こちらを読む前に、番外編を読むと、分かりやすいです( *´艸`)→番外編はここから飛べます

 

 

☆☆☆

 

「チェギョンったら」
母が上品な声で笑いだして、チェギョンは口をアヒルのように尖らせた。
「ママは笑わないでっ」
「シン卿はお仕事でしょう?そんなにむくれた顔をしたら、彼に呆れられてしまうわよ」
母の言うことはもっともだと分かっている。そう、頭では理解できている。でも…。

「心が言うこと聞かないんだもの」
「チェギョン…」
母が久しぶりに母親らしい表情を見せて自分を見つめている。若々しく活動的な母親は、チェギョンにとって親友や姉に近い存在。
それでもやはり、母は母だ。こうして自分を心配そうに見つめる顔を見ていると、涙がこぼれそうになるのだから。

「ほら、ここへいらっしゃい」
母の言葉に素直に従うと、チェギョンは夫人の座るソファの隣に腰を下ろした。そして母の膝の上に顔を埋める。

「シンは、本当に私と結婚したいの?」
優美な手がチェギョンの髪を優しく撫でる。
「したいに決まっているでしょう?シン卿があなたを見る表情を見たら、だれだってそう思わ」
「でも…シンは、全然その気がないもの」
ぎゅっと目をつぶると、母のグレーのプリーツスカートに涙が浸みていく。


シンがとある映画祭で若手の女優をエスコートしたのだ。チェギョンにも招待状は来ていたけれど、彼が女優のパートナーの依頼を受けたと聞いて、欠席することにした。
まだまだ名の知られていない女優だからこそ、彼が相手に選ばれたわけで、チェギョンはそれほど心配していたわけではない。

ところが彼女の意に反して、シン・バセット卿はすっかり人気になってしまった。シンの貴族らしい品の良い姿にメディアが目を付けた。

「―――私がいるのに」
メディアに載る彼の紹介記事には、チェギョンの存在が無視されている。『独身の貴族』という世の未婚の女性に憧れを抱かせるには十分すぎるキーワードが並べられた。

「シン卿がチェギョンに何か言ったの?言ってないでしょう?」
「シンは言いわけもしてないんだから」
昨日のイベントはまだ続いていて、世間ではシンの話題もちらほら出ている。有名人たちが彼に興味を抱くとは思わないけれども、有名人の一歩も二歩も手前の人たちは、シンを狙うだろう。
チェギョンよりも洗練された、美しいスタイルの華やかな美人たちが。



「言いわけしないってことは、そんな必要を感じていないのよ。彼はやましいところがないから、チェギョンに何も言わないのだから」
母が言うことはもっともだ。きっと彼はそう言うつもりでいるのだろう。

でも、頭と心は違う。

シンはチェギョンだけのシンでいてほしい。


「ウォルフォート子爵がお見えです」
「あらあら、タイミングもばっちりね」
母がわざとらしいほど明るい声で、家政婦へ答えた。
「ママがシンを呼んだんでしょ」
チェギョンは体を起こすと髪を撫でつけた。なんだかんだで彼の前では可愛い自分の姿を見せたい。

「シン様がご自分の意思で尋ねて来てくれたのよ」
母がウインクする。
「私は拗ねてるあなたの後姿を撮って、子爵に送っただけだもの」
「ママ!」
睨みつけたいのに、半分は母に感謝してる。チェギョンはカーキのスカートの裾を整えた。白いコットンジャージ素材のブラウスをウエストにきちんとたくし込む。


トントントン


ノックの音にチェギョンはわざと顔を横にそむけた。母が笑っているけれど、そんなことはどうでもいい。








チェギョンの母シェフィールド夫人から写真が送られてきた。液晶の小さな画面の向こうに、愛しい恋人が背を向けて写っている。たったそれだけだけれども、彼にはわかった。チェギョンが泣いていることが。

言いわけするつもりもない。そもそもやましいことなど1ミリたりともないのだから。
エスコートを依頼された女優には全く興味がない。どんなドレスを着ていたのかも覚えていないぐらいだ。
そのことを事細かにチェギョンに説明したい。たぶん、彼女は聞く耳を持ってくれないだろうけど。
チェギョンはちょっとしたこでも嫉妬する。それは彼女自身に自信がないからだろうとシンは気づいていた。
これほどまでに、彼女の事しか想っていないというのに、肝心の本人にその気持ちが伝わらない。

「女性は誰だってそうなのではないかしら?どんなに愛されていると知っていても、心が常に愛を求めていると思うのよ」
リリアン・エセックスの言葉。
「では、どうしたらチェギョンの不安を消し去ってやることができるんだろう」
シンがリリアンい問いかけると、彼女はシンの従兄のレノー・ハートリーに向かって意味深長な笑みを浮かべた。

「私がチェギョンだったら…」
リリアンの手がレノーの腕にかかった。
「チェギョンだったとしたら、シンの妻になりたいって思うでしょうね」
最後はシンを見て断言した。
「妻になったからと言って不安が完全に消えるわけではないでしょうけども。……少なくとも、 『チェギョン・バセット』とサインするたびに、あなたのことを思い浮かべ、安心できるのではないかしら?」



リリアンの言葉が浮かぶ。

―――いいのだろうか。


チェギョンは一人娘で、シェフィールド家の両親は彼女をまだ手放したくないだろう。
そして、彼女自身の気持ちは?
未来のリーズ侯爵夫人になることは、とても大変なことだ。田舎の領地へ連れて行ったとき、彼女の反応は良かった。あの態度と表情が彼女の答えだと決めつけてもいいのだろうか。

シンは迷っている。

自分自身の気持ちは揺るがないけれども、チェギョンの気持ちが分からない。


チェギョンの家のリビングのドアをノックしながら、まだ物思いにふけっていた。




「シン…」
ドアを開けた途端、彼の目に飛び込んできたのは、チェギョンの不安そうな顔だった。
「チェギョン」
真っ直ぐためらうことなく彼女に近づき、気が付けば膝を折ってチェギョンの手を握っていた。

「チェギョン・シェフィールド。僕のチェギョン」
迷うことなどない。彼女のあの顔が全てを物語っている。彼女は自分を欲しているのだ。
「結婚しよう。今すぐに」
「シン」
震えだしたチェギョンにシンは微笑みかけた。
「愛してるんだ」
「それは知ってるわ」
涙をこぼしながらも、チェギョンはチェギョンだ。
「君が素晴らしい子爵夫人と、未来の侯爵夫人になることも僕にはわかる」
「予知能力がある婚約者で良かった」
「そう、素晴らしく性能のいい予知能力だよ」
彼女が微笑む。
「間違っていないだろう?」
シンはチェギョンの手を掴み、指先にそっと口づけた。
「そうね」
「それは良かった。じゃあ、僕の予知したことが正しいことになるのか、実証してもらわないと」
「それって、言葉通りにとってもいいのね」
「もちろんだとも」
チェギョンがウンと大きく頷き、いきなり抱きついてきた。
シンはバランスを崩して尻餅をついた。そしてそのまま彼女を抱き、床に転がった。

チェギョンの愛犬の毛が黒いパンツにつくのは間違いない。
でも、そんなことはどうでもいいことだ。チェギョンがいるのだから。




「良かったわね」
突然、第三者の声が聞こえ、シンは首をひねった。毛足の長いベージュのラグにピンクのヒールが埋まっている。そのまま、脚に沿って顔を上げると―――
「シェフィールド夫人。こんにちは」
「シン卿もようこそおいでくださいました。おかげで娘もすっかり元気になりました」
「ええ。そのようですね」
自分の首に顔を埋めているチェギョンに視線だけ動かした。

「シン卿と言えば背の高い男性だと思っていましたけど…今日は私のほうが背が高くなったみたい」
「ええ。僕は自由自在に身長を変えられる男なんですよ」
彼はそう言うと、チェギョンを抱きしめながらラグに肘をつき上体を起こした。


「チェギョン、ほら座ろう」
「うん…」
ボンヤリと自分を見上げる彼女に微笑み―――夫人がいなかったら、間違いなくキスをした―――頬を撫で、それから立ち上がり、二人でソファに座り直した。ちらっとパンツを見ると、彼が思っていたよりは犬の被害は小さかった。
掃除の行き届いた家で良かった。


「これで夫人よりも背が高くなりましたね」
「ええ」
チェギョンの母が首をかしげて笑う。笑うとチェギョンと、とてもよく似ている。

「お嬢さんとの結婚を早めます」
シェフィールド夫人が頷いた。
「夏前に民事婚を済ませ、式は準備が整ったらすることにします」
「そうね。でも、きっとリーズ侯爵夫人は、式が早まることを予想して準備を進められているはずよ」
シンが夫人を見つめると、
「侯爵夫人とご一緒にウエディングドレスを見に行ったとき、夫人がシン卿の衣装もお決めになっていらしたから」
悪戯そうに笑っている。シンはゴクンと喉を鳴らした。あの母のことだ、充分考えられうる。もしかしたら―――。
「多分、式場の手配と招待状の準備も、進めているのではないかしら」
チェギョンの母がティーカップを持ち上げ一口飲んだ。その仕草がいつも以上に洗練されて見えた。やや大げさすぎるほど。

「そう、ですか…。シェフィールド夫人がそう感じるなら、きっとそうなのでしょう」
シンは答えた。ムッとした顔にならないようにするのは至難の業だ。
この年になって、母に先回りされていると思ったら腹が立つ。

「シン」
ふいにチェギョンの手が彼の手の上に重ねられた。彼は彼女の顔を見た。


―――そうだ。チェギョンが、僕が、幸せになれればいいんだ。


プライドを傷つけられた、と言えば確かにそうだ。『2年待てない男』だと母に見透かされていたのだから。けれどもそんなことは、どうでもいい気がしてきた。

チェギョンの輝く瞳を見たら、彼女が傍にいる人生が浮かんでくる。

「僕たちは幸せになるんだ」
「シン…」
シンはチェギョンにキスをした。


どうせなら……
「チェギョンは世界中で一番可愛い花嫁姿になるはずだ」
母が度肝を抜くぐらい盛大で派手な式にしてやろう。


チェギョンの母がクスクス笑いをしながら、部屋を出て行く。シンは本腰を入れてチェギョンの唇を堪能することにした。

~end~