ぐいぐいと手を引かれ廊下を歩いていると、シンの部屋の前で二人は止まった。チェギョンは繋がれた自分たちの手を見つめた。彼と手を繋ぐことなど日常茶飯事のこと。二人が仲の良い幼馴染だと知っている周りの人たちなど、彼女が彼に抱き付いていても気にもしない。当然、手を繋いでいることなんて、当たり前すぎて目にも留めていないだろう。
それだと言うのに、どういうわけか妙につないだ手が気になってしまう。
 
―――私の手はこんなに小さかった?ううん、違う。シン君の手が大きくなっているからよ。
 
 
二人の手の大きさが、そのまま自分たちの力と体の差を示しているようで、彼女は一層息苦しく感じた。もう幼いころの二人とは違うのだ。体の大きさも、そして、もしかしたら『心』も。そう思うと繋いだ手をどうしても離さなければならないと感じる。
「は、離して」
チェギョンは上ずった声で言った。
「ダメだ」
思いがけない答えにひるんでしまう。
自分だけではなく、女の子の頼みを彼が拒否したことなど初めてだ。チェギョンは彼の端正な横顔を凝視した。チェギョンに見つめられていることを承知しているはずのシンなのに、決して視線を合わせようとしてこない。何が何だかわからない。一体彼はどうしてしまったの?
カードキーを差し込むと、カチャリと音がして、シンはドアノブを掴んだ。

「シン君…」
掴んだ手をぐいと引っ張り、彼は彼女を扉の中へ押し込んだ。
扉がカチャリと締まり、カタンとロックがかかる。ホテル仕様のこの家は、オートロックがかかることなど当り前なのに、彼の部屋に二人きりになるのだと思うと、どうにも落ち着かない気分。
チェギョンはごくんと喉を鳴らした。
シンの部屋で、こうして二人きりになることなど数えることが不可能なほどあるのに、どうしてだか、ドキドキと心臓が不規則な動きをする。
 
―――どうしちゃったの?
 
自分の心がつかめないことなど初めてだ。
 
ドンと壁に背中を押し付けられてチェギョンは彼の足元を見た。
「チェギョン」
名前を呼ばれただけなのに、妙に気恥ずかしくて顔が赤くなったのが分かった。
「チェギョン」
長く大きな指が彼女の顎を押し上げたから、彼の顔を見るしかない。目の前にあるのはシンの体だけだ。それ以外のものは視界に入ってこない。やがて彼の喉が見えた。いつの間にか喉仏が現れ、彼がもう少年ではなく青年になっていることを示している。そして彼の顔が徐々に見えてきた。形の良い口はぎゅっと不機嫌そうにつむられ、高く筋の通った鼻と、睨みつけるようにこちらを凝視するアランの目。チェギョンはシンの薄いブルーの瞳から視線を外すことが出来なくなってしまった。まるで絡めとられたような気分。

一歩彼がチェギョンに近づき、彼女はそれに応えるように一歩下がろうとしたけれど、壁に踵と背中が当たるだけ。

トン

シンの大きな両手が、チェギョンの小さな顔の両サイドに置かれた。
彼は1本の指も自分に触れていないというのに、まるで彼の腕の中に閉じ込められてしまったような気がする。
チェギョンは息をつくことさえ忘れ、シンの顔を見つめた。
「や、やだ。シ、シン君たら真剣な顔して…。どうしたの?」
辛うじて絞り出した声が不自然に上ずっていることに気づきながら、チェギョンは強張った顔を必死に動かし笑みを浮かべた。戸惑いを隠せるわけもないのに。


「僕が真剣になったら、おかしいのか?」
「え?」
シンは二人の間を縮めた。見上げてきた彼女の長い睫毛が彼の頬に当たりそうなほど近く。
真っ白な肌はしみ一つなく陶器のようだ。けれども彼は知っている。この肌がどれほど柔らかであるかということを。そしてどうしようもなく、触れたくなるのだということも。
「僕はいつだって真剣だ」
「シン君…?」
ずっと抑えてきた。彼女を想う気持ちを。激しく突き上げてくる欲望を、どれほどの忍耐力で抑えてきたと思っているんだろうか。けれど、もう辛抱はここまでだ。

「チェギョン…」
名前を呼ぶと、彼女が瞬きを一つした。その瞬間アランは彼女の名前にぴったりのサクランボのような赤い艶やかな唇に自分のそれを押し付けた。

きっと甘いだろうと予想していた。けれどもこれほどまでに心奪われるものだとは思いもよらなかった。
シンはチェギョンの反り返った背中と壁の間に片手を入れ、自分に引き寄せた。ふんわりとフローラルな香りが漂う。
想像していたよりずっと柔らかな彼女の唇。焦らすように小刻みに動かすと、彼女の体が震えたのが分かる。口の端から端まで下唇をなぞり、背中の窪みに置いた手を大きく広げ、円を描くようにそっと撫でた。
チェギョンの細い腕がアランの腰に廻った。このチャンスを逃がす彼ではない。彼女の小さな頭を片手で掴み、上を向かせると彼は舌を滑り込ませた。
驚いたのだろう、チェギョンがピクリと反応したけれど拒絶の態度はない。だから彼は絡めた舌を大胆に動かし、彼女を味わうことにした。それに、本音としては彼女から離れることなど出来ないと分かってもいた。
 
―――僕の忍耐力をほめてほしいものだ。
 
これまでどれほどの間、彼女に触れることができる距離にいて、それをしないように努力してきたというのか。兄のことを憧れを持って見つめる彼女の傍で、奥歯を噛みしめ嫉妬に苦しめられながら、微笑み返すと言う離れ業をこなしてきた。チェギョンが自分のことを憎からず想っていることは知っている。たとえそれが『幼馴染』としての友情だとしても、だ。
友情が愛情に変わるわけがないと、誰が決めたというのだ。友情が愛情に変わることがないと言うのなら、それを変えてやる。シンはチェギョンを強く抱きしめた。


―――キスってこういうものなの?
 
チェギョンはシンから与えられる官能の世界に身を任せた。友達がクスクスと内緒話をしているから、キスにも段階があることを知っている。

―――これって、これって…なぁんにも考えたくないかも…。

言葉から想像する世界と、実際に感じる世界の間には何と大きな壁があるのだろう。
シンのことしか考えられない。気が付けば彼の腰に腕を回し、強く抱き付いていた。そうでもしなければ、きっと膝から崩れ落ちてしまう。ポロシャツ越しに感じる彼の筋肉の動きと硬さ。いつも一緒にいたのに、今日だって彼に抱き付いたのに、何も知らなかった。
そしてもっと彼のことを知りたい。誰よりもシンの事を知りたい。シンだけが知りたい。


チェギョンは熱く重なる唇の動きに、自分も応えることにした。



トゥルルル


突然、シンの端末が鳴りだした。その音でチェギョンは我に返った。
「あっ」
 
弾かれたように彼女が体を離すと、真っ赤な顔をして下を向いてしまった。折角二人の仲が進展したように感じていたというのに、無粋なベルの音。
シンはイライラした顔をしながら、パンツのバックポケットから無造作に端末を取り出した。チェギョンの腰に回した腕は動かさず。絶対に離すものか。


「―――シンだ」
彼は二言三言短く返事をすると、通話を切った。顔を下げてみると。小さなつむじが自分の肩にもたれている。
彼女はどう感じてるのだろう。
情けないことに、一気に不安になった彼は、
「チェギョン…?」
小さく幼馴染の名前を呼んでみた。ピクンと動いたけれど、顔を上げない彼女に彼はため息をついた。
ずっと二人の間にあった友情を壊したのは自分だ。けして壊さないと心に誓い、自分の心を押し殺してきたというのに、今日に限って抑えが利かなかった。
もう二度と二人の関係は戻らないだろう。
キスしたことは後悔してない。けれども、こうしてよそよそしい態度を彼女にされると思うと、身が切られるほど辛いことだ。
 
こうしていてもどうしようもない。自分から始めたことならば、自分でけじめをつけるしかないだろう。
「チェギョン…ごめん。驚いただろう?」
シンは彼女に優しく囁いた。
「――――どうして?」
小さな声が返ってきた。
「ずっと―――僕がチェギョンのことを見つめていたことに、気づかなかった?」
コクンと彼女が頷いた。
「そうか」
彼は少なからず落胆するとともに、自分がいかに己の心を覆い隠していたかと、その努力を褒めたくなった。
「好きなんだ、チェギョンが」
「え…?」
顔を上げた彼女が彼を見つめた。


シンの思いがけない言葉に、チェギョンは胸が大きく動き出したことを自覚した。けれども、何故だかとても自然な事のようにも感じている。
「なんだ?僕が好奇心から、キスしたとでも思ってるのか?」
照れたような拗ねたような顔をしたシンが、少しだけ頬を膨らませる。
「ち、違うけど…でも」
「でも?」
「シ、シン君、なんだか怒ってるみたいだから…意地悪でしたのかも?って」
しどろもどろに彼女が答えると、
「機嫌が悪かったのはチェギョンだろう?違う?」
彼が下をむいた彼女の小さな顎を掴んで上を向か、視線を合わせてきた。
「僕の服がなんとか、って言ってなかったか?」
 
―――そういうことを、今、この場で言う?
チェギョンはシンの物覚えの良さに舌を噛んだ。あの時の自分の不可解な気持ちを、彼に告げなければならないとは。
 
「あ、あれは―――」
どうしてだか、あの時はシンの姿が許せなかった。
彼の素敵な姿を誰にも見せたくなかったのに、彼はスマートなその姿を惜しげもなく披露していたのだ。
ティールームにいた女性客たちがシンを盗み見ていたのを知っている。そのことを思い出していると、チェギョンは胸の中に黒い雨雲が再び広がるのを感じた。

「あれはっ!シン君が悪いんだもんっ」
トンと彼の硬い胸を押す。押したところで彼はびくともしないけれども。
「どういう事だ?」
チェギョンの細い手首を掴んだ彼はー――彼女がその仕草に心かき乱されていることなど露とも知らず―――大きな目を覗きこみその答えを探ろうとした。

「シン君のこと、みんな見てたわ…」
拗ねたように唇を尖らした彼女は
「大好物のニンジンを目の前にぶら下げられた馬みたいな顔してたもん」
悔しそうに下唇を噛んだ。
「誰がだ?」
「気づいてないの?―――信じられないっ。みんな見てたでしょう?ティールームの女性たちが!」
つかまれた手首をひねってチェギョンは彼の手から逃れようとしたが、彼女より大きな彼の前では無駄な努力だった。だから彼女はおもいっきり頬を膨らませて、フンっと鼻息荒く横を向くことにした。

「なぁ」
心なしか、彼の顔がほころんでいるような気がする。チェギョンは横目でチラリとシンのハンサムな顔を見た。

―――間違いない。喜んでいる。

「なんでそんな顔してるの?ニコニコしてる」
ますます頬を膨らませたというのに、彼は
「そうか?」
とぼけた答えを返してきた。
「そうよ」


拗ねた顔をするチェギョン。
彼女の言葉の意味は―――

自分はもしかして希望を抱いてもいいのではないだろうか?
シンは落ち込んだ心が一気に浮上する気がした。自分は今、幸せの階段を上っているのではないだろうか?

「チェギョン」
シンは横を向いている彼女のこめかみに唇を寄せると、
「それは…チェギョンも僕のことを好きってことか?」
微笑を湛えながら、尋ねた。

「え?そうなの?」
グルンと勢いよく彼女の顔が定位置に戻り、大きな目を見開く。
「ちがうのか?」
ムッとした彼が彼女を見ると、
「…わかんない」
頼りない答えが返ってきた。


―――彼女は鈍感なのだろうか。それもとびきりの。

彼は彼女の手首をむんずと掴むと、リビングへ向かって歩きだした。