日記 No.517
■笑顔
今日電車に乗っていたら、子連れのお母さんが乗ってきた。
自分の隣の席が空いていたので、小学生かそれ以下の娘さんをそこに座らせたお母さん。
譲った方がいいなと思って、「席どうぞ。」と言うと、「すぐ降りるので」というお決まりの返事。
でも「本当に大丈夫です。ありがとう。」と言われ、席にもう一度座ると、
「おかあさん、よかったね。せきゆずってもらえてね。」と元気な声。
そして僕に向かって、「ありがとーございます!」と笑顔で言葉をくれた。
なんか本当に嬉しくて、「どういたしまして。」と笑顔で返した。
久しぶりにあんなに綺麗な笑顔を見た。
そして久しぶりに温かい気持ちで笑顔になれた。
このままいいお姉さんに育ってほしいなぁ。と思うと同時に、
あの子の世代のために頑張ろう。と思いました。
たぶん世のお父さんお母さんは、子供の世代のために頑張ってるんじゃないかと思います。
そういうのをつないでいくのが、人間のすごいところじゃないかなぁ。
本当にうれしかった出来事でした。
■臓器移植
せっかくいい日なのに、こんなタイトルで書きたくなかったけど、今書かないと流してしまいそうなので書きます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090426-00000062-jij-soci
僕は臓器移植に反対です。
まず僕が「脳死後に僕の臓器を提供すること」を拒否している理由。
自分が死んでからも誰かを助けることができる、だからすばらしい!という人がいます。
でも僕はそうは思わない。
まず、移植した臓器が他人のものである以上、体はその臓器を異物として認識し排除しようとすると聞きました。
だから、移植を受けた方は免疫抑制剤を投与し続けると。
抑制剤のせいで、免疫力が落ちて病気にかかりやすい。
死んだはずの臓器が、他者の中で復活して、その他者を蝕みながら生き続ける。
その"他者"は長く生きられるのでしょうか?
だから僕は意思表示カードの「提供しません」に丸をつけています。
移植する意義を感じられないから。
それに加えて。
移植を受け死なずに生きることで、その人は生きている価値を見出せるのでしょうか?
お金をかけて、大変な思いをして、死の淵から戻ってきて、その人は誰かの役に立ちますか?
立つこともあるだろうけど、移植しただけの価値はあるんでしょうか?
さらに。
移植される臓器は、もうすぐ死ぬはずの臓器です。
そして移植された人は、もうすぐ死ぬはずの人間です。
そこから復活して、その人はこうは思わないのだろうか?
「私は私ではないものを体の中に埋め込みながら、生きながらえている。」
自分だったら、こう思いながら、「気持ち悪い。僕は人間と呼べる存在なのか。」と悩み苦しむと思います。
だから、臓器は渡さないし、もらわない。
これが「僕が臓器移植されることを望まない」理由。
そして。
安らかに死なせてほしい。
あの世や霊魂、神という存在があるのかはわからない。
でも、あるのなら静かに帰してほしい。
無に返るのかもしれない。
それなら静かにそっと無に返してほしい。
僕は材料じゃない。人間として生きていて、コンクリートや鉄筋と違って、色々考えている。
死ぬ運命にあるのならその死を受け入れる勇気を持ってほしいと思うし、その覚悟を心のどこかに持ちながら毎日をしっかりと生きてほしい。
僕だって無駄に過ごす日もあるけれど、でもいまここで色々なことを考えつつ、ちゃんと生きている。
自分、親しい人、そういう誰かが死ぬのは怖いし、遠ざかりたい気持ちはわかるけど、僕は僕として完結したまま人生を終わりたいです。
参照記事にあるような改正議論の前に、僕は移植に反対です。
少数派かもしれない。
でも僕の今の意見は、まだまとまってない感がありますが、こんな感じです。
この文章は全く医学的科学的な証拠がないまま書いています。
また各個人の意見信条を邪魔するものではありません。
それでは。