の中で一番大人ぽく落ち着いたワンピースだったけれど、リリアンはジッパーを下げて脱ぎ、ベッドの上にほおり投げた。
下着姿のままクローゼットルームに入ると、真っ白なワンピースを手に取った。
コットンのワンピース。膝丈でふんわりと広がるそれは、リリアンの好きなユリの刺繍が同じ白糸で施されている。
「子どもぽいかもしれないけど」
レノー・ハートリーが普段相手にしているだろう大人の女性とは、明らかに違う装いだろう。けれども、リリアンはそのワンピースが好きだ。
レノーの前では自分を繕うつもりはない。ありのままのリリアン・エセックスでいたい。もし彼がそんなリリアンを見て愛想をつかしたとしても、それはそれでしかたがない。

「だ、だって、そうよ!」
どうしてレノーが気に入るかどうかばかりを考えているのだろう。
「私が着るんだもの、私の自由でしょ」
フンとおよそレディらしくない鼻息を立てると、リリアンは白いワンピースに袖を通した。







約束の30分前にレノーはリリアンのアトリエ前についていた。
「もしかして、リリアンが逃げるかもしれないだろう?」
己に言い訳をしてみたけれども、実際は人生初のデートに出かける少年のようにそわそわしてしまったのだ。

そして10分前、とうとうしびれを切らして玄関ドアの前に立っている。

カチリと小さな音がして、ドアが開いた。


「お待たせしました」

真っ白なワンピースに、赤いカーディガンを羽織り赤いサンダルを履いたリリアンにレノーは見とれた。
「レノー?」
不思議そうな彼女の声にハッとして我に返った彼は、目をぱちくりさせた。
「どうしたの?」
リリアンのピンク色の唇をレノーは見つめた。


無意識だった。気が付いたら彼女の細く折れそうな腰に腕を回し、自分へ引き寄せていたのだ。そして魅力的な唇にレノーのそれが触れていた。

リリアンが驚いたように息をのんだのが分かった。“紳士ならば”今すぐに腕を離し、彼女に丁寧に謝りを入れるべきだ。
頭では分かっている。けれどもこの唇を離すことなど無理だ。

だからレノーは本心に従うことにした。

掴んだチャンスをみすみす棒に振るレノー・ハートリーではない。
瑞々しいリリアンの唇としなやかな体を十分に堪能する。ほっそりとした首筋へ唇と移すと、彼女がひどく動揺しているのが分かった。レノーは柔肌に口を付けたまま微笑んだ。
「君はとても甘いよ、リリアン」
「レノー…」
掠れたような彼女の弱弱しい声がかえって彼の欲望を駆り立てる。

―――やりすぎだぞ、レノー・ハートリー

今度は己の声に耳を傾けることにした。しぶしぶ唇を離すと、レノーはリリアンの薄茶色の瞳を覗きこんだ。白い頬を指の関節で触れる。リリアンの長い睫毛が数回瞬きをした。

「…行こうか」
「え、ええ」
リリアンが戸惑っている間に、さっさと車へ押し込むなどおよそ紳士とは言えないな。
レノーは内心苦笑いをした。年下の彼女に夢中になってしまった。それもキスなのに。百戦錬磨だとは言わないが、それでもそこそこ経験を積んだ自分が、一瞬我を忘れてキスに没頭してしまった。こんな人目がある場所で。
リリアンの祖父リスター伯爵には、今日のうちに報告が上がることだろう。
近々、伯爵から声がかかることは間違いない。その時に備え、言い訳を考えておかなければ。

リリアンの小さな手を掴みながら、レノーは考えていた。






思いがけないキス。

あれがキスなら、いままでリリアンがキスだと思っていたものは何だったのだろうか。レノーが右側のドアミラーを確認している間に、リリアンはそっと唇に指をあてた。
ほんの少しふっくらとしている。レノーの唇に翻弄されて腫れてしまったのだろう。

余りに淫らで、余りにそそられるキス。
小さな喘ぎ声が出てしまっていたことに、頭のどこかで感じていた。キスだけであんなにも感じてしまうとしたら、レノー・ハートリーとベッドを共にしたら一体どうなるのだろうか。

「…きっと、意識がなくなるわ」
「何か言った?」
「いいえ、何も」
ハンサムな彼の横顔をリリアンはわざと見つめた。自分があのキスで動揺していることを隠したい。主導権をレノーに奪われたくないのだ。―――もう二度と傷つきたくないから。


「どこへ連れて行ってくれるの?」
そう言えばレノーから行き先を聞いていないことに、リリアンは気づいた。
“約束”をした時から今の今までそんなことに気が回らなかったとは、我ながら間抜けだ。
「羊だよ」
「羊?」
リリアンが思ってもみなかった答え。
「羊ってあの羊?」
「僕が想像している羊と、君が想像しているそれが違わないことを願うよ」
面白そうに彼が笑う。
「僕はシープドッグトライアルが好きなんだ」
「そうなの?」
世の中の誰がレノー・ハートリーと牧羊犬の競技を結びつけるだろうか。
「大好きなんだよ」
ニコニコと笑うレノーは、まるで少年のようだ。リリアンはその屈託のない笑みに見とれていた。
ふと自分がレノーを見つめていることに気づいたリリアンは、慌てて目を反らした。彼の方は運転に集中しているようだ。

「じゃあ、練習しているところを見に行くの?」
「今日は、羊が放牧されているところへ行くだけだよ。運が良かったら、シープドックが羊を追いかけている姿が見られるかもね」
「そう…」
なんだか妙な具合だ。一般的に言って“初めてのデート”が羊のいる草原なんて、あり得ない。けれども相手はレノーだ。

リリアンはふと肩の力を抜き、シートに体重を掛けた。気取ったベージュのワンピースとエナメルのパンプスにしなくてよかった。羊を見るのに、まるでホテルのレストランで食事をするようなワンピースではちぐはぐになってしまう。
ピアスも伯爵家に伝わる年代物のジュエリーにしなくてよかった。今リリアンが付けているのは、パヴェダイヤとルビーのピアス。20代の女性が無理なく身につけるられるごく普通のモノを選んだ。

祖父と連れ立って“リスター伯爵令嬢”として出かける時はともかく、それ以外はただのリリアン・エセックスでいたい。リリアンの思いと裏腹に、それはとても難しいことだったけれど。

レノーと居る時は、それができるような気がする。―――その理由は、なぜだか分からない。


真っ白なシャツは彼の性格―――嘘偽りのない真っ直ぐな性質と、人とは違う強烈な個性―――を表しているような気がする。一見何でもない白いシャツに見えて、実はボタンに沿ってトリコロールのラインになっている。4つボタンを肌けられているから、リリアンに分かったのだけれども。紺とグレーの中間色のようなコットンのパンツ。
世の中の男性は彼と並んで歩くのを嫌がるだろう。脚の長さの違いに気づかれてしまうから。


「窓を開けてもいいかな」
気が付くと郊外の道を走っていた。
「エアコンよりも外の風を感じたいんだ」
レノーの言葉にリリアンは頷いた。
「私もそうよ」
「きっとそうだと思ったよ」
レノーが微笑む。
「どうしてそう思ったの?」
リリアンはつい聞き返していた。“きっと”だなんて、まるで自分のことを熱心に見つめる崇拝者のようではないか。

「リリアンの作品は、どれもどこかそよ風が吹いているようだからだよ」
さらりと彼が言った言葉に、リリアンの胸がドキンと大きく動いた。





*****




「羊って言ったのに」
リリアンが口を尖らしている。レノーはそんな彼女の飾らない姿に目を細めた。田舎の空気は彼女が普段身にまとっている透明なヴェールをすこしだけめくり上げてくれるのかもしれない。
「羊はいるだろう?ほら向こうに」
レノーが指をさした先にゴマ粒ほどの羊が“確かに”放牧されている。
彼の指先をちらっと見たリリアンが、それでもまだ拗ねたような顔をした。リリアンがそんな顔をするには訳がある。レノーが車を止めた建物が洒脱なレストランだったからだ。

「その服、似合っているよ」
「でも、このお店にはカジュアルすぎるわ」
「そんなことないよ。今はランチだ。ドレスコードは厳しくないし、それにその服でディナーの席に着いたって誰も文句を言わないと思うよ」
そうさ、女神だと思ったのだから。玄関から現れた彼女に目を奪われたのは、他でもないレノーだ。
「とても凝った刺繍だ。それに上質なコットン生地だろう?」
遠めに見たら気づかないかもしれないけれども、近くで見るとよく分かる。刺繍は職人の手縫だろう。カッティングも美しく、リリアンの清純さにピッタリだった。
驚いたのかもしれない。リリアンが目を見開いた。車から降りレストランの入口へ向かう間、レノーはリリアンの手を掴んでいた。
彼女の足が止まる。

「…詳しいのね」
その声にほんの少しだけ刺々しさが隠れているような気がした。
「女性服に詳しいなんて…。その理由を当ててみましょうか?」
間違いない。リリアンの口調に明らかな苛立ちが感じられた。
それは“良い傾向”なのだろうか?それとも“悪い傾向”なのだろうか?

美しい口元が―――レノーがキスを堪能して、今もまたそうしたくてたまらない唇―――、きゅっとすぼまった。
これは“悪い傾向”だと理解しようか。

「僕はアナリストだよ。当然、ファッションの分野の流行だって知らなければならないさ」
我ながら言い訳じみていると、彼は思った。
けれども、彼の言葉にリリアンの眉間の皺が緩んだのがわかる。それならばこの言い訳は吉と出たということだ。
彼女はたぶん、レノーの女性遍歴を暗に示したのだろう。
自分は30代だ。近寄ってくる女性たちが多いことは事実だし、女性服をこの手で触れたことは数えきれないほどある。けれどもそんなことはリリアンにわざわざ教えることではない。

実際、自分のこの手で積極的に触れたいと感じたのは、リリアン・エセックスの服だけなのだから。


レノーは身を屈めてリリアンの可愛らしい耳元に顔を寄せた。

「僕が触れたい服は、リリアン、君が身にまとうモノだけだよ」
「え…?」
白い肌をピンク色に染めたリリアンが、レノーを見つめ返してきた。
「僕が言った意味、正しく理解してほしい」
彼女が口を開く前にレノーは歩き出した。

―――今はまだ、彼女の口から答えを聞く時ではない。
リリアンの心の扉は、閉じたままなのだから。