「シン君…?どこ?」
チェギョンが声を抑えて呟くと、長い腕が伸びてきた。彼女が小さな悲鳴を出そうとした時には、そのピンクの唇は彼に奪われていた。

「…もうっ」
恥ずかしそうに耳まで真っ赤にして、それでもシンを睨みつける彼女に彼は笑った。
「いいだろ?久しぶりだから」
「久しぶりって…3日ぶりなのに」
―――嘘。自分もそう感じていたのに。
チェギョンはシンの胸に額をつけた。目を閉じれば僅かに彼の心臓の音が聞こえる。
彼女の不安を消し去ってくれる大好きな大きな手が、背中を丸く撫でてくれる。
「ずっとこうしてたい、な…。」
チェギョンの本音がポロリと零れ落ちた。シンはその深い意味を理解しながら―――卑怯だと言われても仕方がないと知りつつ―――深刻な話を避けることにした。
「ずっと?それじゃあ、僕たちはここから出られなくなるってことか?」
建物と建物の間にできた狭い隙間の問題にすり替えることにした。
「シン君!!」

彼女が顔を上げて口を尖らせている。シンは口の端を上げて小さく笑うと、
「でも…ここはここで、なかなか快適だな。違う?」
「どうして?」
チェギョンは不思議そうに答えた。こんなに狭い場所の――――それも足元には雑草が生い茂り、素足にチクチクと小さな不快感を与える―――どこが“快適”なのだろう。
「こうできるからだろ?」

シンはチェギョンの項を掴むと大きな身を屈めて、3日間分の切実感を込めたキスをした。彼女の背が大きく反りかえり、彼にしがみついていなければ崩れ落ちそうになるほど深く。


こうして広い彼の腕の中にいると、胸に鎮座する不安が少しだけ薄らぐ。
チェギョンはシンの香りを吸い込んだ。干し草のような香りとコロンのシトラスが混じり合い、いつも自分を安心させてくれる。
―――ずっとこの香りに包まれていたい。

最近はこんな厄介な想いに囚われている。彼が小国とはいえ一国の王子である事実から目を背けたい。

チェギョンはシンの背中に回した手で、彼のブルーのポロシャツを握りしめた。柔らかな生地は、今、確かに自分の手で掴むことが出来る。
いつかこうすることが出来なくなるのだ。だから彼女は強く握りしめた。

――――この手がこの感触を覚えていますように…。


「さて、と」
チェギョンを夢見心地にした唇はゆっくりと名残惜しそうに離れ、シンが呟いた。
「どこへ行こうか。何か食べよう。何がいい?」
「んー。じゃあ、フォーにしましょ」
「またか?そんなに気に入ってるんだな」
彼は呆れたように笑い、それでも彼女の願いを受け入れることにしたようだ。
「だって、美味しいでしょ?お米からできてるなんて、不思議ね」
繋がれた手を内心意識しながら、彼女は彼の黒い瞳を見て言った。
「―――吸い込まれそうね」
チェギョンの細い指が彼の瞼にそっと触れる。シンが黙っていると、
「シン君の瞳って、どうしてそんなに深い黒なの?」
彼女は小さく映る自分の姿を確かめるように、覗きこんだ。

「多分、こういうことだ」
シンは薄茶色の瞳を覗き返し、
「チェギョンの可愛い姿を、閉じ込めておくために」
ゆったりと答えた。
「ま、また。そう言う“王子様”なことを、さらりと言うんだから」
恥ずかしそうに視線をはずした彼女を彼は真剣な顔で見つめた。
―――嘘じゃないさ。いつだって、これからだって“閉じ込めておきたい”

「早く行きましょっ。また店の前で待つなんて、イヤっ」
チェギョンは隙間から飛び出した。薄い水色のデニムのワンピースの裾が揺れる。
「あ、待て」
シンが声を掛けると、彼女が振り返った。栗色の髪がキラキラと光る。
「シン君、早くぅ。先に行くからね」
白い歯を見せて笑った彼女が、
「つかまらないもんっ」
ニッコリ笑うとパタパタと走り出した。

「つかまえるさ、絶対」
シンは決意を込め呟くと、
「すぐに追いつくに決まってる」
彼女の背中に向かって叫んだ。
――――掴まえたら、離すつもりはないけれど。




****


「美味しかったね」
チェギョンは満足そうに微笑んだ。
「それは良かったよ」
「シン君は?美味しかったでしょ、ねっ」
「そうだな」
恋人の答えにチェギョンは頬を膨らませた。
「なんかあいまいな答え。どっちなの?」
彼女はシンの前に廻りこむと、両足を広げ腕を腰に付けて睨んだ。
そんな彼女の仕草に、シンは目をすがめて見つめた。こんな風に誰かに明らかな不満をぶつけられたことなど、過去にあっただろうか。
王子である自分にこんなふうに自然に接してくる人物は、兄である王太子を除くといないだろう。
――――きっと、だから彼女に惹かれるんだ。
シンはふと頬を緩めた。

「もうっ、何で笑ってるの?」
彼の物思いなど知らないチェギョンは、眉間にしわを寄せ始めた。
シンが一歩二人の距離を縮めた。
「笑っていない」
「笑ったわ」
彼女の強気な態度が可愛らしく、シンはまた微笑んだ。
「ほら!今も笑ったでしょ」
シンがもう一歩彼女に近づく。そして彼女の腰にできた三角の空間へ向けて長い腕を伸ばした。

「笑ったかな?」
まるで氷上のスケーターのようにチェギョンはシンに引き寄せられた。二人の額が触れ合う。
「…笑ったもん」
「そうか」
満足そうに彼は呟いた。


事の発端は何だったの?
チェギョンはいつの間にか引き寄せられている自分に戸惑った。人通りの少ない路地だけれども外はまだ明るい。シンは有名人だ。こんな二人の姿は危険すぎる。
二人の姿がメディアに載ったら、きっと大騒ぎになってしまう。少なくとも、彼の国の王室関係者は眉を顰めるだろう。

でも。

本当はそんなことどうでもいい。
自分が知りたいのは、彼の心だ。世間がどんなに騒ぎ立てても平気。
もしも。もしも―――

彼が。

自分のことを心から想ってくれているのなら。



「シン君は、負けず嫌いね」

チェギョンがトンとシンの肩をつついた。
「そういうのって、王子の特権?」
拗ねたような声で言うけれど、彼は気づいた。彼女が自分に隠そうとしてる『二人の壁』を。きっとチェギョンは大きく立ちはだかる壁に怯えているのだ。
そして、自分もまたこの壁に立ち向かう術を探している。

「チェギョン」
シンは恋人の名を呼ぶと、ふんわりと抱きしめた。彼女の甘い香りが立ち上る。栗色の髪にキスをすると、彼は彼女の耳元に口をつけた。
「―――僕は王子だけど。でも…王子である前に一人のイ・シンだ」


シンが何か、そう何かとても大事なことを言おうとしている。
ドキドキを心臓が音を立て、息苦しい。
チェギョンは耳を澄ました。彼の言葉を一言も聞き逃したくはない。

「チェギョンを『僕だけのチェギョン』にするつもりだ。必ず。―――いいね」

見上げる薄茶の瞳は、彼の真意を探しているのか、瞬きも忘れただ黒い瞳を凝視し続けた。

シンは苦笑すると、
「返事が聞きたいけどね」
彼女の頬を指の背で撫でた。
「―――いいさ、返事は待つよ」
黙ったまま自分を見つめ返す彼女に、
「ただし。肯定の言葉だけだ。それ以外は受け付けない」
「シン君っ」
困ったような顔をする彼女の額を、ツンと指で押した。
「忘れているようだから一応告げておこう」
「なに?」
「僕が『自分の思い通りにしたがるシン王子』であるってことを」
「シン君…」

「僕が君を守る。約束する」
彼の言葉に彼女は小さく頷き、そして無言で抱き付いた。



~end~