チェギョンはご機嫌だった。だから、黒い椅子に腰かけたまま、脚をブラブラとさせている。

「嬉しそうだな」
彼女の向かい側に座る夫のシンがそんなチェギョンを目をすがめて見つめた。
「うんっ」
チェギョンはスプーンでイチゴのアイスクリームを一口掬って口に入れた。
「美味しい」
「それは良かったな」
シンがチェギョンの頭をそっと撫でた。

「だって、やっと親知らずの痕が沁みなくなったんだもん。それに大好きなイチゴとミルクのアイスクリームだし」
夫に『ひとりでは出入り禁止』と言われているコーヒーショップ。今日は親知らずの完治を祝って、ここへ連れてきてもらった。
「ねぇ、もう一つ食べてもいい?」
「お腹が痛くなるぞ」
「そうなったら、シン君が介抱してくれるでしょ?」
期待を込めつつ少しだけ上目遣いに夫を見ると、彼は満足そうに微笑んだ。どうやら『もう一つ食べてもいい』と言うことだ。

「じゃあ、何にしようかなぁ」
チェギョンはカウンターの上にあるメニューを見ようと、体をよじった。


「あれ?あれは、クリスティーナよね」
「どこだ?」
「カウンターにいるわ」
親知らずを抜いてくれたクリスティーナがアイスクリームを受け取っている。じっと見ていると、チェギョン達に気づいたらしい。軽く手を挙げて応えてくれた。



「もう沁みないってことね」
クリスティーナが隣の席に座り、チェギョンの前に置いてある白い陶器の小さなボウルを見た。
「うん、もう大丈夫よ。ありがとう」
彼女がお礼をすると、歯科医はニッコリと微笑んだ。それからおもむろにシンに顔を向けたクリスティーナが、チェギョンが思いもよらなかったことを口にした。


「あと2本ね」
「ああ、そうだな」
シンの方はそれで通じるらしい。チェギョンは二人の会話よりもアイスクリームに夢中。
「都合のいい日を予約してちょうだい」
「分かった。急ぎではないだろう?」
「そうね。だって虫歯ってわけでもないし。シンの体の空く時でいいわよ。どうせついてくる気でしょ」
夫がムッとした顔で言い返している。
「僕はチェギョンの夫だぞ」
彼の言葉に、クリスティーナは肩をすぼめただけだったけれど。

「何の話?」
チェギョンが無邪気に二人に尋ねた。

「チェギョンの親知らず、あと2本残ってるから、それも抜くってことよ」
「えっ…」
チェギョンにとっては天国から一気に地獄へ落ちたような気持ち。ところがクリスティーナと来たら、優雅にスプーンでアイスを食べている。


「い、いやっ。だって虫歯になってないもん。抜く必要ないでしょ?」
「あらダメよ。だって噛み合わせに影響するわ」
チェギョンは頬を両手で挟んだ。
やっと腫れも引いて、人前に出られるようになったというのに。
「今度はそんなに腫れないわよ、私が保証するわ」
クリスティーナが淡々と理由を説明し始めたけれど、チェギョンは聞いていなかった。

慌てて立ち上がると、脱兎のごとく店を抜け出した。



「チェギョンっ。待つんだ!」
妻が怯えたような顔をした時、シンはすかさず手を掴もうとした。一瞬早く妻が立ち上がり、普段のおっとりした様子からは考えられない素早さで店を飛び出していったのだ。

「あら、逃げちゃったのね」
「とにかくその話はまた今度だ」
シンはクリスティーナの答えを聞く前に、妻の後を追った。



『痛いのは嫌だ』などと子どものように痛みに怯えるチェギョン。あの大事な妻が痛みをこらえている様子を見るのは、シンとて辛いことだ。
「どこ行ったんだ?」
かくれんぼが下手なチェギョンだけれども、生憎ここはシンたちの自宅ではない。隠れる場所が無数にある。
シンは立ち止って考えた。やみくも探したところで、時間のロスだ。それにチェギョンのことだから、きっと泣いているだろう。妖精のような容姿を持つ妻が泣いている姿。
飢えたオオカミたちが群がってくるに決まっている。

一刻も早く探し出さなければ。

「まずはリズだ」
義姉のリズはチェギョンの退避場所。何があればリズを頼っている妻のことだ、今もリズのもとへ行ってるかもしれない。
ポケットから端末を取り出すと、シンはリズに電話を掛けた。



「なに?」
リズがうっとおしそうに返事をした。その声でシンはピンときた。兄のアレックスとベッドに籠っているのだろうと。
「いや、大したことではない。チェギョンはそっちに行ってないな」
「来てないわよ。またケンカしたの?」
「ケンカなどしたことないっ」
チェギョンを泣かせたことはあるけれど―――もちろん、意図せずに―――、ケンカなどした記憶はない。
それだというのに他人からすると、シンの認識をずれているらしい。事実リズが鼻で笑っているのだから。
「チェギョンが来たらつかまえて置いてくれ」
「分かったわよ」
「兄さんにも伝えてくれよ。どうせ、今、リズの体の上にいるんだろう?」
「あら残念ね、ハズレよ。アレックスはシャワーを浴びてるわ」
どうやら、昼下がりの情事は終わりらしい。シンはフンと笑い、端末を切った。


時間的に、まだチェギョンはリズの家へ着いていないのだろう。シンは車に戻ることにした。なんとなく妻は真っ直ぐにリズのところへ行くような気がするのだ。
リンジー家に行けば、夫人にその理由を説明しなければならず、妻にとっては得策ではない。なにしろ義母は至って常識的な女性だからだ。娘が抜歯を嫌がっていたとしても聞いれないだろう。それを分っているチェギョンが、彼女の両親のもとへ行くはずがない。

ティナは子どもを産んだばかりで大忙しだ。当然チェギョンはそんなレイフォード家に行くような非常識な考えはない。

ジュディは?
クリスマスが近いホリデーに、あのジュディ・ハミルトンが自室でのんびりとしているはずがないだろう。夫のパトリックの右腕として、ホテルのイベントを指揮しているに決まっている。

当然行き着く答えは、リズとアレックスの家だ。

そう結論づけ、車のエンジンをかける。うまくいけば、チェギョンがリズの家に着く前に自分が先に到着することができるだろう。



*****




バスの乗り継いでリズの自宅へやってきたチェギョンは、キョロキョロとあたりを見渡した。
地下鉄を使うと夫に掴まってしまうかもしれないと考え、面倒だけれどもバスを乗り継いできたのだ。シンは大層優しい夫だけれども、チェギョンの健康状態を守ることに関しては妥協しない。
使命感に燃える夫の目を見るたびに、ちょっとした恐怖感を感じることもある。

どうして彼はあんなにも真剣なのだろうか?
母に話したところ、コロコロとピッコロのような笑い声を立てていた。
「シンはチェギョンが大事なのね。ずっと一緒にいたいのよ」
「そんなに私、柔じゃないわ」
多少疲れやすいというところはあるけれど、チェギョンは健康そのもの。夫が危惧するような事態に陥るなどあり得ない。
「そうね。私もパパもそう思うわ。あなたは健康よ。でもシンは不安なのね」
「どうして?」
「…愛はそういうものよ。他人からは確実に見えるモノも、本人にとっては不安定に感じるってことかしらね」
母が意味ありげな顔でチェギョンを見た。
「チェギョンだってシンのことで不安なこと、あるでしょう?」
そう言われて、チェギョンは頷いた。

夫にもしものことがあったら?夫に恋人ができたら?

いつだって心のどこかに不安を抱えているのだから。

「そういうことよ。だから、彼の好きにさせておきなさい。それでシンが満足するならいいでしょ」

「う、うん…そ、そうね」

母の言葉を全部理解できたわけでもないけれど、夫が自分を束縛することはそれ以外では皆無―――チェギョン以外の人は違う意見だろうが―――なのだから。



「リズ、いるの?」
ノッカーを叩き、それから小さな声で聞いてみた。

「チェギョン!」
全部の単語を言い終わる前に、ドアが開いた。そして気づけば、誰かの腕の中にいたのだ。彼女は知っている。自分を抱きしめているのが夫のシンであることに。
「シン君…どうして?」
「とにかく中へ入ろう」
ギュッと腰を掴まれたまま、チェギョンはリズの家の中へ連れ込まれた。シンは素早くドアのカギをかけ、それからしっかりとチェギョンを掴んでリビングへ進みだした。
チェギョンはチラリと夫を見た。
「あ、あのぉ。鍵を掛けなくても、私、逃げないもん」
「そのことについては、返事をしかねるね。さっき逃げ出したのは誰だった?」
彼の言葉に彼女は口を閉じた。


「チェギョン、遅かったわね。待っていたわよ」
リズが明るい声で迎えてくれて、チェギョンの気持ちは少しだけ楽になった。
「アイスクリームショップの隣のコーヒーショップにいたんですってね。シンってば気が利かないわ。アイスを買ってこなかったのよ」
シンを睨みつけて入る。
「あ、でもぉぉ。シン君にはアイスを買う時間がなかったと思うの…」
多分彼のことだ。すぐに自分を追いかけていただろう。
「あら、でもアイスを買う時間ぐらいあったはずよ」
リズがブシンに向かって顎を上げた。
「緊急事態だったんだ」
「優先順位の付け方が間違ってるわ」
いつになく執拗にリズが夫に絡んでいる。

チェギョンはシンと一緒にソファに座った。アレックスがチェギョンの好きなトライフルをトレイに載せてやってきてくれた。

「チェギョン、奥歯の治療が終わったんだってね。そのお祝いだ」
「ありがとう」
アレックスがにっこりと優しく笑いかけてくれた。

「ここにアイスクリームが乗っていれば、完璧だったわ」
リズが不満そうな顔でシンを見た。彼はムッとした顔をしている。


「シン君は悪くないのっ」
チェギョンは立ち上がると大声で叫んでいた。

自分の考えは間違っていなかった。彼はチェギョンがコーヒーショップから飛び出したとき、すぐに追って店を出てきたのだ。リズの言う通り、アイスクリームショップでアイスを買う時間だってあっただろうに、彼はそのことよりも自分を探すことを優先してくれたのだろう。

―――私って、なんて子どもみたいな態度をしてたの?


夫が心配してくれることが『当然のこと』だと思うなんて、思い上がりも甚だしい。夫に愛されて大事にされることが当たり前になっていたのだと、チェギョンは改めて感じた。それだけシン・ジェラードの与えてくれる愛情が大きいということだろう。

「…ごめんなさい。シン君、ごめんね」
「チェギョンが謝ることなんてないんだ」
シンが素早く立ち上がる抱きしめてくれた。チェギョンは彼の腕の中で首を振った。
「ち、ちがう。私、我がままだったの。シ、シン君が私のことを、し、心配してくれてるのに」
大きな手が背中をゆっくりと撫でる。
「しぃー。ほら、落ち着いて」
彼は彼女の耳元で何か小さく呟きながら、優しく抱きしめてくれた。


「落ち着くところに落ち着いたみたいね」
リズが満足げに声をかけ、チェギョンは夫の胸の中から顔を上げた。
「リズ…あっ」
どうにもおかしいと思っていたのだ。リズとシンはなんだかんだと言い合いをする相手だけども、義姉は無慈悲ではない。むしろ親切心と優しい心の持ち主だ。
そのリズが執拗にシンに絡むと思っていたけれど、それはチェギョンに夫の愛の大きさを気づかせようとしたのだろう。


「さ、座ったらどう?アレックスが作ったトライフルを食べましょ」
「うん」
リズに促されてチェギョンとシンは並んで腰を下ろした。



「シン君…あの、あと2本も抜いたほうがいい?」
チェギョンがおずおずと聞いてきた。シンは妻の艶やかな髪を撫でた。
「僕は歯科医ではないから、判断できないな。でも、さっきディヴィットがクリスティーナに言ったそうだよ」
「なんて?」
シンはにこやかに微笑んだ。このことを話したら妻はとても喜ぶだろう。
「ディヴィットは『まだ虫歯になっているわけでも、噛み合わせが致命的なことになっているわけでもないし。チェギョンがあんなに怖がるなら、何年か先に延ばしてもいいだろう』と言う見解らしい」
「本当?」
「本当だよ。だから、もうそのことは心配しなくていいから。大好きなトライフルを食べよう」
「うんっ」
心底ほっとしたような顔でチェギョンが満面の笑みを見せてくれた。

シンがちらりとリズの顔を見ると、彼女がチェギョンのために喜んでくれているのがわかる。と、シンと目があった瞬間、いつもの『いたずら好きな義姉』の顔に戻ってしまったけれど。



*****



「本当はね、やっぱり抜くのが嫌なの」
二人のベッドで寛いでいると、チェギョンが顔をシンの方へ向けてきた。ベッドヘッドにもたれ、シンの脚の間にちょこんと座った妻は、膝の上でチクチクと刺繍をしている。
注射器の刺繍付きのハンカチは今は山のように増え、チェギョンは時々、バンダナのようにリボンのかわりに髪に結んでるときもある。彼女が可愛がっているぬいぐるみたちは、彼の使用済みハンカチを首に巻かれたり、スカーフのように頭に被せられたりしている。

「じゃあ、よかったな」
「うん…。シン君、あのね」
脇に刺繍を置くと、チェギョンは体の向きを変えシンの正面にまたがった。

「どうした?」
彼の胸に行儀よく両手を置くと、妻は頬を寄せてきた。
「―――シン君が大好きって思っただけ」
「僕もチェギョンが大好きだよ」
彼の言葉に妻は小さく頷いた。


「逃げ出したとき…心配した?」
「するに決まってるさ。まさかバスに乗ったとは思いもよらなかったよ」
チェギョンがクスクスと笑っている。
「シン君の裏をかけたとしたら、私って少しだけ知恵がついたってことね」
「そうだね。でも、そんな知恵は僕たちには不必要だよ」
チェギョンが顔を上げ、シンの頬を撫でてきた。
「これからは、シン君の言うことをちゃんと聞くね」
「今でも十分聞いてると思うけどね。時々、そうだな、困ったお嬢ちゃんになるときがあるかもね」
彼女が微笑んだ。

「そんな私も好きでいてくれるぅ?」
「もちろんだよ。チェギョンはチェギョンのままでいいんだ」
シンの言葉にチェギョンは大きく目を見開くと、ドシンと抱き付いてきた。
「シン君が私のシン・ジェラードで良かった」
妻のくぐもった声が聞こえる。彼は彼女のつむじにキスをすると、
「チェギョンが僕のチェギョン・ジェラードで良かったよ」
満足そうに呟いた。


~end~