「足の裏が熱い」
チェギョンが泣きそうな顔でシンを見つめた。そんなふうに自然なままの感情を表に出す彼女を、彼は久しぶりに見た気がした。
彼女に沢山のことを我慢させてきたのかもしれない。
シンの胸がチクリと痛んだ。

彼が手で合図すると、ジャズミンがビーチサンダルを持って来た。

「ほら、これで大丈夫だ」
白い砂浜に赤いビーチサンダルが置かれた。チェギョンの肘を掴み、彼女がサンダルをはく手助けをする。遊びに出た時はまだ、彼女は自分が触れるたびに体に力を込めていた。
今はそんな不自然さが消え、信頼しきったように彼の体にもたれてくる。

「海に入るか?」
彼が声を掛けると、彼女は首を横に振った。
「ううん、ちょっと休憩したい」
ホテルのプライベートビーチには、宿泊客たちの姿がまばらに見える。
ビーチチェアに向かって歩き出したとき、何人かが自分のことに気づいたらしい。シンにはわかった。そしてそのことに、勘のいい彼女も気づいたようだ。

ハッとしたようにチェギョンの足が止まる。

「あ、あの…私、コテージに戻った方がいいと思う」
「いいんだ」
「でも…」
「いいんだ」
シンはチェギョンの手を強く握り、歩き出した。不安そうに自分の横顔を見つめる彼女に気づきながら、シンはジャズミンの顔を見た。
いつにもまして無表情な部下は、目を伏せた。それを見たシンは、大きく息を吐いた。

チェギョンの白く小さな手を見つめ、彼は口元まで持ち上げるとその甲に唇を押しあてた。
「シ、シン君、人が見てる」
慌てて彼女が手をひっこめようとしたけれど、彼はそれを許さなかった。
彼女の手から落ちそうになっている浮き輪を掴み、シンは彼女に笑いかけると、二つの浮き輪を片腕に引っかけ、歩き出した。


―――チェギョンを手放すものか、絶対に。


あの出逢いは運命だ。あんなふうに心臓が音を立てたことは、且つてないのだから。

「チェギョンはパラソルの下がいいだろ?」
色素が薄いと表現するのがピッタリの彼女は、こんなにも強い日差しのもとでは真っ赤になってしまう。

シンはビーチチェアを日陰の下へ動かすと、チェギョンを座らせた。


「う…ん」
落ち着かない様子の彼女を見て、シンの胸はまた痛んだ。この3年間彼女を彼は隠してきた。それは彼女を護るためだったとはいえ、チェギョンの存在そのものを否定するような仕打ちだったと気づいたからだ。

「チェギョン…ごめん」
「シン君?」




人目があると言うのに、シンは気にしない様子でチェギョンに触れてきた。まるで、2人きりの時のように。
もしかして、いや、きっと。今の自分たちを見つけてレンズを向けている人がいるはず。
ずっとこうして人前で堂々と彼と歩きたかったはずなのに、思っていたのとは違った。ひどく落ち着かない気分になるのだから。
年上の彼は分かっていたのだ。人目に付くところで二人が一緒にいたら、チェギョンがこんな気分になると言う事を。だから彼は自分を護るために隠していてくれたのだ。

―――そんなことも分からないなんて。

チェギョンは自分の幼さが歯がゆかった。
自分だけが悲劇のヒロインでいるような気がしていた。

彼が沢山のガールフレンドと噂されるたびに、胸が苦しくなった。嬉しそうに彼に腕を絡めている彼女たちを見て、あんなふうに屈託ない顔で彼と街を歩きたいと願っていた。でも、それは想像したよりずっと『つまらない』ことだったのに。


「チェギョン…」
ビーチチェアに座るチェギョンに、隣に立ったままのシンが覆いかぶさるように近づいてきた。
誰かが見てるかもしれないのに―――

でもチェギョンは彼を受け入れた。シンのブルーの瞳がとても切なそうに見えたから。キスをされているのは自分なのに、何故だか、彼にキスをしてあげているような気持ちになる。

もしかしたら自分は、シンのことを正しく理解してなかったのかもしれない。
チェギョンは手を伸ばして彼の頭を掴んだ。水に濡れた黒髪に指を埋める。シンが倒れ込んできた。そのまま二人で重なるようにビーチチェアに寝そべると、言葉のかわりにキスを続けた。

彼の重みが愛おしい。大きくて温かい体が自分を覆いつくしているというのに、何故なのだろうか、とても安心できる。
チェギョンは口を開けた。彼に自分を差し出すように。


「チェギョン、泣かないで」
シンが囁き、彼女の目じりから流れ落ちていく涙を唇で拭ってくれた。
彼の言葉で初めて、チェギョンは自分が泣いていることを知った。

―――もっと早く気づけばよかったのに。
チェギョンは涙を流し続けた。

どうして自分はこんなにも子どもで、彼は大人なのだろうか。
聞き分けのいいふりをしていたけれど、素直な気持ちを捻じ曲げていただけだ。そうして耐えていれば、彼が申し訳なさそうに謝ってくれると、その分、愛をくれると思い込んでいた。
「違ったのに」
「チェギョン?」

 
―――違ったのに。

彼に愛してほしいから傍にいたわけじゃない。自分が彼を恋しく想い、愛してるから傍にいたんだと。

「シン君…私…」
目を開けるとぼやけた視界の中に、チェギョンだけを見つめてくれるブルーの瞳が見えた。
「…僕たちはこれからも一緒だ」
シンが優しく笑い、涙で貼り付いた髪をそっとよけてくれた。
「いいの…?」
こんなふうに、彼のことを理解できなかった子どもの自分でいいの?

チェギョンの心の言葉は彼に通じたようだ。

「いいんだ。僕にはチェギョンしかいない。…チェギョンにも、僕しかいないだろ?」
最後の言葉は少し不安そうに彼が言った。いつも自信に満ちている彼なのに。
だからチェギョンは手を伸ばして、彼の耳を引っ張った。
「王子様は、いつだって、尊大な王子様なのね」
びっくりしたように目を見開いたままの彼の首に両手を伸ばし、チェギョンは思い切り抱き付いた。

そして言ったのだ。

「シン君は、私の白馬の王子様よ。ずっと、これからも」



*****



「そろそろコテージに戻ろうか」

海でいっぱい遊んだ。
浮き輪につかまって二人で波に揺れたり、大きなイルカのボートにも乗った。チェギョンはイルカになかなかよじ登れなくて―――巨大なボートに昇るだけの腕の力が無いから―――泣きべそをかいていると、シンが笑った。
そして逞しい腕であっという間に彼女を引き上げてくれたのだ。
ボートに倒れ込んだ拍子に彼女は彼の上にかぶさり、彼の顔中にキスをした。


真っ白な砂浜で、チェギョンは薔薇を作った。
余りに夢中になっていたら、彼が大きなつばのついた白い帽子を被せてきた。
「日焼けでひりひりになるぞ」
そう言って、チェギョンの頬についていた砂を親指でそっと払ってくれた。その優しい指の動きが幸せで、彼女は涙をこらえるのに苦労した。
折角作った薔薇の花びらに、涙が落ちて形を歪ませてしまったけれど。


「もう?」
楽しかった一日が終わるのが残念で、チェギョンは口を尖らせた。ビーチチェアに座る彼の胸に背中を当てて、座ったまま。
「また明日来ればいいよ」
シンが思いがけない言葉を言う。チェy言は顔を後ろに向けて彼を見た。
「明日も?」
そんな夢のようなことがあってもいいのだろうか。
「だって、シン君は『今日一日だけは』って言ったわ」
「あれは、チェギョンが…一人で帰ろうとしていたからだ」
お腹に回された彼の腕に力が入り、2人はピッタリと貼り付いた。





「―――帰らないだろ?」
情けないことに彼女が「Yes」というか確信が持てなくて、シンは彼女から視線を外した。
「帰るわ」
「チェギョンっ」
シンがチェギョンを見ると、彼女は笑っている。
「だって、明後日には帰るでしょ?―――シン君も一緒に」
悪戯そうに目を細めている。

「ああ、そうだ。“二人で”帰ろう」
「え?」
「別々の便で帰ることはやめた。言ったろ?僕たちはずっと一緒だ、って」
「でも…」
隠れて行動することが当たり前になっていた。シンはチェギョンの体を持ち上げると、自分を向かい合わせに太腿の上に座らせた。
コツンと二人の額を合わせる。

「父上にも母上にも、了承済みだ」
「何が?」
チェギョンが不思議そうな顔をしてシンを見つめてきた。
「チェギョンを僕の未来のお妃にしたいんだ」
「―――シン君」
「チェギョンが21歳になるのを、僕がどれだけ待ち望んだか、知らないだろ?」
出逢った時、彼女はまだ大学に入学する前だった。あれから3年たち、彼女は卒業した。

「ずっと前から決めていたんだ。チェギョンが21歳になったら、『僕のチェギョン』にしようと」
今までどれほど彼女を泣かせてきたのだろうか。でも、今、彼女が流している涙だけは、これまでの涙と違うはずだ。
「…3年間、ごめん。僕は思いあがっていた。チェギョンを護るナイトの気分でいたけれど…傷つけてただけだ」
「違うわ」
チェギョンが首を横に振った。
「私、私…私こそ子どもだったの。シン君が守ってくれてるその意味が、分からなかった」
「チェギョン」
彼女が瞬きをして、それからにっこりと笑う。白い薔薇が咲き誇るように。

「ちゃんと言って」
シンが大好きな彼女の笑みがこぼれた。
だから彼は柄にもなく緊張して、言ったのだ。



―――僕と結婚してください


~end~




「んもうっ!!どうしてビーチはダメなの?」
チェギョンがブツブツと文句を言うと、シンが言い返してきた。
「日焼けで泣いてたのは誰だ?」
彼が心配したとおり、彼女は全身真っ赤になっていた。シーツが擦れていたい、と泣いていて、プロポーズした記念する夜に“愛し合う”ことができなかったのだから。

「今日はこのプールで我慢しろ」
「シン君の意地悪っ」
ぷいっと横を向いたチェギョンは、それでも彼の言葉に従うつもりのようで、バルコニーのウッドデッキを歩いていた。


「あとで水着を脱がせてやろう」
シンがよこしまな考えを浮かべていることなど、チェギョンは知らなかったけれど。


「シン君!早く、来て」

 

―――青い水の中に咲いた、僕のホワイトローズ