「1粒で2度おいしい」というコピーがあったように、同時に複数の味わいがあるものに消費者は魅きつけられるようだ。そういう味わい方は邪道だという見方もあるかもしれない。でも、欲の深さに一気に応えてくれるものに手を伸ばしたくなるのも多くの人の正直な気持ちであろう。

 それでは、お出かけ先についてはどうか。寺院の庭園見学をするときなどは。庭のタイプとしてまず枯山水庭園がある。石と砂で水流を描き、苔むす岩を島に見立てたりする。水が実際にはないことがかえって観る者を哲学的思索に誘うかもしれない。もう1つのタイプに池泉式庭園がある。池、そこに出入りする水流、その周りの草木が実際にある。

 どちらのタイプにも味わいがあるから、いろいろな寺院を巡ればよい。ただ、珍しく1箇所でその両方を見られるお寺がある。実相院(京都市左京区)だ。洛北・岩倉というエリアにある。

 実相院の東側庭園が枯山水で、西側庭園が池泉式である。まず、枯山水の庭を見に行く。洛北の地にあって東向きの位置にあるのだから、この庭の背後には比叡山が借景となって現れる。石と砂による縦横自在の表現を堪能というより観察してみる。そのうち「本当に水があるとしたら……」と思い始めたところで、西側の池泉式庭園に移動。

 西に池泉式が設計されたのは西に山があるからだ。岩倉は東側に平野が広がり、西側が山地だ。自然の水は山から取るほかない。それで京都の寺院としては珍しく西に池泉式の作庭がなされた。実は水に恵まれる庭は、東山の山麓に集まっていて、必然的にそういう庭は東向きの位置にある。

 西の池泉式庭園では東側の枯山水のときほど視界は遠くには広がらない。池をはさんで向かいに離れ書院があるからだ。池の端に沿うように通された渡り廊下の先にあるのがそれだ。

 かつてはこの離れ書院も見学可能であった。離れ書院の軸の書が後水尾天皇の宸翰『忍』であったのを拝見したことがある。朝廷に対する徳川幕府の干渉にお怒りになり、御退位あそばされた江戸時代の天皇であらせられる。『忍』の宸翰は、幕府に圧迫される状況での御心情を表すものであろう。執念の深さが伝わってくるようなお筆運びである。

 当時の朝廷側の方々に幕府が求めたのは学問専一。学問と政治の両方に勤しむということは許されなかった。そういう歴史にも思いを馳せながら、実相院の枯山水・池泉式という両方の庭園を鑑賞してみるのもよい。長距離移動に差し支えがなくなり、気持ちと状況に余裕のある時期が来れば、お訪ねになってはいかがかと思う。