何週間も顔を見ることができなかった愛しいチェギョン。
 
シンは室内の暗さで栗色になっている艶やかな髪に唇を寄せた。彼女もまた、彼を恋しいと感じていてくれたのか―――そうだと信じたい―――ピッタリと体を寄せてきてくれる。それはそれで大層喜ばしいことには変わりがないが、しかしまた、“困った事態”を引き起こす要因の一つになっている。
シンの脚の付け根は、大きなテントのように盛り上がってきそうだ。いや、正直に言えば、既にそうなっている。今日が黄色のパンツでなくてよかった。今時のキャンプ用のテントは黄色と限ったことではないが、『テント=黄色』という図式は、一般的だろう。
シンはくだらない事を考え、なんとかテントを畳もうと努力した。
 
なぜなら、ここが兄の自宅だからだ。兄はクールな外見だけれども、同じ男だ。シンの状況を見れば無言で納得してくれるだろう。問題は義姉のリズ。
妙に勘のいい義姉は油断がならない相手だ。兄のアレックスと結婚したばかりの頃は、もう少し猫をかぶっていたのに、最近は徐々に本領発揮とばかりにシンに突っかかってくる。
先日もチェギョンのことを考えていたために、街路樹にぶつかりそうになった場で、運悪くリズと出くわした。あの時の彼女にニヤリと笑った顔を忘れるものか。
シンは唸った。あの程度の事であんなふうにニヤニヤされるのだ、この『テント状態』が見つかったらどうなるか分かったものではない。


ふと視線を落とした。それが間違いだった。なにしろ自分の腕の中にはチェギョンがいるのだ。
彼女の甘い香りが立ち込め、顔を覗きこめば長い睫毛が揺れている。あろうことか長くくるんとカールした睫毛の下から、自分をみつめてくるでなはないか。涙をいっぱいため、潤んだ瞳で見つめられたら、世の中のほとんどの男は骨抜きになるに決まっている。

―――まずい。これは、まずい事態だ。一刻も早く、チェギョンの体を離さなければ。

分かっているのに。

ああ。どうしようもなくチェギョンが可愛くて、とても離すことができない。
「シンくぅぅん」
しなやかな体がすり寄ってくる。
「チェギョン、ほら、もう泣き止んで。僕はここにいるよ。」
甘い声だと自分でも分かっているけれども、愛らしい妖精を見るとついつい甘ったるい声が出てしまう。リズには聞かれないようにしなければ。
意を決して体を離すと今度は彼女の細くて小さな白い手が、シンの上腕にそっと置かれた。無意識なのかチェギョンが撫で上げてくる。
 
―――これ以上は危険だ。

 

シンは急いで別のことを考えることにした。仕事のことがいいだろう。
今日診た患者の症状は、少し気になる点があった。そうだ、そのことについて検討しよう。
 
彼は必死に気をそらそうとした。無駄な努力だと頭の半分で理解していたけれど。
 
なにしろチェギョンの柔らかな肢体がゆったりと自分に身を任せてくるのだから。信頼しきったように身を寄せる彼女がもぞもぞと動き出した。
その刺激が彼のテントにどう作用するか、無垢な彼女は知らないだろう。彼はぐっと奥歯を噛みしめ、この試練に耐えることにした。
「シン君…?」

目をつぶって眉間にしわを寄せているシンに、チェギョンが気づいたようだ。
「どうしたの?」
小首をかしげてシンを見てくる。彼が弱い仕草で。サラリとシルクの髪が揺れた。

 
―――ああ、だめだ。限界だ…!!
 
彼の努力はこの瞬間、淡く消え去った。シンはチェギョンの細い体をギュッと強く抱き寄せると、柔らな耳たぶを軽く噛んだ。彼女が切なそうな声をあげる。彼のテントはますますピーンと張った。キャンプでこのようなテントを立てることができたら、一人前だろう。
これほど立派なテントができてしまった以上、彼女にこの状態を気付かれてしまう。

その時だった。


トントントン

居間の扉がノックされた。やけに耳に響く音で。

チェギョンを急いで自分の隣におろすと、シンは長い足を組み脚の付け根の変化を気づかれないようにした。
軽く喉の調子を整えると、
「どうぞ」
返事をした。この時少し彼の声は、甲高くなかっただろうか?


「仲直り、できた?」
扉からリズが顔を出した。二人の様子を素早く観察すると、
「ふーん。…できたみたいね」
とにっこりとほほ笑んだ。美女―――彼の好みではないが、リズも美人のカテゴリーに入る整った顔立ちだー――の微笑は魔女の微笑にさえ見える。シンは身を引き締めた。あの笑みに騙されるものか。

 

義姉は、シンとチェギョンの向かい側に遠慮なく腰かけると、チェギョンには優しく微笑みかけ、シンを見る時には口の端を上げた。
顔を赤くして下を向いているチェギョンをリズが顎で指すと、その後シンを睨みつけた。
彼はリズのその仕草に、彼女が問いかけていることを正確に読み取り、ぶぜんとした顔で
「…残念だけど、リズが心配してるようなことは、ない」
と言い切った。
「…心から残念だけど」

無念さが滲み出てしまった。
リズは内心クスリと笑った。どうやら義弟には苦痛の時間でもあったらしい。チェギョンのピンク色の顔と繋がれた二人の手を見れば、仲直りはうまくいったようだ。



「何が残念なんだ?」
いきなり扉があき、兄のアレックスが手を拭きながら入ってきた。
リズの座っているソファの背を回り、一端妻の頬にキスをして片手で彼女の頬に触れると、一人掛けのソファに腰を下ろした。
夫の親密な行動にリズはうっとりとした顔をし、向かい側にいるシンはそんなリズに冷ややかな目を向けた。
「―――自分たちのことを、棚に上げて」
小さく呟いた声が聞こえたのか、リズがシンを再び睨みつけた。
「シン、何が残念なんだ?」
兄の声でシンは顔を上げた。

 

「兄さんの美味しい手料理が、今日は食べられなくて、残念だって話だよ」
「あら、上手く逃げたわね」

何か言いたげなリズを厳しく睨みつけると、彼は続けた。
「夕飯の時間には、早すぎるだろう?」

「それなら、お前たちも一緒に食べていけばいいさ」

アレックスがチェギョンに視線を向け優しい顔で頷いていた。喜怒哀楽をあまり顔に出さない兄だけれど、妖精のことを気に入ってくれていることは分かっている。弟のシンを愛してくれてるから、その相手のチェギョンの事も大事にしてくれてるのだろう。
 
シンはチェギョンの手を握り、断りの言葉を口にしようとした。先程の続きは車の中にしよう。もちろん、余り過激なことはできないが。テントになってしまった“これ”を、どう沈めたらいいのだ?
シンはチラリと自分の足の付け根に視線を動かした。先程のような立派過ぎるテントではないが、まだまだ、なかなかの出来栄えのテントであることに変わりはない。
チェギョンがクッタリと寄りかかってきている。

「そうね!それがいいわ!ぜひそうするべきよ。ね、チェギョン」
リズが口をはさんだ。

―――リズのやつ。折角、チェギョンと二人きりで過ごそうと思っていたのに、余計なことを。わざとだな、絶対そうに決まってる!

怒りを抑えようとして手が震えてしまった。そのことに気づいたのだろう、チェギョンが彼の顔を覗き込んできた。
「シンくぅぅん、どうしたのぉぉ?」
彼は握りしめていた手の力を抜くと、彼女の艶やかな髪を撫でながら微笑み、兄を見て答えた。
「そうするよ」
リズの目がいたずらが成功したときの喜びにあふれていたのを、シンは見逃さなかった。



****


 

チェギョンは目の前に出された紅茶を一口飲んだ。キッチンの奥でジェラード兄弟がガサゴソ動き回っている。
ダイニングテーブルの向こうで双子のようにそっくりな二人が、愛しい女性たちのために腕を振るう姿は、白雪姫の7人の小人たちがせっせと働いてるような愛らしさがあった。

小人ではなく、長身の二人だったが。7人ではなく、2人だったが。

 
「チェギョン、沢山食べるのよ」
「うん。そうする。」
何日も食事が喉を通らなかった。今日こそはお腹いっぱいに食べられそうだ。リズが微笑んでくれた。
「リズのそのピアス、初めて見たかも。それって新作でしょ?この前モデルの撮影でつけたのよ」
モデルのアルバイトをしているチェギョンは、ファッション関連のトレンドは早い方だ。リズの耳たぶで光っているパールのピアスは、今シーズンのものだ。きっとアレックスからのプレゼントだろう。
「そうよ。この前、アレックスがうっかり私と約束したときに仕事を入れてダブルブッキングしてて。そのお詫びね、これは。」
リズが笑った。
「本当に、彼ってぼんやりしてるんだから…」
リズの呟きにチェギョンは内心驚いた。アレックス・ジェラードのことをそんなふうに『ぼんやりしてる』などと言う人は、リズ以外いないだろう。

「ああ、そうだわっ。チェギョンもシンに何か買ってもらいなさい。シンのせいでチェギョンはこんなに痩せたんだから。」
リズがそう意気込んだ。

 

「ううん、いらない。」
チェギョンは即答した。リズが驚いたように目を大きく見開いた。

「どうして?」
「シン君がいてくれるだけで、私、嬉しいのぉ」
鍋をグルグルとかき回してる大きな背中に、チェギョンは視線を向けてリズに答えた。

シンが自分のことを愛していてくれる。それが分かっただけで嬉しくて、他の物など何もいらない。
「シンが聞いたら、泣いて喜ぶわよ」
リズが呆れたようにつぶやき、それから
「でも…二人が仲直りできてよかったわ」
嬉しそうに笑った。
「リズのおかげ。ありがとう」
チェギョンはリズの手を取るとぎゅっと握った。
「チェギョンは悪くないもの。悪いのは全部シンに決まってるわ!」

リズが、フン!と鼻息荒く叫ぶと、キッチンの奥にいるシンが振り返った。それからチェギョンを見て、優しく甘い微笑を見せてくれる。
「ないよ、シンってば。私には睨んできたのに、チェギョンには、あーんな蕩けそうな顔を見せて。だらしないわ」
リズが悪態をついていたけれども、その顔はとても優しかった。



****


4人でダイニングを囲み、兄弟の美味しい料理の舌鼓を打ちながら、リズが最近読んだ『感動的な物語』の話で盛り上がっていた。

リズが熱烈に語る本の内容に―――それは、働き蟻の涙なしでは語れない、と義姉が力説している、世にも奇妙な感想―――興味がある振りをするのは、そこそこに骨の折れることではあった。シンはリズの話を聞いている振りをして、自分の隣に座るチェギョンの手を握った。
恋人の方は義姉の話を楽しそうに聞いている。妖精の興味関心は、時にピント外れだけども、今回の場合は良い方向だ。リズが強引なおかげで、シンとチェギョンは誤解もとけたわけだし。
ここは義姉に礼を尽くして、“一応”話を聞いている振りをする事にしよう。
 
それにしても、兄には驚かされる。こんな意味の分からない読後の感想を聞かされて、さぞかし詰まらなそうにしているかと思いきや、全く逆の反応を示していた。アレックスはリズの話をとても楽しそうに聞いているのだ。時に質問までしている。
最先端の医療研究のときも、兄は「それはもう知っている」と言わんばかりに平然としているのに、リズの突拍子もない話には目を輝かせているではないか。
兄のこんな姿は貴重だ。そうそうみられるものではない。それだけでも十分に興味深い時間だと言えるだろう。


「ねえ、そういえば、チェギョンの『憧れの君』ってだれなの?」
唐突にリズが言った。
アレックスは、口に含んでいたワインを勢いよく吹き飛ばしそうになり、慌ててハンカチで口を押えている。哀れシンは、口の中のものを皿に吐き出した。それを見たリズが、唇の端を下げ、本気で嫌そうな顔をして
「汚いわね、もう」
文句を述べた。

 

「リズ」
「リズ」
兄弟の声が見事にそろった。

「なによ?だって、気になるでしょ?」
リズは兄弟の様子など気にもかけずに、むしゃむしゃと食べていた。こんな状況でよくもまあ、そんなふうに食べられるものだ。シンは変なところで感心した。

「チェギョン、このトマト、食べたかしら?」
リズは兄弟の言葉など全く無視して、チェギョンに声を掛けている。それから彼女の皿にトマト載せていた。

「すっごく甘くておいしいのよ。最近のお気に入りなの」
「そうなぉ?」
チェギョンが答えた。

 

「チェギョン、リズが今言ったことは気にしなくていい」

シンドはカトラリーを置くと、隣に座る恋人を見て言った。彼の言葉に兄も大きく頷いている。
「トマトが美味しいって話?」
チェギョンが答える。皿に載せられたトマトをかじると、

「美味しいっ」
嬉しそうに笑い、シンを見上げてきた。
「それは良かった」
思わずそんなふうに答えてしまい、シンはハッとした。今はトマトの話をしている場合でなかった。
 
「トマトの前の話だよ。」
彼は彼女に言った。本当は聞きたい気持ちもある。チェギョンの憧れの男はどこのどいつだろうか。

「トマトの前の話?」
チェギョンが会話を思い出してるのか、天井を見あげた。彼女の白い喉元があらわになり、ここが兄たち夫婦の前でなければ、間違いなくその喉にキスをしただろう。
「分かったっ。シン君のこと、汚いって言ったこと?」
チェギョンがシンを見て、正解を見つけた子供のような顔をした。
「違うの?」
彼の顔を見て、チェギョンは自分の答えが彼が考えていたものとは違うことに気づいたようだ。


「違うわよ。『憧れの君』の話よ」

リズが話を戻す。アレックスは弟たちに見えないように、リズの足の先をつついたらしい。
「アレックス、痛いわよ」
リズは夫の顔を睨みつけていたからだ。シンは兄に感謝した。兄なりに自分を守ってくれようとしてくれた。
その時、妙にのんびりとした声が聞こえてきた。

「どうして、知ってるの?」
チェギョンが3人の顔を順番に眺め、不思議そうに尋ねたのだった。