自分の婚約者が自分ではない他の男と踊っている。シンは、面白くない。憮然とした顔を隠すことなくグラスを片手にチェギョンを見つめ続けた。人々は「シン王子が嫉妬している」と面白おかしく噂をするだろう。それでも構うものか。事実彼は嫉妬しているのだから。
完璧に整えた夜会服の襟元を、ぞんざいに緩めたくなるほどイライラしている。

そろそろワルツが終わりを告げそうだ。バカバカしいほど上品ぶった人々が礼儀にのっとってダンスや会話をしている。一枚化けの皮を剥げば、ゴシップ好きの意地悪さが顔を出すだろうに。
「誤魔化したところで、誰もが知っているというのに。ちょっとした仮面舞踏会というところか」
彼らの噂話や陰口は容赦がない。だからシンはチェギョンを守りたかったのだ。彼が選んだ方法は彼女の存在そのものを透明人間のようにすることだった。
あの時はそれが最善だと信じて疑わなかったけれど―――。

「殿下、何かおっしゃいましたか?」
「いや、何も」
軽く手で側近たちを制すると、オーケストラが最後の音を奏でる前に彼は歩き出した。

「チェギョン、今度は僕とだ」
「殿下…」
「シン、だろ?」
白すぎる彼女の小さな顔に唇を近づけ、そっと頬に口づけた。
白いレースの胸元は形よく丸みを帯び、薄いブルーのシフォンの幾重にも重なったスカートがふわりと揺れた。パーティの前に彼は大ぶりのピンクのバラを1輪、彼女のウエストのリボンに刺してやった。彼女が動くたびに、バラの香りが漂ってくる。
「折角宮中のマナーを学んだのよ。それなのに王子のシン君がそれを率先して破らせようとするなんて、意地悪ね」
チェギョンが少しだけ口の端を上げた。ここが広いホールの中央ではなく、二人きりの寝室なら彼女は彼を睨みつけてきただろう。
「僕がこの宮中のマナーだから」
もごもごと何か挨拶をして去っていくチェギョンのダンスの相手など一瞥もせず、シンは彼女の腰を抱き寄せた。二人の体がピッタリと触れ合うほど。

「私のダンスの先生は、優秀なのでしょう?」
「ああ、そうだよ」
シンの合図で再び流れ始めたワルツ。彼は大きくステップを踏み、チェギョンを抱いたままクルリと大胆に回った。彼が踊りはじめると、周りは自然と輪の外周へ広がり、ほどなく二人だけがホールの中央で踊っていた。
「私、『男女は30センチほど離れて踊る』と習ったのよ」
チェギョンの言葉にシンは笑い声をたてた。皆が注目するほど楽しげな声。
「シン君、笑わないで」
彼女が今度はあからさまに睨みつけてきたけれど、彼は平気だった。こんな風に自分の感情を押し殺さない彼女でいてほしいから。

―――僕の償いだ。

随分長い間、彼女を日陰の身にしてきた。
明るい声と溢れんばかりの笑顔を奪って来たのは自分だ。だからこうして公の場で彼女を抱き、好きなだけ見つめられる今は、しゃちほこばった顔ではなくチェギョンらしい表情を見せてほしいと願っている。

「―――チェギョンが大好きだから、誰にも奪われないように、こうしてつかまえておくんだ」
彼は彼女の耳たぶにキスをしながら囁いた。
「困った王子様ね」
「でも、好きだろう?」
シンは冗談めかして口にしたつもりだ。けれども、チェギョンはすぐに答えはくれなかった。





ダンスの相手とステップを踏んでいても、チェギョンはシンの鋭い視線を感じ続けた。
もう何年もああいった視線を彼に向けてきたのだ。あの時の自分を思い出すと、切なくなる。
けれども
「好きよ」
こうして彼の腕に抱かれステップを踏む日がやって来たのだ。もう過去の辛いことは水に流してしまおう。二人で川下りをした時のように。
「シン君が大好き」
「チェギョン…僕もだよ」
ほんの少しだけ間をおいて答えてみただけなのに、彼の顔に痛みにも似た後悔と不安の色が見て取れた。きっとシンンは自分たちの関係を隠してきた事について、自分を責めているのだろう。
こうして公のもとで正式な婚約者としてお披露目された今、彼が心配していたことは決して見当違いな事ではなかったをチェギョンにも分かった。実際、何をしていても注目されてしまう。長い間、世間の女性たちの間で『理想的な王子様』として君臨してきたシン王子。その彼に、実は長年付き合って来た恋人がいて、そして婚約しているという事実が明るみになった。
当然、チェギョンは一夜にして有名人になってしまった。
どこから調べるのか、彼女の学生時代のエピソードが数えきれないほど披露され、小さな頃の写真が拡散されていく。
しばらくたつと、今度はリアルタイムの彼女の写真を撮ろうと、カメラに追いかけ回されるようになった。

それでも、チェギョンは幸せだった。少なくとも、こうした会に出席することができて、こうして彼と踊ることができる。

―――ずっと柱の影から見つめるだけだったから。



+++++



半年前―――


時々、この大学の学生であることが厭わしくなってしまう。チェギョンはため息をついた。
カフェテリアで課題をこなしていた彼女は、ふっっと集中力が切れた。どうしてそうなったのか、瞬時に気づいた。
「シン王子がね…」
大好きな彼の名前が耳に入ってきたからだ。

ここは名門大学であり、同時に恋人シンの母校。彼のとりまきたちが何人もいる大学。

「クルーザーバカンスに誘ってもらったわ」
誰だか知らない女学生が自慢げに口にする。

―――私も乗ったことあるけど。それも月のない夜に。ライトは最小限で、ね。

チェギョンは心の中で呟いた。あれはあれでロマンチックだった。海岸から少し離れ停泊したクルーザーで1夜を過ごした。月は無かったけれども、代わりに無数の星が煌めいていた。
夏の海風は素肌に心地よく、チェギョンは彼にしがみついていた。
でも、本当は夜だけではなく、太陽がギラギラと水面を照らす昼間にも、彼と水平線を眺めながら過ごしたい。

「…『やってみたいことリスト』に入れておこうかな」
チェギョンのリストは際限がない。小さなノートはもうすぐ最後のページだ。
最初にこのノートをつけ始めた時、まさかこんなにもリストが出来上がるとは思いもよらなかった。
途中まで数えていて、やがて彼女は数えることを止めた。虚しさと共に、切なさが押し寄せてきたから。最近はもっぱら「リストアップしたことがかぶってないか」調べることに時間がかかる。
「そのうち、カテゴリー別に分類しちゃおうかな」
チェギョンは一人笑った。そんなことをして気を紛らわせても落ち込むだけだ。


―――シン君、どうしてなの?

何度も彼に問いかけようとしてできない言葉。こんなに短いセンテンスだと言うのに。
押し込めた感情が時にふっと津波のように押し寄せ、チェギョンが築き上げた大きな防波堤を乗り越えてきそうになる。
一緒にいる時の彼はとことん優しい。あの瞳に見つめられると、「もう少しだけ我慢しよう」と己を戒めてしまう。

「シンと寝てみたいわ」
クスクスと笑う女性学生の声が聞こえてきた。
彼は自分を裏切っているのだろうか。時々、本当に時々、不安になる。

―――そんな事あるわけない

強く自分に言い聞かせ、チェギョンは過ごしている。

「でも彼って、絶対二人きりにならないのよ。どうしてなのかしら?」
「プレイボーイのプリンスって言われてるのにね」

―――シン君…。

「もう少しだけ信じてみよう」
チェギョンは小さく呟き、立ち上がった。



+++++



「ねぇ、シン君」
「うん?」
チェギョンは彼の肩に置いた指先に力を入れた。顎を上げて彼を見つめると、睫毛が彼の顎をかすめる。
彼の端正な顔は、何もかも完璧だ。男性にしては羨ましいほど長い睫毛が、高い頬骨に影を作っていた。大きなシャンデリアが創り出す、きらびやかな光の元で彼の瞳が揺れている。じっと見つめていると、チェギョンだけが映っていた。
「…ううん、なんでもない」
彼女はそっと彼の肩に頭をもたれさせた。
「やっとダンス教師のクダラナイ教えを忘れたんだな」
シンが満足そうにそう言って、頭のてっぺんにキスをしてくれた。
「でもシン君。私が他の男性とこんな風に踊ったら、どうするの?」
「踊らないからいい」
「そんなこと、出来る?」
「出来るさ。僕はチェギョン以外とは踊らないし、チェギョンも僕以外とは踊らない」
チェギョンは幸せが胸に広がるのを感じた。
「じゃあ、私はそうする。―――もう、シン君が他の女性と踊っている姿を見なくて済むのね」



ズキンと胸が痛んだ。シンはチェギョンの言葉に込められた彼女の苦しみを感じた。
「ごめん」
「もうその言葉は禁止ワードよ」
彼女が明るく笑ってくれたけれども、シンはその言葉通りに受け止めることなど出来なかった。誰よりも大事な人だというのに、よりによって彼女を傷つけた張本人が自分であるという残酷さ。
「愛してるんだ」
「シン君…」
ゆっくりと音楽が止まる。彼は彼女の手を握り、庭園に向かって開け放たれた窓に向かって歩き出した。

「寒くないか?」
「大丈夫」
彼女はそう答えたけれども、むき出しの華奢な肩に彼は自分の上着を羽織らせた。向かい合って見つめると、彼女の視線が自分から外れていることに気が付いた。
何を見つめているのだろうか。
「星が見えない」
そう言われて夜空を見上げてみたけれど、確かにぼんやりと霞がかかったようで星はほとんど見えなかった。
「―――海ではよく見えたのに、ね」
彼女の言葉で思い出した。いつだったか、夏の夜にクルーザーで1夜を過ごした。
あの時の事だろう。
「また行こうか」
「うん」
チェギョンが空を見上げたまま答えた。

そして彼女が瞬きをした瞬間、一筋の涙が頬を伝っていく。
「チェギョン…?」
「シン君、知らなかったでしょう?あの時、私…明るい太陽を沢山浴びたかったって。キラキラ光る水平線も見つめたかったって。―――月のない夜に絞ったライトの光の中ではなくて、明るすぎる夏の太陽の下で、シン君の笑顔を見たかったって…」
「チェギョン」
「知らなかったでしょう?」
彼女がようやく彼を見た。
「―――言わなかった私も悪いの。言えばよかったのに」
「違うっ。チェギョンは悪くない」
彼女の小さな手が彼の頬を包んだ。
「でも、もう、シン君は知ってるわよね」
「ああ、知ってる。知ってるよ」
彼は彼女を思い切り強く抱きしめた。甘い香りに包まれながら、シンは囁いた。
「あの日、出来なかったことを全部しよう」
「うん…」

ひとつずつ傷ついた心を癒していくしかないのだ。
こうして自分が彼女を傷つけてもなお傍にいてくれる。

「チェギョン、僕は沢山君に傷を与えてしまった。だから、全ての傷を癒すまでは、僕の傍にいてくれ」
「じゃあ、全部癒されたらどうするつもり?」
シンはニヤリと笑った。
「僕はチェギョンに数えきれないほどの傷をつけたんだ。あと、80年はかかりそうだよ」
彼女の目が大きく見開き、それから優しく微笑み返してきた。
「随分と意地悪な王子様だったのね」
「そういうことだな」
シンはチェギョンの下唇を親指でなぞり、
「まずは手始めにここから―――」
彼女の笑い声が零れる前に口づけた。


「あの日、君が飲み込んだ願いを、今度こそ全て叶えてあげたい。愛してる」


~end~



「こんなにあるのか」
シンは手に持った小さなノートを見て苦笑した。
サングラスをかけた彼女が、レンズの向こうでいたずらそうに笑ったのが分かった。
クルーザーのデッキチェアに座った彼の膝の間に、彼女がちょこんと腰かけている。
「これでも厳選してるの。全部書いてたら、1冊で収まらないから」
彼はノートをテーブルに置くと、長い腕で彼女を閉じ込めた。
「とりあえずノートに書かれたリストを全部クリアするには、どれぐらいだろうな」
「あら、エンドレスよ」
ツンと答えた彼女に、彼は首をかしげて問いかけた。
「だってね、今もリストは増えてるんだから」
「例えば?」
シンの言葉に、チェギョンが眩しいほどの笑みを見せた。

 

「例えば…クルーザーのデッキチェアで、100回のキスをする事、ってことかな」