『あまり好きではない人間』と表現してみたけれど、それは適切な言葉ではないことにチェギョン・バセットは気づいた。
「つまり…『大嫌いなタイプ』って言い切った方がピッタリってことかな」
鏡の前で後姿をチェックしながらチェギョンは呟いた。赤と黒のブロックチェックのスカートの形を決める時、少しばかり彼女は考えた。今までそんなふうに決断できなかったことはない。直感で「このデザインがいい」と決めていたから。
 
結局、夫のシンが背後から肩を抱いて来て耳元で「チェギョンはチェギョンらしくいてくれ」と囁いたことで、彼女はスカートの形を決めた。膝下のAラインのスカートにするか、ミディ丈のロングタイトにするか、それとも最初からのイメージ通り膝上のサーキュラースカートにするか決めかねていたのだ。
 
クルンと回るとウールの重みのあるサーキュラースカートの裾が翻る。黒いタイツに黒いロングブーツ、黒いタートルのノースリーブニットを選んだ。
「ほらね、こっちのほうが私らしい」
そうだ。その通り。『チェギョンらしい』だろう、間違いなく。
 
―――でも、子爵夫人らしい…?
 
鏡の正面で自分とにらめっこする。昔から自慢の髪だった。サロンで艶艶に仕上げたミディアムの髪はシンも気に入っている。なにより愛する人と一緒になれ、幸せのオーラが溢れ出ているような顔は、目を引くほどの美人だとは思っていない彼女自身も「結構、いいのでは?」と自画自賛してしまうほど輝いて見えた。
 
「なかなか降りてこないから、どうしたのかと思ったぞ」
「シン」
振り返ると夫が笑いながらドア枠を掴んで立っていた。カーキのダウンコートに、白いハイゲージニット、ライトグレーのフラノのパンツ。彼らしく足元はカーキのコンバースハイカットでカジュアルダウンしていた。
「ふ、服がなかなか決まらなかったから」
嘘ではない。アイテムは決まっていたけれど、このスカートの形にしてよかったのか、いまだにうじうじと悩んでいた。
 
 
 
珍しく妻が元気がないことにシンは気が付いた。鏡の前に立っていた彼女は何か思い悩んでいるようだ。だから敢えて心配そうなそぶりを消し、明るく声を掛けた。スカートの裾を掴み彼女が何か考えている。シンは妻に近づいた。華奢な肩を抱き自分の方へ体を向けると、チェギョンがようやく顔を上げてくれた。
 
妻の髪は彼女自身も自慢らしい。艶艶と光り思わず手で触れて見たくなる。当然シンは触れた。夫である自分の特権でもある。そっと耳に掛けると、結婚のプレゼントとして彼が贈ったダイヤのピアスがきらりと輝いた。何か言いたげに見つめてくる大きな瞳。
シンは優しく彼女の額に唇を寄せ、その視線を遮った。それから小さな頭を胸に抱き寄せた。
「どうしたんだ?気になることがあるなら、僕に話して。何でも話し合える二人になろうって誓っただろう?まさかもうその誓いを破る気か?」
少し冗談めかして言うと、彼女の体から力が抜けた。
「破るわけないでしょう?私はそんないい加減な人間じゃないもん」
背中に廻った小さな拳が、トンと彼を叩いた。
「それならどうしてそんな顔してるんだ?」
「どんな顔してた?」
「そうだなぁ…。大嫌いな薬を飲まされる子どもみたいな顔かな」
愛らしい笑い声が聞こえ、シンはホッとした。
「シンは子どもの時、薬が苦手だったの?」
「誰だって苦手だろう?」
チェギョンが顔を上げた。さっきまで浮かんでいた表情は消え、普段の彼女に戻っている。細い指がツンと彼の鼻の頭を押してきた。
「残念でした。私は平気だった」
「嘘だろう?」
勝ち誇ったように彼女が顎を上げ、そして笑った。シンが愛してやまない彼女の笑顔。
 
 
「チェギョン、そのままのチェギョンが好きだ」
「シン…」
何か胸に秘めた思いがあるのだろう。全てをさらけ出してほしいと願いつつ、彼はそれ以上突き詰めることはしなかった。
「うん」
彼女が頷き、二人はキスをした。
「さあ、行こう」
「あ、待って!バッグが…」
「これかな」
「え?」
シンは妻に微笑み、それから彼女のクローゼットルームに入った。フワフワのフェイクファーの巾着バッグは、前からチェギョンが欲しがっていたものだ。彼がそれをもって彼女の前に姿を見せると妻が
「シンっ」
勢いよく飛びついてきた。
「欲しいって言った時『チェギョンはいくつもバッグを持っているだろう?』って言ったくせに!」
「あの時既にオーダーしてたんだ」
クスクス笑う彼女。
「そうやって素直に教えてくれればよかったのにぃ。ちょっとだけシンの事恨んだけど」
「それは困ったことだ」
「ちょっとだけよ」
そう言って彼女が人差し指と親指の腹をくっつけ、悪戯そうに目を細めていた。
「チェギョン…そんなふうにいつも屈託ない顔を見せてくれ。チェギョンが幸せなら、僕も幸せだ」
「…大したことじゃないの。でも、もう忘れちゃった。シンがこのバッグをプレゼントしてくれたから」
 
 
「おやおや。バッグのおかげか?」
夫が残念そうな声色を出した。いつもそうだ。チェギョンが落ち込むと彼は楽し気に声を掛けてくれて、いつの間にか彼女の不安を消し去ってくれる。
「シン…シンの妻になって、私がどれほど幸せか知ってる?」
「チェギョンの夫になって、僕は言葉で言い表すことができないぐらい幸せだ」
「―――シン」
あの日、シンがチェギョンのドレスにシャンパンをこぼさなかったら、出会わなかった二人だ。
「私ね、シャンパンが大好きって宣言したい」
「なんだ、突然に」
「いいの!」
「分かったよ。今日のところはひとまずこれで終わりだ。車が待ってる」
肩から黒いトレンチコートを羽織り、チェギョンは彼と手を繋ぎながら部屋を出た。
 
 
 
****
 
 
 
「シンがあんなにも若い妻と結婚するなんて思わなかったな」
親友のジョシアの視線の先にはチェギョンがいる。
「どんな妻ならいいんだ?」
「驚いたな…そんなふうにシンが突っかかるなんて。冗談に決まってるだろう?」
親友のどこか面白がるような口調に、シンは黙った。無言でグラスを傾ける。
「ふーん…無視する気か。だとすると…」
ジョシアが目を細めた。だからシンはあえてまっすぐに視線をむけた。
「無視などしてないぞ」
「そうやってムキになるのがお前らしくないって言うか…実はそれが本当のシン・バセットなのかもな」
「―――勝手に言ってろ」
親友とのくだらない会話を打ち切り、シンは妻のほうへ顔を向けた。赤いブロックチェックのスカートはよく似合っている。女学生のような姿をしている彼女を、彼はこよなく愛おしく想っているから。
「ほらほら、蕩けそうな視線だな」
「蕩けても、蕩けなくてもジョシアには関係ないだろう。黙ってろよ。ん?」
チェギョンの表情が曇っている。シンは彼女が話している相手を見た。シンの母校の同窓生たちが有志であつまっているこの会は、ごく限られた親しい人間しか参加できない。ところが妻が相手をしている若い女性に、シンは見覚えがなかった。
「チェギョンが話している若い女性のことを知ってるか?」
シンの言葉にジョシアが視線を向けた。
「ああ、知ってるよ。しかしよくこの場に滑り込めたな」
親友は半ば呆れ半ば驚きながら答えた。
「誰だ?」
「誰だと言われると、名前は…確か、クリスタ…なんとか、って名前だな」
「なんだ、名前は知られてないのか」
「というか、あの女性は『例の闖入者』で通じるんだ」
シンはジョシアの言葉に首をかしげた。
「意味が分からないな」
「いいんだ。シンにはもはや関係のない事だから。それよりも愛しの新妻が困っているようだぞ。夫は妻を助けるんだろう?」
そう言われてチェギョンに視線を戻すと、確かに妻が困り果てているのが傍目にも分かった。
 
 
 
 
「だから、どうやって『ただの銀行家』の娘が未来の侯爵を捕まえたのかって尋ねてるのよ。どういう色仕掛けでバセット様を落としたの?」
これだから、『ミス・王女様』には困る。結婚前に通っていたフィニッシングスクールに居たこの女性の名前は、チェギョンには記憶のかなたに消えていた。それよりも自分でこっそりと名付けた『ミス・王女様』のほうがしっくりと来ている。
「そんなこと私に聞かれても…夫に聞いてください」
「あら、そんなの意味がないわ。だってバセット様はあなたがどんな策略を練って実行したのか知らないからこそ、あなたの夫に成り下がったわけでしょう?」
スクール時代からこのふてぶてしい女性が嫌いだった。『ミス・王女様』はジロジロと失礼なぐらいにチェギョンの全身を見ていた。それから意地悪そうに笑った。
「そのスカート、随分と短くて…そうね、とても子爵夫人には見えないわね」
「そうかもしれないわ」
それはそうだ。この女性にそう言われるのではないかと考え、スカートの形と丈を思い悩んだのだから。
 
フン、と耳障りな鼻音がして、それから赤く塗られた大きな唇がひらいた。まだ何か言うつもりなのだろう。チェギョンは彼女に気づかれないように小さくため息をついた。
「僕のことはほったらかしか」
「シン」
すぐ後ろから夫の声が聞こえ、チェギョンはホッとした。振り返るとオレンジのライトのもと、ハンサムな彼が優しく自分を見つめている。チェギョンは振り返り、彼の胸に頭を寄せ、硬く引き締まった腰に腕を廻した。大きな手がすぐに体を抱きしめてくれる。
「どうした?疲れたんだな。向こうで休もうか」
「そうね、ちょっと疲れたかも…」
ちらりと『ミス・王女様』を見ると、彼女はシンに興味津々の様子だ。
 
 
「あの」
『ミス・王女様』が一歩彼に近づいた。
「なんでしょう?」
紹介されたわけでもない相手にこんなふうに声を掛けるなんて、フィニッシングスクールで何を学んだのだろうか。あそこに通っている目的が、そもそも純粋ではないのだろう。
「どうして、銀行家の娘と結婚する気になったのですか。どこがいいのでしょう」
チェギョンは目をつぶった。こんなふうにあからさまな言葉を言われたのは初めてだけれども、影ではやはりこんなふうに言われているのではないかと気になっていた。腰に廻った彼の腕に力が入ったのが分かる。
チェギョンはそっと目を開けて、彼を盗み見た。強張った唇に鋭い視線。
「シン…あの…」
「理由などありませんよ」
穏やかだけれども冷たい声がした。
「あら、どういう意味でしょう?やはり、気づかれていなかったのね!知らない間に、彼女の策略に嵌っていたというのが本当のところでしょう?」
ひとりで頷く相手に、シンの表情が一層険しくなる。チェギョンはそっと彼の胸をさすった。
「シン、もう行きましょ」
手首を掴まれ、そしてその手の平にキスをされた。
「シ、シン」
慌てて手を引こうとしたのに、彼は甘く見つめるだけでその気はないようだ。
 
 
 
 
チェギョンが行く前から沈んでいた原因はこの女性かもしれない。シンはさり気なく相手の女性の全身を眺めた。もとの土台はごく平凡な造りのようだ。金のかかった様子から、実業家の娘だろうと見当をつけた。ヘアスタイルやメイク、服装全てがあまりにも派手だからだ。
良家の子女や名家の子女は、概ね地味な装いをする。
 
――――チェギョンと同じ階級か。
 
妻は実業家の出自だけれども、彼女の母親は男爵の血が流れ、父親の家系はやはりジェントリー階級の旧家であることは案外知られてない。社交界で華やかな美女と言われたチェギョンの母だけれども、それはあくまでも『社交界の一員』として認められたという意味でのことだ。
目の前の派手派手しい女性は、とても社交界に受け入れてもらうことはできないだろう。そのことに気づいていないからこそ、チェギョンにつっかかっているのだ。
 
シンはチェギョンを見下ろした。心配そうに顔を曇らせ自分の胸を掴む妻。
「チェギョン」
「なぁに?」
「最初に僕が君のドレスにシャンパンをこぼしたあの瞬間、チェギョンの事しか考えられなくなった。あのとき、あそこに立っていたのはチェギョンの『策略』だったのか?」
彼女が目が大きく見開いた。
「まさか。それって自意識過剰ねっ。残念でした!あの時は…シンの従兄のレノーを見てたのよ」
「なんだと?」
まさかの告白にシンの全身に血が走った。チェギョンの方は得意げだ。人差し指をブンブン振り回している。
「私、レノーに憧れていたの。最初に紹介された時から。だって『大人の洗練された男性』に見えたから」
「じゃあ僕は『大人の洗練された男性』に見えなかったってことか?」
「そうよ。だって私のお気に入りのドレスに、シャンパン零して、さらにシンってばバカにしたように私を見たでしょ。どこが『大人の洗練された男性』なわけ?」
全く。自分の妻は生意気すぎる。
 
シンはチェギョンの肩を掴んだ。彼女が小さく悲鳴を上げたが、気にするものか。夜、ベッドで自分の指が食い込んで紅くなった肩にキスをしよう。
「あのなぁ、あの時僕がどんなにチェギョンにひかれたのか、知らないだろう?」
「え…」
大きな目が非難の目から驚きの目になる。
「小生意気で、ツンツンして、口答えした小娘め」
「な、なによぉぉ。シンだってもっと優しくしてくれても良かったでしょ。自分だって傲慢だった」
彼は彼女の白くすべすべした頬に指を滑らせた。
「それでも…あの一瞬から、チェギョンの事が頭から離れなくなった。いつもいつも、生意気な小娘の事ばかり考えたよ」
「シン…」
彼は両手で妻の小さな顔を挟み、じっとその瞳を見つめた。
 
「愛してる」
 
出逢った瞬間、二人の間に火花が散ったのは確かだ。あれはきっと恋のキューピットが2人に矢を射抜いた火花だったのだろう。
 
「私も。シンを愛してる」
 
だから二人はキスをした。会場中が注目するほど長く、長く、長く…。
 
 
~end~
 
 
「もぉぉ、シン!肩に指の形が出てる。強くつかまないで」
ブツブツ文句を投げかけたチェギョンに、夫が近づいてきた。
「どれどれ、見せてごらん」
「ほら、ここ!」
「ふーん、どこだ?」
「シンには目が付いてないの?こんなにくっきりとついてるでしょ!」
彼女は不満げに言った。
「そうだなぁ。こういう痣は、風呂に入って温まるとさらに赤くなって分かりやすくなりそうだ」
「シン?きゃあっ」
彼は彼女を軽々と救い上げ、大股でバスルームへ近づいた。結婚に際して改修した広々としたバスルーム。
 
 
今夜、二人のバスタイムはいつも以上に長いだろう。
 
そう。人前で目立つほどしたキスのように。
 
チェギョンは思った。『ミス・王女様』は嫌いなタイプだけれど、彼女のおかげで夫から素敵な告白を聞くことができた。
 
――――そういう意味で、『ミス・王女様』も役に立ったってことかな。でも、もう会いたくないけど。
 
「あ…」
夫の口と手が淫らに動き回っている。
 
「シン、あ、赤い指の跡、わ、分かったぁ?あっ…」
「まだだね。全身くまなくチェックしよう」
 
―――彼のチェックが終わった時は、全身真っ赤になってそうなのにぃ。