「チェギョンっ」
シンは小走りにリビングを横切ると、真っ白な彼のプリンセスを抱きしめた。
「シン君…?どうしたの?まだ戻ってくるには早い時間よ」
チェギョンが困惑したような声で話しているけれど、彼はそんなことはどうでもよかった。
「チェギョンが熱を出したって聞いたから、戻ってきた」
「え?」
彼女の驚いた声に、彼は抱きしめていた腕の力を抜き、小さな恋人の顔を覗きこんだ。
「熱が出たんだろ?」
「出てないわ」
チェギョンが首を振った。そして、コンっと小さな咳をした。

「咳が出てきただけよ」
「そうだったのか…」
彼は体の力を抜くと、部屋の隅に立つジャズミンの顔を見た。

黒く長い髪を後ろで一つに束ねたハンサムなジャズミンは、シンが最も信頼する部下であり、友人だ。宰相を父に持つジャズミンは、シンの幼馴染であり、王子である彼をずっと守ってきた護衛でもある。
そして、ここが最も大事なことであるが、ジャズミンは女性を愛さない。女性を『愛せない』のか、『愛さない』のか、詳しいことは知らないが、シンが知っている限り彼に女性の恋人がいたことはない。
何度か『恋人』らしき男性の影がちらつく時期もあったけれど、女性の恋人がいたことはないだろう。

シンは自分を見つめるジャズミンの視線に、熱い何かを感じることがあることに気づいていたが、あえてそれに触れないように、意識しないようにしている。
ジャズミンの素晴らしいところは、シンが大事にしているものを同じように扱ってくれることだ。だからチェギョンを任せている。
シンがどれほどチェギョンを愛しているか理解しているジャズミンは、全力で彼女を護ってくれるだろう。

シンが優秀な部下を見つめると、彼は頭を軽く下げた。その仕草にシンは右の眉を少しだけ上げた。ジャズミンが言わんとしていることは?


「風邪の引き始めかもしれないぞ」
シンはそう言うと、羽のように軽い恋人を抱き上げた。
「大丈夫よ。だって体はだるくないもの」
チェギョンが優しく微笑んだ。まるで、白い薔薇が咲いたようだ。
シンは目をすがめて恋人を見つめた。
白いと言うよりも透き通っていると表現したほうがあっているだろう。チェギョンはシンが出逢った誰よりも肌が白い。それが彼女を儚げな美少女に見せている理由の一つだ。
「今朝まで元気だっただろ?どうしたんだ?」
朝起きた時、彼女はいつも通りだった。昨日の夜、2人で部屋に備え付けのプールで遊んだのがいけなかったのだろうか。
「今日、夕方一人でプールに入ったの」
彼女が静かに答えた。バイオレット色の瞳が彼を見つめてきた。
彼女の瞳はいつも何か彼に訴えているような気がして、落ち着かない気分にさせられる。
「チェギョン?」



いきなり部屋へ戻ってきた彼。
肩にかかる程度の真っ黒で艶やかな髪とブルーの瞳。精悍という言葉がぴったりの男らしい顔立ち。女性なら誰もが羨ましくなるほど長い睫毛の向こうから、彼は自分を見つめていた。
チェギョンは驚いた。シンが二人の部屋へ戻ってくるのは、大抵深夜だ。友人たちにも自分の存在は隠されている。彼女は彼よりも一足先にこの島へやって来た。彼はゴシップネタをいつも引き連れているから。

そんなシンは、パパラッチたちに疑いを持たせないためなのか、彼自身がそうしたいのか分らないけれども、いつだってチェギョンがベッドに入った後に戻ってくるのだ。

どうやら彼は自分が『高熱を出して寝込んでいる』と勘違いしたらしい。
チェギョンはシンの肩越しにジャズミンを見た。
恋人の忠臣は自分の心まで見透かしているようだ。ジャズミンは気づいたのだろう。チェギョンがシンを恋しがっていることに。
彼女はほんの少しだけ首を傾げてジャズミンを見た。すると彼は僅かに口の端を上げて目を伏せたのだ。

「チェギョン、夕暮れ時に水に入るなんて無茶だぞ」
「あら、だって昨日は夜に入ったでしょ、シン君と」
無理矢理な言い訳だと知っていて彼女は言い返した。昨日はプールの水の温度を上げてあったのだ。そして今朝、「水温を上げておこうか」と尋ねてきた彼に、首を横に振って「泳がないからいいわ」と答えたのは、彼女なのだから。

「チェギョン」
彼女の思った通り、彼は眉を吊り上げて難しい顔をしている。チェギョンは手を伸ばして、黒く整った男らしい眉毛に指を滑らせた。
「―――水はそんなに冷たくなかったわ。本当よ」
ニッコリと微笑んで見せると、シンは少しだけ表情を和らげた。

コン

途端に小さな咳が出てきて、チェギョンは顔をしかめた。これではせっかく彼の怒りが収まってきたのに、また過保護な恋人に戻ってしまう。
「チェギョン、ベッドへ行-――」
「寂しかったの」
チェギョンは言った。




いきなり彼女が自分の言葉をさえぎって話し出した。
何時も控えめでどこか自分に遠慮しているような彼女が、シンの言葉が終わらぬ前に言葉を被せてくることなど、初めてだ。
「チェギョン…?」
小さな顔を覗きこむ。
「寂しかったの」
彼女がもう一度繰り返した。
細い腕が首に巻き付き、彼女が首に顔を埋めてきた。
「寂しかったの」

暖かな水が首筋に当たり、彼は彼女が泣いていることに気づいた。
「ジャズミンは…私の気持ちに気づいたのよ。だから、シン君をここへ呼んでくれたの」
チェギョンが静かに囁いた。

「とりあえず、ベッドへ横になるんだ」
シンは彼女を抱いたままベッドルームへ向かった。彼女に伝えなければならないことは沢山ある。謝罪の言葉も、慰めの言葉も、そして“約束の言葉”も。



肩で扉を押すとベッドルームへ入る。白いリネンのシーツで覆われたベッドの上に、彼女の服が散らばっていた。ふと見ると、ベッドの足元にはトランクが広げられている。
「チェギョン、これは…」
彼女の顔を見ると、寂し気に瞬きをした後、彼を見つめてきた。
「ここを去るつもりだったんだな」
震える声になってしまった。彼女をこんな風に追い込んだのは自分だ。
分っているけれども、自分に内緒で去って行こうとしたチェギョンに腹が立つ。

シンはベッドの端に腰かけると、膝の上に彼女を抱いたままぎゅっと白く細い首に顔を埋めた。
―――ローズの香り。
あの日、運命の出会いをした日から、いつも彼女の香りを恋しく思っている。

「チェギョン…僕といるのは、そんなに辛いのか…?」
答えが聞きたくなくて先延ばししてきた。けれども、彼女の心をここでつなぎ留めなければ、二度と自分の前に姿を見せてはくれないだろう。

「チェギョン、答えてくれ」
チェギョンが深く息を吸った。
「シン君が傍にいないと、私、どうしたらいいか分からない」
彼女の細い声が聞こえてきた。
シンは彼女を強く抱きしめた。そうしなければ、手のひらから流れ落ちていく砂のように、彼女は消えてしまいそうだったから。
「―――シン君が私を守ってくれてるのは、分かってる」
チェギョンは賢い娘だ。だからこそ、多くのガールフレンドと浮き世を流し、大事な恋人の存在を隠してきた。

「シン君…ありがとう…」
「チェギョン」
シンは顔を上げた。そして悟ったのだ。チェギョンが別離の言葉を言おうとしていることに。
「ダメだっ。僕から離れるなんて許さない」
彼が強く言っても、彼女の瞳は悲し気に揺れるだけだった。
彼は彼女をかき抱いた。体を繋ぎとめたところで、離れていく心をとどめておくことは不可能だと知っていながら。




「チェギョン、お願いだ…ここに居てくれ」
いつもは堂々としてこの世に怖いものなどない、とばかりのシンが大きな体と声を震わせながら懇願している。チェギョンの心は揺れた。自分の肩に顔を埋めている彼の髪に指を埋めた。黒く艶やかな髪は、いつものように彼女の指に絡まってくる。
彼女は少しだけ微笑み、そしてぎゅっと唇を噛んだ。今夜彼の腕の中で眠ったら、明日シンの前からひっそりと姿を消すつもりだった。

出逢って3年。ずっとこうして彼を待っていた。
3年できたことだ。この先だって出来るのではないか、と。


―――でも、もう無理ね、きっと。

彼は自分の生気も吸い取って行く存在らしい。シンといる時だけが、チェギョンにとって生きている時間だった。そして、彼が自分の傍にいない多くの時間は、まるで人形のように心を無くして過ごしている気がする。

「シン君…私のこの姿を見て」
そっと囁いた。もし彼が自分をあきらめてくれなかったら、最後は彼の良心に訴えようと思っていたのだ。

「チェギョン?」
不思議そうに彼が彼女を見つめた。
「ほら、ね。私、こんなに薄く軽くなってしまったの。シン君も、気づいていたでしょ?」
シンの目に苦し気な色が映る。
世間では『ゴシップネタに事欠かない王子』だと思われているけれども、本当の彼はどこまでも紳士だ。彼がチェギョンのやせ細った体に気づかないわけがない。
そして彼女がそうなった“理由”も。


「チェギョン…」
「もう会わないわ」
「ダメだ」
チェギョンを抱きしめる彼の腕に力が入る。彼女は優しく微笑んで見せた。
「ちゃんと見てるから。シン君のこと、ずっと見てる」
「だったらっ!だったら、僕の傍で見ていてくれ。見張っていてくれ」
必死な形相の彼が愛おしい。チェギョンはじっとブルーの目を見つめ、それからゆっくりと首を左右に振って否定した。

「もう、傍にいられない。だって―――」
―――だって、傍にいたらシン君の全てを欲しくなるから。

チェギョンは口をつむんだ。これ以上は無理だ。口を開いたら涙がこぼれてしまう。

言葉に代わりに彼にキスをした。
沢山の想いを込めて―――