「この本か?」
シンが彼女を見下ろすと、大きな目がパチリとひとつ瞬きをして、それからハッと気が付いたように彼女が自分を見つめ返してきた。
「あ、ち、違います」
「じゃあ、どれだ?」
ステップに乗ったシンが手を伸ばし本を探すと、
「え、っと。あの本です」
いつの間にか自分を追い払う事を忘れたかのように、彼女が細い指で本の背表紙を指している。
「表題は?」
シンが尋ねると、彼女が答えた。その本を探そうと彼は躍起になった。

言い訳をするわけではないが、ここの本棚に並んでいる書籍の背表紙は似たり寄ったりの表題が付いているのだ。おまけに
「あ、あの海老茶色の本です」
と彼女がしきりに小声で囁くのだ。妙に焦ってしまう。
―――彼女に『魯鈍な男』だと思われるのは、不本意だ。

「ん?これか?」
「違います」
こう言ったやり取りを数回繰り返したとき、「もうっ」と小さな不満の声が聞こえたが、それは気のせいだったのだろうか?

――――いや、気のせいなどではなかった。



「これです」
業を煮やしたチェギョンは、シンが乗っているステップに自らも足を掛け、彼の隣に立った。
「あ?ああ、これか」
「そうです」
やっとお目当ての本を手に取ることが出来て油断していたのか、チェギョンは見ないようにしていた彼の端正な顔を見上げてしまった。ハンサムな彼を見たら、この胸に突然芽生えた恋心を、彼に見破られてしまいそう。

―――近い。

「は、はい、きゃぁっ―――」
狭いステップの上でシンから背を反らした彼女は、バランスを崩し落ちそうになってしまった。

「おっと」
すかさず手を伸ばしきたシンの逞しい腕の中に自分がいるような気がする。腰を掴む大きな手は、間違いなく彼だ。ぎゅっとつぶっていた目を、彼女はそっと…あけて見ることにした。

白い上質なコットンとシャツにしては大ぶりのボタンが見える。視線だけ動かしてみると、ボタンがはだけた箇所から日に焼けた肌が見えた。
チェギョンは息をのんだ。男性の素肌をこんなに間近で見たことなど、何年振りだろうか?3歳年下の弟の素肌さえも、――――こんなに彼の香りがふわりと漂うほど近く―――ないだろう。

―――危険。

少しだけでもこの異国の王子の腕の中から逃れたくて―――本当に?本当にそう思っているの?本心は違うような気がする―――、チェギョンは身じろいだ。
「危ないぞ、また落ちそうになってもいいのか?」
彼女の気持ちなど全く気付いていないのか、そもそも関心がないのか、シンは平坦な淡々とした口ぶりで声を掛けてくる。





突然ステップを上ってきた彼女の小さな顔があまりにも近くて、息をのんでしまった。ところが、彼女の方も思いがけない近い距離に二人が立っていることに気づき、慌てたのだろう、バランスを崩して落ちそうになった。
それほど高い位置に立っているわけではないが、このステップごと二人して無様な有様で落下したら、盛大な音が書店内になり響くことは確実だ。

―――なにより、彼女が傷つくのは嫌だ。
無意識のうちに手を伸ばし、細く折れそうな腰をつかんでいた。

自分の腕の中に柔らかな体が確かにある。華奢で、それでいて『大事な』存在。


―――大事な存在だと?
シンは己の頭に浮かんだ突拍子もない考えにたじろいだ。この自分が?

 

―――あり得ない。小国といえども王国の王子である自分が。、僕以外に大事な存在を認めるわけにはいかない。

 

シンが軽く頭を振り厄介な物思いから逃れようとした時、彼女もまた身をよじって腕の中から抜け出そうしていることに気づいた。
「危ないぞ、また落ちそうになってもいいのか?」
感情を抑えようとして、上手くいかなかった。そっけない平坦な声がでてしまう。
シンの言葉に、彼女が白く―――必要以上に上気したピンク色の頬―――儚げな顔で見上げてきたのだ。

長くくるりと上を向いた睫毛。大きな瞳はよく見ると、薄茶色の中に金色の粒が無数に散らばっていた。
「あ、あの」
彼女が動くと、菫の香りが漂った。
「ありがとうございます…」


どう言った間違いでこんな状況に陥っているのだろう。
チェギョンは考えた。偶然の偶然が重なって、今、自分はシン王子の腕の中にいるわけだが、それは喜ばしいことなのか災難なのか。
―――災難であることは間違いないわ。だって、胸が苦しくて呼吸ができない。
「は、離してください。自分で降りられます」
チェギョンは動揺を隠し―――たぶんうまく出来てない。絶対に。この頬が燃えるように熱いのだから―――手を彼の胸板に当てて、そっと押した。
筋肉に覆われた硬い胸板。

「だめだよ、また君が落ちそうになるから」
アッサリと言い返され、彼はつかんだ手を離そうとしない。そればかりか、チェギョンの腰を掴んだまま、“二人で”ステップを降り始めた。

残り一段。

一足先に床に足を下ろしたシンが、チェギョンの両脇を掴んで、ふわりと持ち上げそっと床に足をつけさせた。
トンっと小さな鈍い音が響いた。まるで“何かの始まりを”予感させる音色のように。

「ありがとうございます」
もう何度目かの感謝の言葉を彼女が述べたが、彼の方は彼女の言葉を聞いていないようだ。微笑を湛えながら、目の前に立たせたチェギョンの頭をそっと撫でている。
「…綺麗な髪だ」
「え?」
「褒められるだろう?これだけ艶艶した髪は、お目にかかったことがないよ」
シンが混じりっ気なしの賞賛の言葉を口にすると、
「さぁ?自分の髪のことなんて、気にも留めたことないから」
チェギョンが少しだけ首を傾げた。ウエーブかかった髪が波打ち、ダウンライトの温かみのある光の中できらりと煌めく。

シンがゴクンと喉の奥を鳴らした。

一歩彼女に近づき二人の距離を縮めた彼は、
「じゃあ、覚えておいて―――僕が君の髪を褒めた最初の男だ」
チェギョンがその言葉の意味を測りかねているのか、不思議そうに彼を見つめた時
「お礼はこれで…」
優雅なゆったとした王子らしい笑みを浮かべたシンが、チェギョンの額に軽く唇を寄せた。



* * * * *



「つまらないわ、この本」
チェギョンがポンっとソファに買ったばかりの海老茶色の大きな本を投げ捨てる。
『読んでみたい本』と『読んだら面白かった本』と言うのは、どうしてこうもまたイコールで結ばれないのだろう。

「おまけに、高かったし」
ぷっと口を尖らせた。今月のアルバイト代が大方消えてしまったではないか。ソファの前に敷いてあるラグに膝を抱えて座り、彼女は膝に顎を載せた。

―――あの本は今後一切開かれることはない、そう言い切れる。

「だったら、捨てちゃう…?」
口に出してみたものの、彼女は自分がそうしないことを知っていた。だって―――



シン王子の唇が自分の額にそっと触れていた、あの瞬間を忘れることなど出来ない。大きな手に頭を掴まれ、彼の息遣いが聞こえるほど引き寄せられ、そして温かな唇が押し付けられたあの瞬間。
泣きだしたくなるほどの幸福感と、突然の出来事に混乱する気持ちと、彼がそうした理由が分からなくて、チェギョンはシンの唇が離れたと同時に彼の腕の中を抜け出した。
抱えていた本を本棚に戻す暇もなく、慌ただしく会計を済ませ書店の外に出た。霧雨が降っていたが、構うことなく彼女は地下鉄に向かった。
普段の彼女なら、傘もささず雨空のもとを掛け出すことなどしないだろう。



「捨てるわけ…ない、よね?」
顔を横に向けると、ソファの中央で鎮座するあの“海老茶色の本”を見つめた。

―――叶わぬ恋が始まってしまった証なのだから