「チェギョン、ここを開けてくれ」
「シンなの?」
「そうだ。さあ早く」
チェギョンは急いで窓の掛け金を外し、全開にした。彼の手が窓枠を掴み、やがて黒髪を少しだけ乱したハンサムなシンの顔が見えた。
「シン」
チェギョンは彼の手首を掴んだ。

「大丈夫だ」
そう言った彼は長身の体を窓から滑り込ませてきた。
全身黒い服を着た彼が、ポンポンと手を払いそれからチェギョンと視線を合わせて来た。彼女は力いっぱい抱き付いた。離れたくない、という気持ちのままに。

「少しやつれたね。食べてるのか?」
チェギョンは首を横に振った。
「こんな時に、食事が喉を通るわけないわ」
そう、正に絶体絶命の時に。シンの手がチェギョンの背中を撫でている。彼にこうして触れてもらうと、絶望の穴にどっぷりとつかっているにも関わず、喜びが全身を駆け抜けていくから不思議だ。
「―――あいつは?ここへよく来るのか?」
絞り出すような声に、チェギョンはさらに強く抱き付いた。
「一日に一度」
シンが唸り声を出した。
「もう会えないと思ってたの。シンが姿を消したって、あの人が得意げに話していたから…」
「チェギョンを残して?まさか、僕が本当にそんなことをするだなんて、君は思っていなかっただろうね?」
顎を掴まれて、チェギョンは彼の瞳とぶつかった。
「―――ああ、チェギョン。そんな出鱈目を信じたなんて」
堪えていた涙が零れ落ちて行った。
「僕がこの国を抜け出すとき、君と一緒だ」
「シン…。例え夢だとしても、嬉しい」
「夢なわけないよ」




薄茶色の瞳が哀しみの涙にぬれているというのに、彼女は何て美しいのだろうか。
それがある意味、チェギョンの不幸だった。シンの従兄である王太子に、見染められてしまったのだから。好色で有名な王太子は、既に2回離婚している。理由は簡単。
『美しさを失った妃など不必要だ』と。

シンは自分の迂闊さを叱咤した。

身内で開かれた祖母である王太后の誕生日の集まりに、恋人のチェギョンを連れて行ったのだ。自分を可愛がってくれる祖母に、チェギョンを紹介したかった。それが間違いだった。
ユル王太子の目が光った時、シンの胸に一抹の不安がよぎった。けれども、従兄は40歳を越していたし、チェギョンはまだ24歳の若い女性だ。ましてや、この“シンの”恋人だと言っているのに。

王太子はしたたかだった。
何度かチェギョンに接近しては、それをさり気なくメディアに流した。そして大々的に―――一方的に―――彼女を婚約者として紹介したのだった。

シンは祖母に従兄の行為を止めるように頼んだ。けれども祖母は悲しそうに目を伏せ、
「もう婚約をしたと、公表してしまったのよ。2度の離婚で王太子の人気は下がっているし、王室への国民の心の離れてしまった。ここでまたユルの汚い部分が見えてしまったら、今度こそ国民から見放されてしまう」
涙を流して、シンに身を引くように言うのだった。


もともと、いけ好かない従兄だった。シンは王太子を憎んだ。
そして誰よりも許せないのは自分だった。

「チェギョン…愛してる」
「私も、私も。例えシンの正式な花嫁になれなくても、心でずっとシンの妻でいる」
「チェギョン」
貪るようなキスは、涙の味がした。









「シン、あと1週間しかないのね」
白く長い手足が彼の体に巻き付いている。彼は小さなヒップを掴み、彼女の体を自分の上に引き上げた。
「なんとかする」
「できないわ。今日だって、いつ、あの人に見つかるか分からないというのに」
シンは鼻で笑った。横暴な王太子は、宮殿内で人気がないのだ。反対にシンは人気者の王子。チェギョンとシンの悲劇は宮殿内で広く知れ渡っていたし、誰もが彼と彼女に同情してくれた。
今日だって、彼らの手助けがあったからこそ、チェギョンのところへ忍び込んでこれたのだ。そして誰も従兄には告げ口をしない。そう自信がある。





「チェギョンは何も心配しなくていい。ただ僕が迎えに来るのを信じて、待っていてくれればいいんだよ」
「でも…」
「大丈夫だ」
チェギョンはそれ以上彼に何か言うことをやめた。二人には時間がない。それならば不毛なやり取りに時間を費やすよりも、もっと彼を身体中で感じていたい。
――― 一生忘れないように。


出逢いは突然だった。




+++++



「ねえ、チェギョン。あなたの事、みてるみたい」
友人たちがきゃあきゃあと黄色い声をあげた。フェリスは顔をしかめた。友人の視線の先にいるのは、シン王子。
黒髪の王子は大層ハンサムで、背も高かった。甘いマスクと優しい笑顔で人気の彼は、王太子よりもずっと国民から支持されていた。品行方正とはいいがたい王太子と反対に、あれほどまでにハンサムなのに、シンは浮いた噂がなかった。恋人はその時々でいたようだけれども、それさえもロマンスとして囁かれ、スキャンダルにはならない。彼の人柄のせいだろう。


大学の卒業生であり、大口の支援者である彼は、時々キャンパスでその姿を観ることができた。

そして気づいていた。

彼が必ず、自分を見つめていることに。
最初は偶然が重なったのだと思っていた。けれども、ある日―――夏だった―――強い陽射しを避け、チェギョンは大きな木の下に腰を下ろした。デニムのワンピースで良かった。少しぐらい土がついても目立たないだろう。
読みたかった本を膝の上に広げ、チェギョンは熱心に本の世界にのめり込んだ。


レモングラスの香りがしたような気がした。けれどもチェギョンは一瞬だけ香ったそのことは、瞬く間に忘れた。物語が佳境を迎えていたから。

「そんなに感動する?」
突然の声に、最後の感動が止まってしまった。
顔を上げて驚いた。木の後ろからシンが顔をのぞかせていたから。
「どういう話?」
長い腕が伸びてきて、彼女の膝の受けから本を掴んで取り上げられた。
カサっと音がして彼がチェギョンに近づき、それから隣に腰を下ろしてきた。黒と白の太いボーダーのТシャツに白いコットンパンツ。脚の長さは嫌味だろう。

チェギョンは睫毛の隙間から彼を見た。

「あ…」
ところが、シンは真っ直ぐに彼女を見つめていたのだ。チェギョンは驚き、顔を上げた。
「僕が見ていたこと、気づいてた?」
チェギョンは頷いた。ほっとしたように彼が肩を下げた。
「それならよかった」
白い歯が眩しい。彼の髪が眩しい。彼の全てが眩しかった。




+++++




あの時、チェギョンは恋に落ちた。
シンは優しくて良く気の利く恋人だった。彼女を湛える愛の言葉は惜しみなく与えてくれるけれども、そこに彼の下心はなく、ただ、本心からそう言ってくれるのが伝わってきた。
初めてだった。こんなふうに素のままの心を見せてくれる人は。だから、チェギョン自身もそうした。人見知りが激しくて、男性たちの視線にさらされることが苦手。そんなチェギョンも、シンには心を開くことができた。

それなのに。

どうして人生の歯車は、思った通り、願った通りには動いてくれないのだろうか。


「シン」
チェギョンは彼の肩の窪みにこめかみを当てた。
それから男性らしい喉仏にキスをする。
「―――もう一度抱いて」
彼の子どもが欲しい。愛してもいない相手、それも嫌悪感しか感じない男性の妻となる身。せめて愛するシンの子どもを腕に抱いて生きていきたい。

二人の別離が決定的になった時から、子どもができるようにしてきた。
今日が最後のチャンスかもしれない。だから体中がバラバラになるほど、彼に抱かれたい。

「チェギョン、心から愛してる。僕には君しかいない」
「私も、シンしかいないわ」
こんなに愛し合っているというのに、天は何故自分たちの味方をしてくれないのだろうか。
チェギョンは目を閉じ、涙を流した。


*****



「ロミオとジュリエット、さながらね」
「姉さん」
宮殿の裏に車を止めてシンを待っていてくれたヘミョンが、呟いた。
彼が乗り込むと素早く車を発進させてくれた。
「チェギョンはどうだった?」
「憔悴しきってた。できることならこの手であの窓から彼女を救い出したいぐらいだったよ」
大きな目に涙を流し、チェギョンがシンを見つめていた。
今にも彼について行きたそうに。
「もうすぐよ」
「ああ」
泣いても笑ってもあと1週間。

「姉さんの方の準備は?」
「任せて。大丈夫、できてるわ」
大通りのあちこちに、王太子の3度目の結婚を祝うための花や旗が飾られている。シンは忌々しいものを見るかのように、それらを睨みつけた。
「チェギョン、もう少しだけ我慢してくれ」








彼は行ってしまった。帰り際、どれほど彼に「自分も連れ出して」と願いたかったことか。
チェギョンは窓際に座ってぼんやりと中庭を見つめていた。
シンは「大丈夫。チェギョンは何も心配しなくていい」と言うけれども、どんなことが起きても「大丈夫」だとは言えないだろう。

奇跡が起こって、シンと一緒に逃げられたとしても、その後の彼の立場はどうなるのだろうか。大きなスキャンダルになるに決まっている。

「シン…愛してる」
彼がいないのなら、生きていく希望さえ持てない。一日も早く王太子に別離を言い渡されたい。これまでの妃のことを考えれば、あと5年ほどで“お払い箱”になるだろう。
それまで、シンは自分を待っていてくれるだろうか…?

普通の会社員の父と母、それに妹たち。
家族が世間から白い目で見られることを避けたかった。家族は「チェギョンが辛いなら、国を出よう」と言ってくれたけれども、そんな簡単な事ではないだろう。

「あと、6日」
時計を見れば悲しみがつのる。