「ウーン…その額だけど、もう少し上にしてちょうだい。ああ、そこよ」
ティナは店舗のレイアウトを変更した。短い婚約期間―――スキャンダルが大事になる前にサッサと結婚したほうがいい、との判断から―――に、すっかりダンの父親に気に入られてしまった彼女は、本店に次ぐ大きな店舗の担当を任されてしまった。

マーケティングを主に仕事にしてきたとはいえ、これほどまでに大きな店舗を請け負ったことはない。
「もう少し小さな店舗から始めたい」と答えた時、ダンの父から鋭い視線が飛んできた。
「おやおや、これは意外な反応だな。この私とやり合うだけの度胸があるというのに、そんな弱腰でどうする」
半ば挑戦状をたたきつけられたようなものだ。

「その代わり、ティナの好きなようにやりなさい。責任はティナに任せた私が全部引き受けよう」
太っ腹な義父の言葉に、ティナは視界が歪んだものだ。そして誓った。義父が信頼してくれたなら、それに答えるのが自分の役目だと。


憧れのレイフォード。

まさか自分が「レイフォードの名」を与えられる存在になるとは、思いもよらなかった。

店舗に入った途端に、大きな額にはめられた初代レイフォード夫人が興したデザインのテキスタイルが目に飛び込んでくるようにした。
数えきれないほどのデザインが生まれているけれども、ティナ自身はこのデザインにかなうものはないと思っている。

「古臭くないですか?」
と、若手の部下たちが言うけれども、ティナは頑固に言い張った。
「これほどまでに洗礼されたデザインは、時代の流行に左右されないものだから」と。

その考えを証明したい。

だから、ティナは手始めにこの初代のテキスタイルを使用した新しい商品を、いくつか発表した。初期の段階としては大成功だろう。
「中年以降 御用達のブランド」という扱いを受けていたレイフォードが、若い女性たち向けの雑誌やメディアで取り上げられるようになった。もちろん、トレンドを生み出す世代向けにポイント絞った戦略にしてみたからだ。

それと同時に、いつまでも古い時代の中高年をイメージして作られていた商品も一掃した。
テキスタイルはそのままに、商品のデザインを若々しくしてみたのだ。

こちらも概ね成功したと言えるだろう。

『裕福でちょっと流行おくれのマダムご用達』だったレイフォードが、『トレンドに敏感なアイコンのマダムたち』の目に留まるようになったから。

フラッグショップであるここの店舗は、5階建て。
従来は伝統的な家具が中心だった1階を、ティナは思い切ってカフェも併設した。商品の展示・販売スペースとカフェのスペースを混在させることで、商品を身近に感じてもらおうと思ったから。


役員たちの大反対が起きたのは、カフェで使う食器類。
レイフォード柄の食器ではなく、北欧のブランドのものを使用したいとティナは言い張った。

「まあ、まあ。話を聞いてやってくれ。それから判断しても遅くはないだろう?」
夫のダンがそう言って説き伏せてくれた。あの時の彼の援護射撃にティナは感謝して、その夜は思い切り夫に“奉仕”したものだ。
「他のブランドとコーディネートして使えるブランドなのだと、分かってほしいから」
大抵の人は、ひとつのブランドだけで生活しているわけではない。それならば、いかに多くの商品をレイフォードで買い求めてもらうかが勝負だろう。


「期間限定なら」
という条件付きでOKが出たけれども、その期間も延び延びになるのは間違いない。

端的に言えば、ノリノリの人生。

それが今現在のティナ・ワトソン・レイフォードだった。


―――たった一つの小骨を除いて。





*****




「ダン?いい?」
ノックの音に数秒遅れて、妻がドアから顔を出した。深いグリーンのワンピース。ウエストの黒いスエードのリボンは、よく見るとレイフォード柄になっている。ティナが作った新作のワンピースで、売れ行きは好調。黒いスエードのパンプスと黒いノーカラーのジャケット。
取引先との食事会を兼ねた夕食の席を設けてあり、妻となったティナも同伴する予定だ。
「もうそんな時間か?」
ステンレスフェイスの時計を見ると、まだ夕食会までには随分時間があった。
部屋の中は入ってたものの、ドアの前から動かないティナにダンは手招きをした。もう、妻になったというのに、彼女はいつまで立っても奥ゆかしいところがある。
プライベートとビジネスを分けて考えているのか、公の場ではほどほどの距離感で接してくるのだ。

ダンとしてはもっと普段のように、親し気に――― 一部、「いちゃ付いている」という声もあり。それは主に、妹のクララの声―――してくれても構わないというのに。

「どうしたんだ?随分早くないか?」
デスクを廻り、近づいてきたティナの前に立つと、両手で小さな顔を挟んだ。
「そうね」
ティナが笑う。この笑顔を二度と見ることができないと思っていた。今、やっと、この手の中に戻ってきたのだ。
ダンは愛おし気にティナの白い頬を親指で撫で、それから身を屈めてキスをした。ティナの手がダンの腰に廻るほど情熱的に。



唇を離すと、ティナがふらついた。ダンはしっかりと彼女を抱きしめていた。
「…ダンってば」
赤くなった頬がとても可愛らしい。
仕事に夢と目標を持っているティナが、こうして彼にだけ見せる少女のような表情にダンはいつも心奪われていた。“本当の彼女”を知っているのは、自分だけだという優越感に浸る。

「誰も見てないよ」
いや、見ているかもしれない。秘密裏に仕事が進まないように、ダンはオフィスを透明化していたから。プライバシーが保てる程度のすりガラスにしてあるけれども、部屋の外にいる同僚たちには、ダンとティナがデスクの前で抱き合っている姿は丸見えだろう。

「―――そうね」
いつもなら、真っ赤になって抗議するティナが、すんなりと彼の言い分を聞き入れ
「じゃあ、私もお返しするわ」
ダンの肩を掴み、お返しのキスをしてくてくれた。


「どう、したんだ?」
「どうしたって?」
ティナがツンと顎をあげている。それでも頬のピンク色は隠せない。
「キスしたらダメだった?」
「そんなわけないだろう?大歓迎だ」
慌ててダンが答えると、ティナがふんわりとほほえんだ。
それから、すっと彼の胸に身を寄せて
「―――ダンに会いたかったから来たわ」
彼を有頂天にするような言葉を告げてくれたのだった。

「ダン…愛してる。―――そう言いたくて、ここへ来たの」
「ティナ?」
ダンのベストの背中を、ティナが掴んだ。こんな風に人目がある場所で彼女が甘えてくることなど、滅多にないことだ。だからダンは多少の警戒心を持ったけれども、妻はそれ以上何も言わない。


「さっき、店にシンの恋人のチェギョンが来たのよ。シンと待ち合わせしてるって言って」
ティナが静かに話し始めた。




+++++



ティナがカフェフロアへ行くと、どういうわけなのか人々の視線が一点に集まっているように感じた。何かトラブルでも起きたのだろうか。素知らぬ顔をしつつ、視線が集まっている先を見ると―――。


「チェギョン」
「あ、ティナ。こんにちは」
チェギョン・リンジーがぴょこんと首をかしげた。
ティナの姉のリズは、アレックス・ジェラード医師の妻だ。アレックスにはシン・ジェラードという弟医師がいて、このチェギョンはシンの恋人だった。

「すっごく人気でしょ、このショップ。ブラッドが『まだ混んでるからダメだよ』って言うんだけど、どうしても来たかったのっ」
ウキウキをした表情で彼女が話し始めた。
「でもね、どうして『混んでる』とダメなのかなぁ。混んでいたって、別に平気なのにね。カフェに座れなくても、ショップの雰囲気を楽しむことができるし」
そういって手に持っているのは、ポーチだった。
ティナがポーチに視線を向けたことに気づいたのだろう、チェギョンがそれを顔の傍まで持ち上げて
「これ、モデル仲間の中で人気よ」
そういって笑った。その瞬間、店中が息をのんだ気がする。
「…今、シンがいなくてよかったわよ」
「え?どうして?」
チェギョンがバンビのような大きな目でティナを見つめてきた。このチェギョンは妖精のような容姿をしているにもかかわらず、本人はまるっきりその自覚がない。
これだけ目立つ容姿をしているにもかかわらず、男性の視線に無頓着だ。

「店が混んでるとね、人が多いってことよ」
「ヤダ、ティナったら。そんなこと、私だって分かってるもん」
いや、分かっていないだろう。シンはチェギョンをそれこそ『目に入れてもいたくないほど』の溺愛ぶりで、『常に自分の腕の中に閉じ込めておく』勢いでいる。
そんな目立つ彼女が、注目のトレンドショップにいたとしたら―――。


当然、今のように、人々の視線を独り占め。
ティナとしても『商品以上に目立つ存在』であるチェギョンは、シン以上に正直困るところだ。

「チェギョン。上の階へ案内するわ。上客用のスペースがあるから」
「いいの?」
「もちろんよ。だってシンの恋人だもん。私にとっては親戚みたいなものよ」
ぱぁと明るい顔をしたチェギョンに、またもや店中が息をのんだ。







「ポーチも可愛いけど、お洋服も素敵」
「そう?」
以前は自分のところでは、レイフォードのテキスタイルを使った生地の提供だけをしていた。今回、
年齢層を分けて独自のブランドをつくった。
「チェギョンなら、何だって似合うわよ」
妖精は黒いスカートを手に持っていた。スカートの左下に小さなレイフォードのタグをつけたデザイン。シンプルなコットンのフレアースカートだけれども、チェギョンをモデルにしたら、瞬く間に売り切れそうだ。


「似合ってるよ」
「シン君っ」
いつの間にか、シン・ジェラードが来ていたのだ。
「試着してみたら?ついでにトップスを変えて着てみましょう」
ティナはそう提案した。チェギョンがこの店の商品を着ていれば、あっという間に広がるだろう。
「シン君は待っててね」
恥ずかしがることもなく、シンの腰に抱き付いていたチェギョンが可愛らしく言うと、彼の方はだらしない顔をして頷いている。






「チェギョン、これと組み合わせて見て」
「うーん?」
ミリタリーなカーキのブルゾンを手に持ったティナが、試着中のチェギョンに声を掛けた。

「―――ねえ、チェギョン」
「なぁに?」
ブルゾンを着て鏡の前でチェックをしている彼女に、ティナは声を掛けた。
「チェギョンは、シンの“過去”って、気になる…?」
「え?」
動きをとめたチェギョンが、ティナの顔を凝視してきた。
「“過去”…?」
「シンはハンサムだわ」
「うんっ」
「…シンの、昔の恋人の事、気にならない…?」
チェギョンはまだじっとティナを見ている。

「ティナは気になるの?」
チェギョンが尋ねてきて、ティナは頷いた。すると
「どうして?どうして気になるの?ダンはティナのこと、大好きでしょ」
チェギョンはニッコリと笑っていた。
「チェギョン?」