「また…」
チェギョンは胸に抱いたテキストをぎゅっと握った。図書館にいる時から、誰かの視線を強く感じていた。シンがメディアに強く圧力を掛けてくれたおかげで、大学にいる間はチェギョンはただの女子学生で居られるはずだ。
一歩大学を出ると、“シン王子の婚約者”として常にカメラに追われている。
少なくとも大学内に居る時は、今まで通りに過ごせるはずだった。実際は以前の通りとはいいがたいけれども。
シンの取り巻きは、遠巻きにチェギョンを見てこそこそと話しているし、そのほかの人たちは素直な好奇心の目を向けてくる。

それでもチェギョンはシンに文句ひとつ言わないことにしていた。

日陰の身でいたことを思えば、こうして堂々と彼が隣で並んで歩いてくれる日が来たことが、今でも信じられないから。多少の不便さなど、シンの前では帳消しになってしまう。

けれども先程から感じる視線は、余りにも遠慮がない感じがする。チェギョンは妙な胸騒ぎを覚え、籠のバッグの中から端末を取り出した。


ルルルル


無機質な機械音を聞きながら、チェギョンは深呼吸をした。

――――シン君、お願い、出て。

彼が仕事中なのかどうか、確認せずに電話を掛けてしまった。彼は「チェギョンの電話なら、いつだって大歓迎だ」と優しく言ってくれるけれども、そんな言葉に甘えるつもりはなかった。
こうして堂々と人前で並んで歩くことができるようになった今も、彼女は大好きな彼に迷惑を掛けたくなかったから。
「チェギョンは根っからの貧乏性だな」とシンが呆れてるけれども、その瞳の奥に彼の痛みと後悔が見え隠れしていた。長い間、チェギョンを日陰に身にしてきた事をシンは深く悔やんでいるから。


「チェギョン?どうしたんだ?」
「シン君…」
もしかしたら手が離せない仕事中だったのかもしれないのに、彼はそんなことは一言も言わず、チェギョンを優先する態度を示してくれる。
「あのね…」
「僕の事より、チェギョンのことを優先してくれ」

―――シン君…。


少しだけチェギョンは考えた。「なんでもないの」と明るく答えて電話を切ることもできるから。


――――でも、でも…。

彼女が悩んでいる間にもあの妙な視線は消えない。
チェギョンはぎゅっと端末を握ると、思い切って不安を告げることにした。
「なんだか、変な視線を感じるの」
「何だと?」
厳しい彼の口調に、チェギョンは端末を耳から離した。
「シン君、耳が痛い。大声出さないで」
「チェギョン、そこはどこだ?」
「大学。大学の…図書館の前」
チェギョンは小さな声で答えた。
「大学内なのに…変だな」
彼がそう言ったのには訳がある。メディアの規制を王室が掛けているおかげで、大学構内では勝手に画像の撮影ができないことになっているから。
「あと10分でそこへ行くよ。だから、人目が多い場所にいるんだ。いいね」
「う、うん」



「失敗だったな」

シンはハンドルを握る手に力を込めた。学部は卒業した彼女だけれども、王子の婚約者である以上、特定の職業に就く予定はなかった。その代わりに、大学に残り勉強を続けている。せめて大学にいる間ぐらいは自由にさせてやりたくて、大学内にいる間はチェギョンに護衛をつけていない。それが裏目に出た気がする。

相手がシンのファンである女性ならまだいい。言葉の暴力はするだろうけれど、それ以上のことはしないだろう。
彼が懸念しているのは、チェギョン目当ての男たちだ。


極力目立たないようにしてきた彼女だけれども、正式な婚約者として報道されてからは、本来の彼女らしい姿をするようになった。当然世間が黙っておかない。
控えめで愛らしい姿のチェギョンは、一気に人気者になった。

王子であることが恨めしい。交通ルールを守らなければならないから。そうでなければ、アクセル全開で道路をすっ飛ばしていただろう。
シンはハンドルを握りならら、人差し指でコツコツと革を弾いた。



****


サクサクという地面を踏みしめる音で、チェギョンは顔をあげた。近づいてくる影は、シンのそれとは違った。彼女は身構えた。
「チェギョン」
「…ロビンなの?」
チェギョンの初恋の人がそこに立っていた。



突然目の前に現れたかつての初恋の人が、
「今でもチェギョンが好きだ」
いきなり言い出した。
「い、いまさらそんなこと言われても…困るの」
チェギョンは困惑したまま素直に答えた。それなのに、ぎゅっと抱きしめられ―――あまりに素早い動きで逃げ切れなかった―――見当違いなことを言っていた。
「王子に無理矢理言い寄られたんだろう?僕には全部分かっている」
「違うわ」
チェギョンははっきりと答えた。
「いいんだ、今は本当のことが言えないんだろう。僕がチェギョンを救い出すから」
「違うの!」
ドン、とロビンを押し、チェギョンは走った。






「チェギョンっ」
「シン君」
シンが図書館まで急いで向かっていると、向こうからチェギョンが一心に彼に向かって走ってくる。赤いストライプのワンピースは背中に大きなリボンが付いている。肩からウエストまで共地のフリルが付いているAラインのそれは、ほっそりとした彼女によく似合っていた。
シンは大股で歩みを進め、彼女を腕に抱き留めた。
相当不安だったのだろう。チェギョンが強く抱き付いてくる。その細い体が小刻みに震えていた。
「何かあった?」
シンの言葉にチェギョンが首を横に振った。
「何もなかったなら、良かった…」
ふっと体の力が抜ける。シンはチェギョンの三角の顎を掴み、その瞳を視線を合わせた。
「ん?何もなかったというわりには、少しおかしいな」
どこかビクビクとしているチェギョンが、何か言いたげに口をもごもごと動かし始めた。
「何があった?僕に話して」
両手でその顔を挟み二人の額をつけると、シンは優しい口調になるように気を付けた。
「シン君っ」
突然彼女が首に抱き付いて来て、シンは1歩後ろに下がった。


「―――シン君しかいないって、シン君は分かってる?」
突然の彼女の言葉に、彼は戸惑いつつも、その意味は理解できた。
「分かってるよ」
細い体を抱きしめる腕に力を込めた。

「うん…。も、もしも…昔のボーイフレンドが、急に目の前に現れたら、どうしたらいい?」
チェギョンの震える声を思いやる前に、シンの怒りはいきなり頂点に達した。
「僕が串刺しにしてやろう」
シンが本気でそう言うと、彼女は大きく目を見開き、それから笑い出した。笑われるようなことなど言っていないけれども。
「シン君ってば、大袈裟ね」
「何が大袈裟なもんか。チェギョンの婚約者は僕だぞ」
彼女がゆったりと笑った。彼はノースリーブから伸びる、真っ直ぐな上腕を掴んだ。彼の感情が高ぶるのと反比例して、彼女の方は落ち着きを取り戻している。
「その“ボーイフレンド”とは誰だ?」
シンは憮然としたまま彼女に尋ねた。
「ロビンよ。ロビン・キャンプ」
初めて聞く名前だ。自分以外の男が過去にチェギョンにいたことが妙に腹立たしい。でもシンには文句を言う権利などない。さんざんチェギョンの目の前で、他の女性たちと戯れてきたのだから。たとえそれが意図的なもので、相手の女性たちに興味などないとしても、恋人のそんな姿など見たくもないがの普通だ。
それなのに、自分はそうした姿をチェギョンに見せてきたのだから。
 
「そいつのどこが好きだったんだ?」
「どうしたの、急にそんなこと…。もう過去の事よ」
「分かってる」
ああ、分かっているとも。それでもそう聞かずにはいられなかった。
「―――分からない」
「分からない?」
チェギョンが視線を落とし、ポツンと答えた。そしてそれ以上答える気はなさそうだった。
 
「で、そのロビンがどうしてここにいるんだ?」
チェギョンはもともとこの国の人間ではない。シンの遠い親戚筋の小国の王女が彼女の友達だった。チェギョンに出逢い、彼女をどうしても自分の妻にしたくなったシンは、少々強引に自分の国の大学へ誘ったのだ。その彼女の『昔の恋人』がこんなところにいることが気にくわない。
 
「それもわからないの。だから私も混乱してる」
やっと顔を上げた彼女のヴァイオレットの瞳が、揺らいでいた。不安そうにしているチェギョンにこれ以上しつこくその男のことを問いただすべきではないだろう。
「そうか…僕がいるから大丈夫だ」
シンはチェギョンの額に軽く唇を押し付けた。
「さあ、帰ろう」
「うん…」
 
 
 
 
突然ロビンが現れて、チェギョンの頭の中は疑問符だらけだ。シンを見上げると、さっきよりは表情が柔らかくなっていた。そっと固い胸に頬を寄せてしっかりと抱き付いた。こんなふうに外で彼に抱き付くなんて初めてかもしれない。
「明日、またロビンが来たらどうしよう」
抱きしめてくれる彼の腕に力が入った。
「ジャズミンを同行させよう」
「でもジャズミンがいなかったら、シン君が困るでしょ?」
彼の忠実な側近であり、警護であり、親友であるジャズミンを、こんな些細な事で借りるわけにはいかない。明日の彼の仕事は国王の代理のはずで、側近のジャズミンなしでは困るだろう。
「僕よりもチェギョンを優先したいんだ。ジャズミンが一緒なら僕も安心だよ」
「ダメ。シン君の邪魔はしたくないの」
「邪魔だなんて思ってないさ。一緒にいられない自分に苛立つけどね」
チェギョンはじっとシンを見つめていた。ずっと日陰の身だったけれども、二人でいる時は彼は何よりも自分を大事にしてくれた。今になってしみじみと思う。秘密の恋人だった時は辛い気持ちだったけれども、彼なりにチェギョンを守ろうとしていてくれたのだと。
「うーん、じゃあ、明日は宮殿で大人しくしてる。それなら、ジャズミンもシン君に同行できるでしょ」
「いいのか?」
「いいの」
本当は調べたいことがあった。けれどもそれは後回しにしてもいいだろう。
 
『厄介事は極力避けること』
 
シンが二人の仲を公表した時に、チェギョンに教えてくれた言葉だ。逃げているわけではなく、トラブルになりそうなことには自分から遠ざかることが大事だということらしい。それでなくともプライベートがいちいち話題に取り上げられてしまう立場なのだ。人々の関心を引かないようにすることが、結果、己を守ることにつながる。
 
彼がホッとした顔をしたから、チェギョンの出した答えは間違っていなかったのだろう。
「今夜はチェギョンの好きな料理をリクエストするといい」
指を絡めて歩きながら、彼が言った。
「毎晩そう言ってる、シン君ってば。それに、どのお料理も美味しくて、結婚式のドレスが入らなくなりそうで心配」
彼が笑った。
 
 
 
 
*****
 
 
 
 
「やっぱりな…」
執務室でシンは強張った顔で液晶画面を見つめていた。夕食後、「執務があるから」とチェギョンに言い訳したのは、理由があった。ロビンという男がチェギョンに近づいたことを、メディアが嗅ぎつけたのではないかとシンは考えた。そしてそれは当たった。
メディアのカメラが入れないとはいえ、メディアのカメラではないカメラが撮った画像は、このご時世規制することは難しい。大手のメディアには出てこなくとも、探せば必ずこの手の話題は取り上げられる。
ロビンがチェギョンを抱きしめている姿―――初めて見た時には、余りにも腹が立ち、タブレットを割ってしまいそうになった―――が拡散していた。
 
 
「どんな男だ?」
顔を上げてデスクの前に立つジャズミンに問いかけると、いつもながらに淡々とした口調で
「調べておきました」
ファイルを差し出してきた。シンはパラパラと中を読み、ポイっとデスクに投げ捨てた。
「たいした男じゃないな」
ジャズミンが顎を上げた。同意するという意味だ。
「ジャズミンの好みじゃないだろう?」
微かに眉を上げた側近は
「シンに個人的な好みを教えるつもりはないよ」
そっけなく答えた。シンはフンと鼻で笑うと、
「チェギョンが傷つかなければいいけれど…」
ロビンとのことがあったせいか、「眠たいから、先に寝てるね」と元気のない様子で話していた彼女の姿を思い浮かべた