こちらの記事を読む前に、「歯が痛いときには3」をどうぞ。(←文字の色が変わっている箇所をクリックまたはタップすると記事跳べるようになっています。)
 
 
☆☆☆
 
 
「クリスティーナが間に合ってよかったぁ」

チェギョンは痛む頬を押さえながら、シンに笑いかけた。

麻酔をする直前にクリスティーナが診察室に現れ、半ばひったくるようにディヴィットの手から注射器を奪い取り治療を始めたのだ。シンとクリスティーナがなにやらやり取りをしていたけどチェギョンは聞いてなかった。それよりも治療に気持ちを向けていたから。

ふんわりと二人のベッドに下ろされる。
「やっぱり痛かったもん」
「麻酔が?」
シンの大きな手が滑るように頬を撫でてくれる。チェギョンは目を閉じた。抜歯の間ずっと彼は自分の手を握っていてくれた。痛みを堪えぐっと力を入れると、シンの親指が円を描くように手を撫でてくれて力が抜けていったのだ。

「チクってしただけだろう?」
「そうだけどぉ。薬が入ってくる感覚がいやっ」
チェギョンが顔をしかめると、夫が笑った。
「採血の時は『血が抜かれる感覚がイヤ』って駄々をこねるのはどこの奥様だったかな」
「うぅぅんっ、シン君の意地悪」
チェギョンが睨みつけると、夫は笑っている。
「前回の時よりも随分楽そうだな」
「うん」

初めて親知らずを抜いた時は大変だった。思っていたよりも時間がかかり、ぐったりしてしまったのだから。
「二回目だから」
「そうだね」
そうはいっても痛いものは痛い。鎮痛剤が切れてきたら、ズキズキと痛むのは必須。

「―――なんだか眠たい」
「眠りなさい。僕はここで仕事をしよう。部屋から仕事の一式を持ってくる」
「じゃあ、書斎まで一緒に行く」
チェギョンはベッドから起き上がった。
「すぐに戻ってくるよ。ここで待っていればいい」
「待ってるのはイヤなの」
同じ家の中にいるけれども、夫の姿が見えないのは不安だ。
「だってぇ…痛いんだもん」
独りでいると痛みが増してくるような気がする。
「置いて行かないで」



妻の切実な瞳を見ると、シンは毎回『NO』と言えなくなってしまう。
同じ家の中にいるのだ。階段を下りるだけではないか。
けれども、チェギョンのあの泣き出しそうな顔を見たら
「じゃあ一緒に行こう」
と答えていた。どこまでも妻に弱い自分を認識する。
しかたがないではないか。妖精チェギョンが自分の妻なのだ。こうして彼女が甘えるのは、世界広しと言えどもシンだけだと断言できる。そして彼はそんな栄誉ある存在になれたことを、心から喜んでいるのだから。


「ほら、おいで」
シンが身を屈めるとチェギョンが素直に首に腕を巻き付けてきた。
彼女を横抱きにしながら部屋を横切る。

「パソコンは私が持つね」
嬉しそうなチェギョンにシンは微笑んだ。
「責任重大だぞ?チェギョンにできるかな」
「できるわ」
真面目くさった彼の言葉に、妻も同じノリで答えてくれる。
「チェギョンにならお任せできるよ」
「嬉しいっ」
そうだ。チェギョンは全面的に信頼できる。妻が自分に向けてくれる真っ直ぐな愛は、嘘偽りのないものだから。
シンは妻の額にキスをした。沢山の想いを込めて。



*****



「ねぇ」
「うん?」
パチパチと夫がキーボードをたたく音を聞きながら、チェギョンは目をつぶって痛みに耐えていた。鎮痛剤は半分効いているような中途半端な気分。完全に痛みが取れるわけでもなく、腫れてきた頬に違和感も感じる。痛くない方を枕につけて、彼女は夫の姿を見た。
この部屋で仕事をする事は普段ない。だから、彼はソファの前に置かれたセンタテーブルにパソコンを置き、自分は絨毯の上に長い脚を投げ出して座っている。

彼があんなにも座りにくそうな姿勢で仕事をしている理由は、自分にある。彼に対して申し訳ない気がする一方で、シンにとって最優先事項がチェギョンであるということに喜びを感じてもいた。

―――私ってば、イケナイ妻ね

難しい顔で液晶画面を見つめるシンを眺めながらチェギョンは呟いた。

「クリスティーナは、どうして自分で治療してくれたのかなぁ」
チェギョンはずっと疑問だったことを口にした。
「どうして?」
液晶画面から夫が視線を外し、チェギョンを見た。たったそれだけの事なのに、ふわりと胸に広がる幸せな気持ち。彼に見つめられることが、チェギョンにとって何よりも嬉しいことだと言ったら、人は笑うだろうか。

「うーん。ディヴィットも十分上手だと思ったの」
実際ディヴィットはとても器用な歯科医だろうとチェギョンは感じた。クリスティーナが優秀な歯科医だと夫が言うその言葉も信じているけれど、ディヴィットも同じぐらい優秀だろうと思ったのだ。
もちろんクリスティーナの治療を受けることができて良かったけれども、あのままディヴィットでも困らなかっただろう。男性全般は苦手だけれども、ディヴィットはアレックスに診察してもらのと大して変わらない気がしていたのだ。

「わざわざ、代わってくれなくてもよかったのにね」
チェギョンはシンをみて笑いながら言った。





「いや、代わってよかったんだ」
シンは不機嫌だ。妻は男の歯科医の治療を受けたかったのだろうか。
「え?」
キョトンとしたチェギョンの顔を見て、シンはイライラした。
「チェギョンはあの“男の歯科医”に触れられる方が好きだったのか?」
シンは立ち上がるとベッドに向かった。頬の下に手を入れて、こちらを向いて寝ているチェギョン・ジェラードの可憐なこと。妻が先ほど口にした言葉がなければ、シンはその悩ましい姿を何時間でも眺めて満足することができるだろうに。

「ディヴィットもクリスティーナと同じぐらい上手だったわ」
『上手』だと?その言葉をチェギョンの口からききたくない。彼女に『上手』だと言われていいのは自分だけだ。
シンはますます不機嫌になった。

どすんとベッドの端に腰を下ろす。チェギョンの軽い体がマットレスの衝撃で揺れた。
普段の彼ならば、体調の悪い妻のことを考えそっと腰を下ろすだろう。けれどもそんな気分になれない。

幸いと言うべきか、彼の可愛い妻はそんな夫の些細な心には無頓着で、嬉しそうに手を伸ばしてきた。
彼女の方は夫に触れたくて仕方ないらしい。
―――そのことについては、大いに賛成だが。
チェギョンがシンの手首を掴んだ。そしてゆっくりと自分の腫れた頬にその手を持って行った。

「うぅぅん」
気持ち良さそうに目を閉じた彼女が、ため息を漏らした。
「こうしてシン君の手があると、腫れた痛みが消えて行くの」
幸せそうな顔で彼女が言う。チェギョンのそんな言葉とこの表情を見て、怒りが消えて行かない男がいるだろうか。いや、いないだろう。
シンは降参した。

「どうして、クリスティーナのことが不思議なんだ?」
優しい声で妻に問う。結局のところ、チェギョンが愛おしい。ましてや彼女は「おたふく風邪みたいに顔が腫れるの」と泣きだしそうになっているというのに。
『上手』という単語は、今後一切他の男につかっていけないということは、妻が回復してから彼女の体に思う存分刻み込むことにしよう。

「クリスティーナたちは恋人?」
「そうだろうな」
シンはクリスティーナの姿を思い出した。仕事に対して真面目な彼女が、自分との約束を守らず遅れて出勤してきたこと自体おかしかった。
「とっても大事な用事があったのね。予約していたのに」
無邪気なチェギョンの言葉に、シンはニヤリと笑った。
「きっと、ディヴィットがクリスティーナを起こさなかったんだよ。疲れて寝ていたんだろうな。いや、昨日は寝ていないかもしれないよ」
「あ…」
チェギョンも人妻だ。それもシン・ジェラードの。彼の言葉でクリスティーナたちの関係にピンときたのだろう。
「ディヴィットもなかなか体力があるんだな。翌日が仕事だというのに」
「シン君ったら、ダメよ」
チェギョンが弱弱しく口を挟んだ。彼女の夫が翌日も仕事だろうが、お構いなしに“励める”だけの体力の持ち主だと思い至ったのだろう。


「ディヴィットの方は僕と同じタイプってことだな」
「シン君っ」
チェギョンが真っ赤になりながら、厳しい顔で睨みつけてきた。
「でも…クリスティーナが仕事にならないってことは大変な失態だよ。僕はチェギョンをそんなふうにしていないだろう?」
「だって、私は学生だもの…」
彼女が恥ずかしそうに答えた。

 

 

「今度」
シンはチェギョンの上にまたがると、彼女の体の両脇に肘をついた。
「チェギョンの歯の治療が終わったら」
妻の鼻の先にキスをする。
「―――僕もディヴィットを見習って、翌日までチェギョンをベッドに寝かせておくぐらい励もうかな」
彼の言葉に彼女は大きな目を開けて見返してきた。
「どうだろう?僕の提案に同意してくれるかな、奥様」
細い腕が伸びてきて、シンの頬を撫でる。
「いいわ。試してみて…だんな様」
妖精が妖艶なセイレーンに早変わりした。


―――歯が治った暁には。

二人の視線がぴたりと合う。心の中で考えことは同じだっただろう。


「今はこれで我慢しよう」
シンの掠れた声にチェギョンは目を閉じてキスを待った。