「力」か、「金」か、それとも「色」か。何の話かって? 女性から見たときの男性の魅力はどこかという話である。「力」は身体的能力、「金」は経済力を指す。「色」は女性側の魅力要素と思われがちだが、「色男」という言葉もあるではないか。容姿ないし女性の機嫌の取り方に長けた男に「色」があるとしておこう。

 いわゆる体育会系やマッチョ系が好きという女性も多いから、「力」は見逃せない魅力要素だろう。

 そして、「金」。世知辛い感じはするが、これもやはり無視できないだろう。札びら切って女性を口説こうとするのは品位の面でどうかと思うが、それに付いて行く女性がいることも事実だろう。お金持ちの男性にひっついて、装飾品・車・マンションなどをねだって贅沢三昧という女性。ギラギラして露骨だが、逆に正直で清々しい面もある。さほどの金持ちではないが、そこそこの収入・貯金のあるおとなしい男性をうまくつかまえて、一見堅実そうに暮らしながらすべて自分のペースに引き込むという女性。こちらのタイプの裏にある打算を思うとかえってげんなりする。

 「色」ね。根強い人気はあるだろうが、最近はあまり勢いを感じさせない。それだけ日本社会から浮かれ気分や熱気がなくなっているということかもしれない。語弊があるようで申し訳ないが、「色」で女性をたらし込むなどという浮ついたイメージが歓迎されないのであろう。

 最近とはいったが、伝統的に日本は色恋には淡白なのをよしとする国だという。谷崎潤一郎は、日本が「物質の豊かな大国」ではなく「貧しい島国」であるため、「刻苦精励して、武人は武を研ぎ、農夫は耕作にいそしみ、年中たゆみなくせっせと働いていなければ国が立って行かなかった」ので、日本人には色恋にうつつを抜かす余裕がないと説明する(谷崎「恋愛及び色情」『谷崎潤一郎随筆集』、岩波文庫、63頁;引用にあたり原文中の傍点削除)。ここでいわれる「武を研ぎ」はまさに「力」を奮うことに通じ、「年中たゆみなくせっせと働いて」は「金」を稼ぐことにつながるものではないか。「色」ではなく「力」や「金」が日本男子の評価基準であり続けたと谷崎は説く。例外は平安貴族であるが、彼らは安逸を貪るうちに政治の実権を武士に奪われ、ついにそれを回復することはなかった。

 なぜか僕は「色男」と気が合う。「色男」は女性受けばかりを狙っていて、同性から見れば鼻持ちならない奴だと思われがちだが、「色男」は同性にも気遣いのできる好人物が多いというのが僕の印象だ。