シンに手を引かれながら、チェギョンは歩く。赤いビーチサンダルは、デコボコした川底で足を取られそうになる。そのたびに彼がぎゅっと握ってくれた。


赤いビキニを選んだ。白いワンピースを羽織り彼が待つリビングへ顔を出したとき、シンが目をすがめた。彼が自分のこの姿をどんなふうに感じたのか、チェギョンにはわからなかった。
細く貧弱な体を見て、自分との別離を喜んだかもしれない。
きっとそうだ。朝起きてからの彼の明るさは、それが理由だろう。昨晩の彼は、一時の感傷的なムードに流されていただけなのだ。一晩寝て事実に気づいたのかもしれない。
チェギョンと別れれば、好きなだけ自分好みの女性を選べることに。

目の奥がチクチクする。

涙を流すなんて卑怯者のすることだから。自分から言いだしたことだけども、チェギョンは後悔していたのに、シンの方は喜んでいるかもしれない。


「きゃあっ」
考え事をしていたせいで、足元への注意がおろそかになっていた。つるんと滑って尻餅をついた。
「チェギョンっ」
繋いで手を彼は決して手放さなかった。だから彼もくるぶしほどの川底に膝をついた。


「もうっ。ぬるぬるしてるんだから」
チェギョンが小さく悪態をつくと、シンが楽しそうに笑い声を上げた。
「苔がなかったら、それをエサにしてる魚が困るだろ」
迷うことなく彼女の両脇に手を差し入れて、立たせてくれた。
「…チェギョン、頬が赤くなってるぞ」
見つめあったまま彼はそう言うと、日焼けでほてる頬に唇を当ててきた。
チェギョンは目を閉じた。サラサラと流れていく水の音と、足元の冷たい川の流れを感じながら。

頬を滑る彼の唇。やがて口の端にたどり着き、そっと重なってきた。
―――あの時もそうだった。
チェギョンは気づいた。このシチュエーションは、2人の初めてのキスだと。


++++


「どこへ行くのですか?」
「いいから」
自分の手を掴みずんずんと庭園を歩くシンの背中を、チェギョンは見つめた。

チェギョンは戸惑った。親友の王女に呼ばれて宮殿へ来たら、肝心の彼女は不在。かわりに彼女の親戚筋のシン王子が窓際に立っていたのだ。窓から差し込む陽射しでっ逆光を浴びて彼の顔は見えなかった。
それでよかった。彼の姿を見てしまったら、チェギョンは息をする事ができなかっただろうから。

「散歩しようか」
「はい」

彼は迷うことなくチェギョンの手を取り建物の外へ出た。

初めて出逢った王女のパーティから数か月。王女に呼ばれて宮殿へ遊びに来ると、時々彼もいた。仲良しの親友が、絶対意図的ともいえるタイミングで部屋を出ていくと―――国王に呼ばれた、とか、ピアノのレッスンがあるとか、たわいもない用事―――残されたの彼女とシン王子。
7歳ほど年上の彼は、世間で噂されてるイメージとは違い、至極真面目で好青年だった。紳士的な態度で、チェギョンをひとりの“女性”として扱ってくれたことに、内心感動さえしていたのだ。

何度も顔を合わせるたびに、2人は親しくなっていった。

そのうち王女がいなくとも、2人だけで通じる会話が増えていき、それとともにチェギョンは胸が苦しくなっていた。

―――もう会わないでおこう。
彼に会えばどんどん自分は惹かれていく。眩しくて目を開けられないほど、ドキドキ動く心臓が口から飛び出してしまうほど…シンが好きだった。

それなのに、こうして彼に手を引かれ、庭園を横切っている。


「チェギョン、薔薇園があることを知ってるかな」
「王妃様の花園ではなくて?」
「小さな薔薇だけの花壇があるんだ」
真っ白な歯を見せて、彼は笑った。そして分かった。自分は恋に落ちてしまったのだと。ここから抜け出すことなど、もうできないだろうと。


連れていかれた薔薇の花園は、小ぢんまりしていたけれどもとても美しかった。

「知らなかったわ、すぐそばの小道をいつも歩いているのに」
チェギョンが驚きながら言うと、シンが腰に手を当てて得意そうに言った。
「僕は何でも知ってるんだ」
その少年じみた言い方に彼女が笑うと、
「何でも知ってるんだぞ」
ぐいっと腰を曲げて彼女の顔を覗きこんできた。

「チェギョン…何でも、知ってるんだーーー」

気づけば彼の腕の中に居た。

「チェギョンはキスを知ってるか…?」
低く甘い声が聞こえる。魔法にかかったように動けない彼女は、ただ小さく首を横に振った。
「じゃあ、僕が教えてあげよう」
チェギョンが返事をする前に、頭の後ろを掴まれ、頬に彼の唇を感じた。そっと目を閉じると彼は頬から唇へ向かって少しずつ動き、やがて口の端を捉えた。

「チェギョン」
シンの掠れた声に体の奥が共鳴したかのように震えた。
両端に軽いキスをされた後、彼はゆったりと熱い唇を重ねてきたのだ。


++++



あの時のキスは、夢心地だった。もっとキスに馴れたら頭の靄は醒めるのだろうかと思っていけれど…それは間違いだった。
シンとのキスはいつだって、夢のようだから。

今だって―――


「…さあ、行こう」
ゆっくりと、ゆっくりと離れた彼の唇。
チェギョンは目を開けると、まだシンを感じることが出来る唇に指をあてた。

―――シン君






チェギョンが戸惑っているのは承知している。

どれだけ彼女に言葉を重ねたところで、チェギョンは考えを変えないだろう。
だからシンは、自分たちの想い出で彼女の心を揺さぶろうと思った。二人がこの3年間、どれほどの時間を過ごしてきたかチェギョンに思い出してほしい。

まだ自分は、彼女に謝罪の言葉も告げていないではないか。

彼女を傷つけてきた事を知っている。ヴァイオレットの瞳が涙で濡れていたことは、一度や二度ではない。それなのにチェギョンは一言も批判めいたことを言わず、ただ自分のもとを去ろうとするのか。

―――そんなこと、許すわけがない。


「そろそろ、いいだろう」
振り返ると日焼けで頬と鼻の頭を赤くした彼女が、眩しそうに自分を見つめ返している。

「ここから?」
「そうだ。ここから降りて行こう」
片方の肩に引っかけていた大きな浮き輪を水面に浮かべると、シンはチェギョンを見た。
「ほら、乗って」
「う、うん…」
困った顔をしてる彼女。どうやって乗ったらいいか分からないようだ。

細い脚が片方浮き輪の真ん中に入った。それからシンの肩を掴み、もう片方入れている。

「僕も乗るぞ」
浮き輪はわざと一つだけ持ってきた。チェギョンの後ろに立つと、シンは彼女の腰を掴み抱き上げた。
「シ、シン君?」
「さ、滑って行こう」
浮き輪の真ん中に尻を入れると、浮き輪は水流に乗り動き出した。


心配そうなチェギョン。無意識なのか、彼の首に腕を回し身を寄せてくる。
シンは微笑んだ。

「そろそろ流れが強くなるぞ」
「え?―――きゃっ」
ボフンと軽い衝撃を受け、浮き輪が勢いよく滑り落ちていく。

「チェギョン、目を開けてごらん」
「だって、怖いわ」
「怖がっていたら、見落としてしまうぞ」
そうだ、自分たちの間にある“大事な想い”も彼女は見落としている。どうか目を開けてくれ。

シンは祈るような気持ちで彼女の白い顔を見つめた。

「チェギョン、さあ。怖がっていたら、大事なものも見えないだろ?」
彼の言葉に彼女がおずおずと目を開けた。





―――大事なものが見えないだろ

シンの言葉は、川滑りのことだけを指しているのだろうか。
チェギョンは飛び込んでくる景色を見つめながら、考えた。

「チェギョン、目をつぶって」
そう言われて前を見ると、滑り台のようになっている流れの先に、大きな池のような空間が広がっていた。
彼女が慌てて目を閉じると、シンが頭を抱き寄せ彼の肩の窪みにくっつけてくれる。
川の匂いに混じって、彼の香りがする。硬い背中に腕を回しぎゅっと抱き付いた。


ポンと体が投げ出され、浮き輪が吹っ飛んでいった。そして勢いよく水の中に落ちていく。

それでもシンはチェギョンを掴んだままだ。
あんなスピードで水に飛び込んだのに。


チェギョンは力を抜いた。シンがいるのだから、大丈夫。足が付かないほどの深さだけれども、彼が自分をしっかり抱きしめていてくれる。



「どうだった?」
ザバンという音が聞こえ、自分が水面から顔を出したことに気づいた。その瞬間チェギョンの耳に聞こえてきたのは、切なくなるほど安心できる彼の声だった。

「シン君」
チェギョンは彼の首に抱き付いた。
「―――楽しかった」
「それは良かったよ」
背の高いシンでも足が付かないのだろう。いつの間にか浮き輪を手繰り寄せ、彼はチェギョンの腰を掴んだまま、浮き輪につかまっている。

川べりへ向かって彼が動き出した。
彼女は彼の首に抱き付いたままハンサムな横顔を見つめた。

―――もしかして、自分の出した結論は間違っていたのかもしれない。
だってこんなにも彼を信頼しているのに。

頬が濡れているような気がするのは、飛沫がかかるからだろうか。
それとも―――



*****




「もう少し行くと海だ」
今度は二つの浮き輪をもった彼が―――ジャズミンが用意していた―――チェギョンに黄色の浮き輪を持たせた。
お揃いの浮き輪に乗り、ユラユラと海へ向かって下ってく。

先に流れていくシンの姿を追う。“彼だけ”を見つめる。

チェギョンは不思議と恐怖心が消えていることに気づいた。川下りは初めてで、怖がりな自分には向いていないと不安だったのに。
シンの姿を見ていたら、岩にぶつかってクルクルと回る様を楽しむ余裕まで出てきたのだから。

―――シン君だけを見ていればいい


彼のことだけを見ていれば、周りのことなど消えて行く。
「そう言いたかったの…?」
突然彼が外で遊ぼうと言い出したのは、それが理由だったのだろうか。

ポンと岩にぶつかり世界が回転していく。

チェギョンは空を見上げた。

どこまでも青く、どこまでも素直な青。
「素直になればいい?」
チェギョンが空に尋ねた時、木々の間から零れた光が『Yes』だと答えてくれた気がした