古今東西、

科学技術の発展の裏側には、

必ず戦争の影が存在した。
鉄が生産されたのは工業の為ではなく、

剣や鎧を作る為であり、
馬が飼育されたのは農業の為ではなく、

騎兵の生産の為だ。
近代で挙げるとしたら、

核技術開発の発端だって戦争だと言えるだろう。
科学技術の発展という明るい結果が生まれる背景には、

人類同士の戦争という暗い過程が存在し続けてきた。
─とまで言うと、流石に言い過ぎかもしれない。
しかし、戦争という危険だが明確な目的を持つと、

その度に科学技術は飛躍的に発展を遂げてきた。
これは残念ながら紛れも無い事実だ。
本来、科学技術の発展というものは

知的好奇心を原動力として発生する。
それは古代だろうと現代だろうと、

どのような時代であっても変わらない。
だが、その原動力がより効率的に結果に結びつくのは
過去の事例を見る限り゛戦争の勝利゛という

闘争本能に根ざした゛具体的な方法゛が存在する場合が多い

と言える。
 


別にだからと言って戦争が必要であるといっているわけではない。

 戦争というものは多くの死者を出し、

それは同種族を殺すという、

生物にとっては本能に逆らう最大のタブーを

犯し続ける愚行そのものだ。
 
だが、それが愚行であってもそこから学び取れること

だって少なからず存在する。

それは、『知的好奇心は具体的な目的を持つことで、より良い結果へとつながり易い』という事実だ。



今日、

戦時中に戦争に行かれた方々は

高齢期を迎え、日本が戦争を経験した、

という記憶が薄れてきている。
そんな中、戦争を経験していない

戦後日本の子供達は今、

平和記念式典などや公の場で戦争経験していない

のに、戦争を昨日経験したかのように語っている。

そんなことがあってよいのだろうか?
本来ならば、戦争による苦しみ・悲しみ・憎しみは、

戦争を経験した人しか知らないはずだ、

もちろん僕も知らない。
なのに、知らない物を否定し、知ったような口をきき。

そんなことをしているのを戦争で亡くなられた人達

が見ると悲しまれるんじゃないだろうか。
大人が平和学習の時、

我々には後世に戦争の恐ろしさ、

愚かさを伝えていかなくてはいけないといわれるが。

僕達平和ボケした我々戦後日本の子供

はなにも知らないしなにも語れない。

同じように、今も小さな戦争・紛争が続いている世界の人

に対して「今は戦争を経験したこと無い日本人」が「戦

争はいけない」などとわめいてもまったく説得力

がないんじゃないかと僕は思う。