「ふぅーん、シン君の言った通りね」
チェギョンは液晶画面を見て、呆れた声を出した。パンケーキに添えられたミルクジェラートに山桃のソースを掛けながら、メディアのタイムラインを眺めていたのだ。彼の言った通り、このコテージはカメラが狙うのにピッタリらしい。
今朝、白いミディ丈のワンピースを着て、コテージの窓から外を眺めていた自分の姿が望遠レンズで撮られていた。目隠し用に植えられている植木の間からだから、『チェギョンらしき人物』という程度ではあるけれども、秘密の恋人だった二人には近寄ることができない場所だ。
「その昔は、精巧なレンズなんてなかったからね」
シンがドイツ風のソーセージにナイフを入れていた。
「これ、美味しい」
赤いベリーのソースは程よい酸味と甘さで、ミルクジェラートの味を引き立てていた。
「気に入った?」
「うん」
優しく彼が微笑み、長い腕が伸びてきてチェギョンの髪を耳に掛けてくれた。
「シェフに言っておこう。褒められて喜んだ彼は、これからここに泊まるたびに出てくるよ」
シンと二人で取る朝食はいつだって美味しい。一日の始まりに彼と過ごすことができる喜びを、チェギョンは毎回噛みしめてきたからだ。二人で堂々とこのコテージに泊まることができる立場になった今も、彼の朝を独り占めできる喜びで彼女の胸はいっぱいだった。
 
――――シン君だらけ、ってことかな。
 
出会った時から自分の胸は彼の事で占められてきた。甘酸っぱい想いが、やがて切ない想いになり、こんなにも辛いならばと彼から離れようとしたこともあった。
「シン君…」
チェギョンは手を伸ばして彼の腕を掴んだ。
「うん?どうした?」
どうして自分は彼から離れることができるなんて、考えたのだろうか。
「私…とってもバカだった」
「チェギョンが?どうして?」
ハンサムな彼の顔が歪んできた。彼女が瞬きをすると、涙が目尻から零れて行く。それを人差し指でそっと拭い、心配そうに自分を見つめている彼に向かってチェギョンは微笑んだ。
「シン君から離れることなんて、絶対できなかったのに」
「チェギョン…」
立ち上がった彼が彼女の目の前に立ち、それから腕を引っ張られ立ち上がった。
広い胸に抱き寄せられ、頭のてっぺんにキスされたことが分かる。開けた窓から波がビーチに打ち寄せる音が聞こえてきた。
「……ジェラートが溶けてしまう」
「あ、本当だ」
チェギョンは顔を上げてシンの顔を見た。二人は額をコツンと合わせ、それから笑い出した。
心の底から幸せだから。
 
ひとしきり笑った後、彼女は彼の膝の上に座り赤いソースのかかったパンケーキを口に入れてもらっていた。
「シン君。シン君にはわかる?」
「なにが?」
キウイをフォークに刺している彼の鋭利な横顔を見つめながら、チェギョンは頬にキスをした。
「幸せな時には、どんなにカメラで狙われても全然嫌じゃないってこと」
彼が顔を上げて、それから笑った。
「チェギョンのその言葉、メディアが聞いたら喜ぶぞ」
「だって、本当のことだもの」
シンがガールフレンドたちと戯れる姿を、ただただ、胸を痛めながら嫉妬心をおさえながら眺めていた時とは違う。今、彼の横には必ず自分の姿がある。
「普通の女の子の私はね、シン王子と仲よく映っている恋人が、自分の姿だなんて信じられない気分なのよ」
彼がカトラリーを置き、チェギョンをギュッと抱きしめてきた。
「ほどほどって言う条件つけだけど」
「それはそうさ。無理矢理なレンズを向けられるのは、誰だって嫌な気分さ」
 
 
彼女の言葉の端々に、日陰の身だった時の苦しさが現れている気がして、シンは自分を罵った。そんな想いをさせていたというのに、チェギョンは今も自分の傍にいてくれる。
 
――――大事にしよう。絶対に泣かせない。
 
嬉しい涙はともかくとして、悲しみの涙を流させるものか。
 
ふぁぁぁ
 
「やだっ」
彼女が真っ赤になった。欠伸をした自分を恥ずかしがっているらしい。
「起きたばっかりなのに、もう眠たいのか?」
その理由を十分知っていて彼は尋ねた。彼女が可愛らしく睨んできた。
「誰のせいなの?」
「もちろん僕だ」
「そんなに堂々と、嬉しそうに答えないで。怒る気力がなくなってしまう」
すぼまった唇に、チェリーを一粒押し込んだ。
「食事をしたら、ひと眠りしようか?まだ外は気温が低いよ」
「ううん、眠らない。散歩がしたいから」
「分かったよ」
 
 
そんなふうに言っていたチェギョンだったけれども、満腹になり眠気が襲ってきたようだ。シンが膝に抱いているうちに、うつらうつらし始めた。彼は満足そうに微笑み、彼女をベッドに運んだ。そしてその傍らにソファを持ってくると、側近のジャズミンと連絡を取り始めた。彼女が眠っている間に仕事をしてしまおう。それからロビンの事も気になる。
このコテージを選んだのは、カメラに狙われやすいからだ。二人の姿を見たロビンがどういう反応を示すか、試したかった。
 
もぞもぞとベッドの上でチェギョンが寝返りをうっている。シンは端末の画面から顔を上げ、彼女を見つめた。白い枕に手を入れて、彼の方を向いて眠っているあどけない姿を見ると、彼を惑わす魅力的な女性というよりは、幼い少女のように見える。背中に流れている長い髪が、窓から差し込む光でキラキラと光っていた。シンはソファから立ち上がると、マットレスに静かに乗り、彼女の横に寝ころんだ。長い髪を掴んで、柔らかい毛先で自分の頬をくすぐる。
 
自分が彼女を隠したかったのは、本当に世間から彼女の身を守りたかったからなのだろうか。もちろん、それもある。そしてそれを大義名分にしてきた。でも、本当のところはどうなのだろうか。
本当は―――。
 
単なる独占欲からだったのかもしれない。
 
初めて会った時からチェギョンが気になって仕方がなかった。美しく可憐な彼女を誰の目にも当たらないように、自分だけのものにしたかった。だから隠したのだ。男のエゴの最たるものだと、今なら自分の気持ちを分析できる。
もしかしたら、この3年間はシンにとって『チェギョンの愛情を自分だけに向けさせたい』という自分勝手な欲望だけに費やした時間だったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
申し訳ないという気持ちはある。苦しめたと思っている。
それでも、もう一度彼女に出逢ったあの時からやり直すことができたとしても、やはり、人前から隠してしまうだろう。チェギョンの瞳が自分だけに向けられいていると自信が持てるまでは。
 
「…ごめん」
苦しめて悪かったという意味なのか、あるいは、何度繰り返しても同じにしてしまうだろうと言う謝罪なのか、シン自身にも分からない。ただ、自分勝手な都合で彼女を振り回すことは確実だから、それに対して謝るだけだ。
辛い思いをさせたからこそ、これからは彼女を幸せにしよう。
 
シンはあらためてそう決意すると、片肘をついていつまでも眠る彼女を見つめ続けた。
 
 
****
 
 
チェギョンは朝から憂鬱だった。シンとコテージに泊まった後、大学へ行くとロビンが彼女の視界の中にやたら入ってくるようになった。警備の女性と一緒に行動するようにしているおかげで、ロビンが声を掛けてくるようなことはなかったかわりに、うっとおしいぐらい頻繁に姿を見せるようになっていた。話しかけてきたり、触れてきたりするならば、拒絶の態度も示せるというのに、相手は適切な距離を保っている。
 
「嫌になっちゃう」
鏡の中でしかめ面をする自分に向かって愚痴を言った。シンにはあまり話したくない。どうせ彼の方は全て把握しているだろうし、ロビンと直接話したわけでもないから何を考えて近寄ってきているのかも不明だ。
 
カチャリとドアが開く音がして、彼女はドアの方を見た。
「用意はできた?」
「うん…」
「車を廻してあるよ。そろそろ行く時間だろう?」
「そうだけど…なんだか今日は行きたくない」
王子の未来の妃という立場は、案外不便だ。『王室の都合で』とそれを理由にできるかと思っていたら、それは甘かった。むしろその点に関しては融通が利かない。明らかに体調が悪いというような理由がない限り、『何となく気分が乗らない』などという曖昧な理由で休むわけにはいかないのだから。
 
「シン君…シン君の事、私、尊敬ちゃう」
自分のすぐ後ろに立った彼に背中を預け、チェギョンは呟いた。鏡の中のハンサムな顔が面白そうに笑っている。
「どうした?子どもみたいなことを言い出して」
「ずる休み出来ないのって不便だわ。そんな不便な生活を、もうずっとしてるんだもん」
彼が声を上げて笑った。
「なんで笑うの?尊敬したって言ってるのに」
温かな唇が耳の後ろの窪みにあてられた。くぐもった彼の声が耳元でする。
「そのうち、王子直伝の言いわけの仕方を教えてあげよう」
「そ、そんなのが、あるの?」
彼の唇が動くたびに、チェギョンの肌に触れてくる。彼女は必死に平静を装った。
「あるよ…」
「そ、そう…あ…」
ウエストに置かれた大きな手が体の曲線に合わせて上がってきた。そして胸の膨らみのすぐ下に添えられた。
彼女が目を閉じると、彼の唇は気だるく動き、うなじをついばんでいる。このままベッドに連れて行って欲しいと、チェギョンがお願いしようとした時、突然甘い愛撫が終わった。
 
 
「今日は僕も一緒に行くよ」
「え?シン君が?」
「久しぶりに学生気分を味わいたいし。王室の図書館にない本が、たまたま大学の図書館の書庫にあることが分かったんだ」
彼女は彼の腕の中でくるりと向きを変え、彼と向き合った。
「それなら大学へ行く元気が出そう」
真っ白なコットンのシャツの袖を無造作に折り、カーキのアンクルパンツを穿いた彼が白い歯を見せて笑う。
「げんきんだな」
額にキスをされて、チェギョンは生意気そうな口調で答えた。
「あら、そんなこと言っていいの?シン君はさっき私に『王子直伝の言いわけ方法』を教えるって言ったばかりでしょ」
 
 
赤いワンピースが似合っている。ウエストから左サイドに流れるドレープがかかったそれは、上品で彼女に似合っていた。ウエストで結んだ大きなリボンの形を彼は整えた。
Vに広がる白い胸元についつい目が吸い寄せられてしまう。こんな魅力的な彼女の姿を他の男たちに見せるのは、気にくわない。今日、一緒に大学へ行くことにしてよかった。
ハイエナさながらに近寄ってくる男たちに、鋭い視線を向けておこう。
 
もちろん、ロビンにも。
 
 
ここのところ連日姿を見せているようだ。チェギョンの大学の学生でもないくせ目障りで仕方がない。ロビンについて調べたところ、これと言った定職に就いているわけでもなく、近所のレストランでウエイターをしているぐらいだ。
何が目的でここにいるのだろうか。
 
――――チェギョンであることは、間違いない。
 
捉えどころがない相手と向き合うのは骨が折れる。彼女の方も、なんとなくロビンのことを気味が悪いと感じているのだろう。朝食の時から浮かない顔をしていた。
「そんな王子の婚約者だからね、君は」
「シン君ったら、誤魔化すのがお上手ね」
そう言って笑った彼女は、さっきよりすっきりした顔をしている。
「ともかく、そろそろ行こう」
「はい」
優しくキスを交わして、二人は手を繋ぎ車寄せに向かって歩き出した。