会場の表ではなく、裏の通用口に車が寄せられた。シンはチェギョンの手を引き、控室に向かった。そこにはすでにジャズミンの采配で届けられたチェギョン用の小物と女官一人とスタイリストが待っていた。
「僕のスピーチの時、チェギョンを壇上に上げたい。彼女の席を作ることができるか、事務局に聞いてくれ」
シンがジャズミンに尋ねると
「すでに承諾を得ています」
引き出したかった答えが返ってきた。シンは側近に向かって満足げに頷いた。
「それまでにチェギョンを仕上げてくれ」
既にチェギョンの髪をブラッシングしていたスタイリストがお辞儀をし、女官はいつものようにかしこまった宮中の作法で頭を垂れた。
 
「チェギョン、打ち合わせに行ってくるよ。その間に準備していてくれ。話は聞いてたね」
「シン君と一緒に壇上に上がるんでしょ?」
「そうだ」
彼女が頷いた。
「練習の成果が見せるチャンスだぞ」
「シン君ってば、私にプレッシャーを掛けてるの?」
チェギョンがいたずらそうに彼を睨んだ。
 
恋人同士だった3年間、シンはあえてチェギョンにはお妃の教育を受けさせなかった。彼女の気持ちを外堀から攻めて行くようなずるい手を使いたくなかったからだ。彼女自身がシンの妻になることを受け入れて、前向きに人生を歩んでほしいと常々口にしてきた。
そしてそれは、彼自身の願望であり、表向きの理由だ。本心は単純に“怖かった”から。チェギョンがシンとの未来を描いてはいないと、シンに対して「NO」と言うのではないかと不安だった。彼女の心をまっすぐに覗きこむことが、恐ろしかったから。
 
そうしてようやく、彼女が「Yes」と答えてくれた。それを機にお妃教育を始めた。
「もっと早くから、教えてくれればよかったのに」
チェギョンが恨めしそうにそういう時もあるけれど、その言葉を聞くと、情けないことにほっとしてしまう。彼女が彼に出会った時からずっと、同じ道を歩く未来を思い浮かべていてくれたという遠回しの告白だからだ。
 
「プレッシャー何てかけてないさ。でも、実践する機会があった方が上達するよ」
シンはチェギョンの肩に手を置き、顔を覗きこんだ。スタイリストは二人のやり取りなど目にも入らない、耳にも入らないとばかりに澄ました顔で手を動かしている。それをいいことに、シンは素早くチェギョンからキスを奪った。
ほんのりと赤くなった顔で彼女が言った。
「…そうね。いつかは公の場で実践するわけだし。シン運も一緒にいてくれるから、やってみる」
少しだけ不安そうにしながらも、健気な態度を示してくれた。
3年間日陰の身で甘んじていた彼女が見せた、サナギから蝶へ変わる姿だった。シンは彼女の手を取ると、真っ白な甲にキスをした。
 
 
 
 
カメラのフラッシュが瞬く中、車の中にいたとはいえ、シンにキスをしたのは自分だ。チェギョンは自分の中の意外な一面を見つけ、驚いていた。隠れていた3年間、ずっと自分は人前に出ることも、嫉妬心を表に出すことも苦手な人間だと思っていた。『控えめで物静かで、シンの言う通りにする従順な女の子』だと、自己分析してきた。
 
――――自分の思い込みだったのかな。
 
 
人気者の彼に自分という正式な婚約者がいる。そのことを分かっているメディアや、その記事を読む人々に対して、嫉妬心を燃やしている。
 
「ねえ、シン君」
「なんだ?」
メイクを手直ししてくれているスタイリストが、チェギョンの正面に立った隙に、彼は彼女の背後に立ちダイヤのネックレスの留め金を掛けてくれていた。
鏡越しに見る彼は、いつもチェギョンが見慣れている彼の顔と左右対称になっているはずなのに、それでも全くの違和感がなかった。とてもバランスの良い骨格をしている証だろう。真剣な顔をして留め金に視線を向けている彼は、王子としての表情ではなく、ごく自然なシンだった。パチンと小さな音がして留め金がかかったようだ。
「私って、案外嫉妬深いみたい。シン君はそのこと、知ってた?」
彼が鏡の中のチェギョンを見つめてきた。突然の言葉の意味を考えているようだ。そしてニヤリと笑った。
「知ってるに決まってるさ」
「え?そうなの?」
チェギョンは驚いて振り返って、彼を見た。ネックレスとお揃いのダイヤのピアスが揺れる。スクエアのプラチナの台に縦1列に5つのダイアが連なっている。チェギョンが動くたびにそれはユラユラと不規則に動き、輝きを放っていた。シンが婚約の印に贈ってくれたジュエリーのセットだ。
「そうじゃなかったら、ノロノロ動く車の中で、あんなふうにキスしないだろう?」
シンが身を屈めて、耳元で小さな声で言った。チェギョンの顔が熱くなった。鏡を見れば真っ赤な顔の自分が映っていることだろう。彼は鋭い。チェギョンがどうしてあの場所で、あんなふうに自らキスをしたのか、その理由を彼女自身より正確に把握していた。
「もうっ、分かっててそう言う事言わないで」
クククと彼が喉の奥で笑い、そうしてそれからとても優し気な笑みを浮かべた。
 
「――――嫉妬されて嬉しいって言ったら、僕は例俗な男かな」
「嬉しいの?」
驚いた。まさか彼からそんな言葉が出てくるなんて思わなかった。
「もっと詳しく説明したいけど、もう時間だ」
「あ、本当ね」
ジャズミンが用意してくれたシューズは、ワンピースと同じベージュのパンプスだった。12センチの細いヒールは、足元をエレガントに見せてくれる。
「さあ、行こう」
「はい」
差し出された彼に手に自分のそれを重ね、チェギョンは立ち上がった。会場へ続く廊下を歩きながら、彼の横顔を見つめた。こうして彼と並び、誰に見られてもいい立場になって堂々と歩くことができる日が来るなんて、寂しさに耐えていた日々からしたら考えられないことだ。
毎日、少しずつ薄皮が剥がれ落ちえているような気がする。チェギョンの中の本当の自分は、どんな姿をしているのだろう。
 
――――シン君はそんな“私”を知っていたの?
 
チェギョンは繋いだ指に力を込めた。シンが彼女を見て、そして同じように握り返してくれた。
 
 
*****
 
 
「なかなかいい写真だ」
シンは満足だ。チェギョンを連れて行った公務は、概ね好意で受け止められた。見つめあっている二人の写真や、顔を寄せ合って話している姿、絡まった指、シンがそっと彼女の腰に置いた手のひら…そうした一連の二人の様子が流れていた。
「これを見て、ロビン・キャンプも真実に気づいてくれるといいですけど」
ジャズミンがぼそりと言った。
「気づかなかったら、そいつはバカだ」
「人間、先入観という厄介な思い込みがあります」
彼の言う通りだ。どこをどう切っても、チェギョンと自分は愛し合っている婚約者同士に見えるだろうけれども、最初から『見せかけの二人』だと思っている人間が見たら、これらの画像はどう見えることだろうか。
シンの背中にひやりとしたものが流れた。
「ジャズミン、チェギョンの身辺の警護を今までより厳しくしろ」
「承知しました」
大事な彼女を守るのは自分だ。シンは信頼の眼差しで自分を見上げている彼女の画像を見つめた。
 
 
****
 
 
 
「お友達と一緒にランチして帰るから、今日はここでいいわ」
チェギョンは自分の警護に当たっている女性に向かって声を掛けた。ロビンの事があってから、シンが彼女の警護体制を強めた。それについて文句はない。けれどもあれからロビンの姿は一度も見てないし、今日は気の置けない友人と久しぶりに会う。たわいない会話をするだけだ。
「少し離れた席で待機しましょうか」
「うーん…そうね。でも、人気のお店なのよ。あなたが席に座ったら、お客さんが1人入れなくなってしまう」
「分かりました。それでは、店の中が見える場所で待機してますね」
「そうしてくれたら嬉しい」
すっかり顔なじみになった彼女に微笑み、チェギョンは店に入った。
 
 
「誰なの?あの人は」
「私の警護をしてるの」
「ああ、なるほど。チェギョンは未来のお妃さまだものね」
シンのことを親友のジュレーヌにも内緒にしてきたというのに、彼女はそれを理解してくれた。そればかりか「辛かったでしょう。気づいてあげられなくてごめんね」と涙を流してくれたのだ。
ジュレーヌは栗色の髪をボブにして、ぴょんぴょんと毛先を跳ねされている。リップとお揃いのオレンジ色のネイルも、焼けた小麦色の肌によく似合っている。彼女のグリーンのワンピースは、南国のリゾート地にピッタリの装いだ。
「旅行は楽しかったの?」
チェギョンは彼女に問いかけた。1週間バカンスへ出かけていたジュレーヌは一段と肌が光っていた。
「チェギョンも一緒に行けたら良かったのに」
「本当ね」
せめて気分だけでもバカンスを楽しもうと、パイナップルのジュースを飲んだ。
「会いに来てくれてありがとう」
「何言ってるのよ、友達でしょ。友達にお土産話を持ってくるのは当たり前。たとえそれがお妃さまでもね」
二人は同時に笑い出した。
 
 
あれこれと近況を話し合った後だった。
「ねえ、ロビンの事だけど」
ジュレーヌがそう切り出した。学生時代からの友人の彼女は、ロビンのことを知っている。
「うん…」
「頻繁に会ってたの?」
「まさか。そんなわけないでしょう?だって、何年ぶりなのか覚えてないぐらい久しぶりだったの」
チェギョンは飲みかけていたジュースのストローから口を離した。
「そう…それなら納得だけど。でも、噂になってるのよ」
「え…」
ロビンが突然抱き付いてたときの様子が、広がっていることは知っていた。けれどもシンが事実を知っているから、彼女は特に気にしてなかったのだ。
「王子は知ってるの?」
「シン君は全部知ってるし、彼が気にしないでいいって言ってくれたから…」
「これ以上厄介なことにならないといいけど」
ジュレーヌがそう呟いた。それから極まりが悪そうに声を落として言った。
「実はね、ロビンが私に会いに来たのよ。『チェギョンを窮地から助けだしたいから、協力してくれて』って。もちろんそんなこと断ったし、『チェギョンは幸せなの。王子と愛し合ってる』って私は言い返したんだけど…ね」
彼女の言い方だと、ロビンがその言葉に耳を貸さない様子が浮かんできた。
「どうして急にそんなふうに言いだしたのかな」
チェギョンはずっと気になっていた疑問を口にした。
「分からない…」
ジュレーヌが首を横に振った。
 
 
「チェギョン!ジュレーヌ」
突然声を掛けられて振り返ると、
「ロビン…どうしてここに…?」

爽やかな笑みを浮かべたロビン・キャンプが立っていた