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特になし

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ハローグッバイ -藍坊主-



人は自由が欲しいと嘆くが

自分につきまとう自由がくだらないものと嘆いている人間もいる。

そしてさらに・・・

自由が怖くて嘆いている人間がいる。


自分をしっかりと確認できているとき、人は自由を求めてしまうのだと思う。

自由は時間ではなく、空間だろう。だから自分がいる空間が見えていないときに自由を欲するんだと思う。
逆に空間が見えると自由はいらない。自分が欲しいと思うのだと思う。

自分を見失う原理は、その空間(環境)と自分の志とか信念(自分)との相互作用だと考えられる。

身体と周りの環境を考えたとき、その矛盾から自分を見失う。

例えば、初めて高跳びをして、自分はこれぐらいいけそうだと目標を立てて挑む。思ったより跳べなかった時に、「なぜ自分はこのバーを跳べると思ったのか?」と自分に疑問を抱く。

疑問を抱かない人間は空間がしっかり見えている。自分がそのバーを設定した理由なんて周りの環境に左右されていないと確信しているのだから。

ここに疑問を抱く人間は、どういう経緯で自分がこの目標を設定したのかを知りたいのである。

なぜなら、自分の育った環境、今いる環境、全てにおいて自分がその空間からどのような影響を受けたのかが全く分かっていないから。

こういう人間はおそらく、自分より空間を優先して生きてきたのだと思う。

自分がこの大学に行くと決めて行ったなら、合格にしろ不合格にしろ、自分自身が自分の自己スキルを教えてくれるのだから。

そういう経験をしていない人間、つまり環境が自分をその大学に行かせた考えて生きてきた人間は、合格にしろ不合格にしろ、自己スキルが未知数のまま、また普通に暮らし始める。

しかしこの曲の素晴らしいところは、そんな意味の無いように見える空間が、無限に有限だと言っているところにある気がする。


環境がその人を育てるのは当たり前で、その環境も人間であるのだが、その一方で環境にすべて任せるというのは、環境のせいにする要素を0%にしているとも言える。

そこに落ちている手袋が必然か偶然か?

ドーナツのあなぼこは空白か存在か?

その永遠ループの問いかけが

その人物自身なのだから。

自分も環境の一部というわけだ。





 人間は、何かを信じることからはじまる。その信じたものに裏切られることがあると疑

うということを知る。特に、大切な人からの裏切りであったり、自分の心の中で神秘的に

扱っていたものが裏切られることで疑う心を持ってしまう気がする。それらがきっかけで

人間は疑うようになる。そして、人間は、裏切られることで傷つきたくないという思いか

ら疑いの目をもっていろんなものを見る。しかし、疑うことに対して嫌気を感じる人間は、

信じることが正義であると考える人間は、何かを信じようとする。それは、例えば、自分

に対する人の思いが挙げられる。それを信じたところで、結局は裏切れられ、傷つき信じ

られなくなる。そんなことをして人間は生きている。
 
 果たして人間は、何事も信じて生きていことと、何事も疑いながら生きていくことどち

らが良いことなのか。一つ言えることは、自分がどちらのスタンスで生きていくかを自分

で選択し、その選択した生き方を信じていくことこれが大切ではないかと考える。だから、

中途半端に信じて中途半端に疑い始めたり、逆に中途半端に疑って、中途半端に信じる始

めることこれはしてはならないことだと考える。これがもっとも善悪の判断ができなくな

る要因であるような気がする。
 
 どちらのスタンスで生きていくにしろ人間は、信じられるもの=心のよりどころとなる

ものを求めているのではないかと考える。自分が幼い頃あらゆるものを信じられたよう

に信じられるものを見つけるために人間は、あらゆる形で悪戦苦闘してるのではないか

と考える。
  
 自分自身が疑うことを覚えたきっかけとなる物事、人間関係それらを信じられるように

なることが心のよりどころを見いだせることにつながるのではないだろうか。
楓-スピッツー


出会いと別れは「自分」と「相手」との問題であろうか?

「自分」が「相手」にとってそこまで大事ではない人間だとしたら

別れは悲しいものではなく、出会いは意味のないものだった。

と果たしてこんな簡単に話は進んでいく問題だろうか?

僕は「自分」が「相手」をどれだけ思っているかが重要だと感じる。

信用していた「相手」に、裏切られて恨んだ「相手」のこと。

しかし本質は

信用していたのも、裏切られたのも「自分」ではないだろうか

この歌はそんな汚くて脆い自分を試しているように聞こえる。

言葉では「相手の幸せを望んで、別れという選択肢を選んだ」と言っているように聞こえるが

その裏で「自分の幸せを望んで、別れという選択肢を選んだ自分が幸せになれるんだろうか」と歌っているようにも聞こえる。

このような、恋愛における自己詮索的な歌は結構多く存在するが、ここまで出来レースで、イントロから勝敗が見えている曲もめずらしい。

答えは数秒ももたず玉砕した、とでも言えよう。


人間は後悔を恐れる生き物であるがために、後悔を望んでしまう生き物である。

すぐに結論を出してしまった自分を憂いながら、どこかでそんな自分の後悔を、何年後かにまた同じ形で憂う自分を想像して、ニヤけてしまう自分が、結論を急がせたかもしれないと

そして急がせたのは「相手」で、憂うのは「自分」だと

それを気づかされた時、急がせた結論が有意味であったと言えるのだ。

つまり別れという言葉は結論ではない。

結論はそれが有意味であったと気付く時にしかでないものだから。


 ~しかできないと人間思うとそれ以外のことをできるようになりたいと考えるのではな

いだろうか。

 例えば、恋愛においてこの歌詞にあるように手を握り返すこと、見つめ返すことができ

ない状態であるとする。その場合男であれば、自分がしっかりお金を稼いで物理的に満足

させてあげようと考えたり、彼女のことをもっと知り精神的にも満足させてやりと考える

であろう。~しかできない状態を少しでも打開しようと自分を向上させようとするのは何

も恋愛だけなく仕事、向上できるものすべてに通ずると考える。向上することを願い直向

きに自分の成長に直進すると思わぬ落とし穴に落ちるのである。それは最初に自分の持ち

味であったものをそのままにしてあらゆるものを手に入れることである。当然、何かを手

入れれば何かを犠牲にすること世の常である。しかし、自分の持ち味を犠牲にすること悲

しいことである。何よりそれらを犠牲にしている自分に気づいていないというのが特に悲

しいことである。
 
 私は、たとえどんなに自分が成長し昔の自分を忘れてもよい、今の自分のほうが昔の自

分より優れていると思ったとしても、決して昔の~しかできない自分を忘れてはいけない

と考える。これは一言でいうと、初心忘るべからずであると言えるかもしれない。しかし、

少し違うようにも思える。初心忘るべからずというのは、自分の経験や知識の未熟さを痛

感しそんな情けない自分を成長させていこうとしていくものである。つまり、~しかでき

ない自分を変えていき理想の自分に形を変えていくのである。おそらく、こうなれば昔自

分の持ち味であったものが今の自分では薄れているのである。例えば、仕事で例を挙げる

と新入社員で入ったときは何も知らず、ただ大きな声でお客さんに対して挨拶することし

かできなかったとする。情けない自分を変えるため必死に業務の勉強し、マナーを身に着

けていくだろう。そうなれば、立派な社会人となり周りの人からは認められていくであろ

う。この頑張りを存続できるのは新入社員時代の恥ずかしさがあったからであろう。この

姿勢というのはとても素晴らしいことなのであるが、こうなると新入社員の頃に持ち味で

あった大きな声を出すのではなく、周りから恥ずかしくない声の大きさでかつお客様が気

持ちよく感じてもらえる声の大きさを出すようになるのである。こうなると昔の自分の恥

ずかしさだけを残し、昔の自分を掻き消しているように私には思える。
 
 この状態になることが果たしてよいのかということである。私は、いくら社会人として

周りから認められる人材になったとしても~しかできなかった頃の自分、それだけしかで

きなかった自分を犠牲にする必要があるのだろうか疑問である。私自身、立派な社会人に

なったとしても声の大きさに自信があるのであれば、入社当時のその声の大きさを堅持し、

自分自身を成長させることが大切なのではないかと考える。
 
これを恋人関係の例でいうと、~しかできない頃の自分、この詩でいうと小さな手を握

りしめること、見つめ返すことしかできない自分を心の中で維持するのである。それがた

とえ金持ちになっても、お互いの関係性が当たり前になったとしてもそれをすることがお

互いにとって一番大切なこと、それがお互いの中で最高のプレゼントであると感じあえる

関係性がすばらしいのではないだろうか。この気持ちを持ち続けることが人間大切なこと

なのではないだろうか。

 さまざまなものを人間身に着けると最初の頃に大切にしていたものが見えなくなり雑に

扱うという人もいるかもしれない。しかし、さまざまなものを身に着けて人間として成長

したからこそ最初に大切にしていたものの真の価値に気づけるのではないだろうか。



Komm, süsser Tod



贖罪は成立することである。という一つの考え方を提示している歌に聴こえた。

例えば人を殺す。死刑になる。

しかしその人間はそこで終ではない。死をもってして終わらせることはできないのが死刑である。

なぜなら、命を天秤にかけて等しい重さならそれでぬぐえる問題ではないからである。

ある時は被害者の親族が、怒りに狂いどうしようもない精神に苛まれる。

ある時は加害者の親族が・・・

傍観者が・・・


しかしそのめぐりめぐる苦しみ、妬みに終止符を打つことはできないのか?

愛の終わりが私の終わりである。

それが意味するのは、自分以外の全員が愛する人を失ったとしたら

みんな私に逆に同情するでしょ?と挑戦しているのだ。

例えば水槽に金魚が10匹いる。

9匹が子を産んで死に、1匹がただ死んだとする。

9匹はその1匹をかわいそうだと思う

1匹はその9匹に妬む。

しかしこれは生きている前提の話だ。

1匹が子を産まずとも、9匹の子を苦しめてから死んだら話はどうだ?

つまりこれがエンドレスの苦しみなわけで、これが永遠に繰り返されたとしたら・・・

どっかで終止符を打つためには、この1匹の金魚が全ての思いを胸に死んでいくことに他ない。

これをこの詩中では「私は壊れていく」と表現している。

それがつまり、皆の苦しみが崩れる瞬間であると。


 その人への変わらない思いとその人との関係において生まれた共有できる変わらない思

いというものが人間の関係性を存続させるのに必要であろう。前者は、その人を思う気持

ちである。例えば、相手の容姿であったり能力であったりとつまり自分がその人を好きで

い続けられるものである。後者は、その人と関係を続けるにあたって核となるものである。

例えば、その人と成し遂げるための夢、目標であったり、同士にしか理解してもらえない

ようなものがそれにあたる。

 前者に関しては、その人への思いというものを変化させないためにはその人を思う観点

を変化させることが求められると私は考える。なぜなら、自分いくらその人のある部分が

好きであったとしてもその人のその部分は変化するからである。だから、自分がその人を

思うためにはその人の新たな面を発見し、その部分を好きになりその人への思いを不変な

ものにすることが必要であろう。そのためには、お互いがお互いをよく知ろうとすること

も必要だが、自分自身が変わり続けることも必要だと考える。お互いが年を重ねながら様々

なことを学び、成長して生きていることを実感し、その部分を思いやり尊敬していくこと

で変わらない思いというものを存続できるのではないかと考える。
 
 後者に関しては、変化させることは決して許されないものであると私は考える。これは、

お互いの関係を形成している核となるものであるからである。この核となる部分が崩れて

しまうとお互いの関係性の修復不可能なのではないかと考える。なぜなら、そのお互いだ

からこそ共有できるものだからである。これを一方の人間が壊してしまうともう一方の人

間は裏切り者だと考え、憎しみを抱くかもしれない。具体例を挙げてみる。例えば、二人

の青年がいる。その二人は小さいころに親に捨てられて施設に預けられた。その二人は、

その施設で知り合い大人というものに復讐をしてやろうと強く願って生きてきたとする。

その二人は、お互いのことはよく分からず、その内に秘めた大人への復讐という思いでつ

ながっているのである。これをどちらかの人間が実行することを拒むともう片方の人間は

激怒するかもしれない。その人ともう二度と口を利かなくなるかもしれない。それぐらい

の強い思いであるから変化させることは許されないと考える。
 
 この二つの変わらない思いを見てみると、前者は恋人との関係性において、後者に関し

ては親友との関係性を保つために必要なのかもしれない。


 


 友情というものは、作るのではなく自然と作られているものだと考える。どういうこと

かというと、人と友達になろう、ある人と仲良くしようと考えて努めて仲良くなったとし

てもそこには友情というものは生まれていないということである。友情というものは何か

に必死に取り組み切磋琢磨できる相手であったり、自分自身が尊敬できる人間との関係に

おいて生まれるものだと考える。友情が生まれるために必要な要素というのは、自分自身

を成長させてくれるまた、自分自身がその人が自分のそばでいてくれることに単純に感謝

できることである。特に後者が非常に大切だと考える。決して価値観の共有ができなくと

も、多くの時間を共有することは必要ないと考える。
 
 この二つがなぜ友情という関係を生み出すために必要かというと、これらがないと無垢

な友情関係を作ることが難しいと考えるからである。一般的に友達関係を存続させるため

にギブアンドテイクというものが行われている。これは、何かをしてもらったらお返しに

何かをその人に対して提供するものである。常に対等な関係を続けるのに必要である。し

かし、この関係を長く続けているとどうしてもお互いに不満が出てくると考えられる。例

えば、AさんはBさんに対して5000円相当のお土産をあげたとする。そのお返しにBさ

んは5000円の価値にはならないお土産をあげたとする。Bさんは金額というよりも気持ち

を大切にするタイプだったとする。この場合、Aさんは不満を抱くかもしれない。このよう

に一般的なギブアンドテイクというものは非常にもろく最悪の場合、関係が崩れるかもし

れないのである。こういった他人の見返りを求める関係にはたして友情が芽生えていると

言えるのだろうか。
 
 だから、私はテイクのないギブのみを提供できる関係というものが本当の友情ではない

かと考える。そのためには自分自身を成長させてくれるまた、自分自身がその人が自分の

そばにいてくれることに単純に感謝できることが必要だと考える。この感覚があれば、常

に自分に対してこの人は利益を与えてくれているという意識がどこかにある。そうなれば、

お返しをどこかでしなくてはならないと考える。それを自発的にし続けられる関係こそが

友情ではないだろうか。それをお互いがし合える関係になれば言うことなしである。この

関係は、常に相手に借りがあると感じながら関係を続けていくのでなかなか相手に対して

不満を抱きづらいであろうし、相手に対して迷惑をかけないように必死に自分を成長させ

ることに努めるであろう。

 私は決して相手と一緒にいる時間が長いからこの人とは友人だとか、相手の何もかもを

知っているから友人であるということはありえないと考える。たとえその人との関係が薄

くても、相手のことを何も知らなくても自分自身にとってどういう存在なのかをしっかり

と考える必要がある。私自身であれば先ほど述べた条件に当てはまれば友人である。私の

場合、現状において付き合っている人たちが友達ですかと第三者に聞かれると友達である

と言うであろうが本当の意味での友人であると言い切ることは難しいであろう。なぜなら、

私と関係を持ってくれている人たちに借りを作ってばかりで何一つ借りを返してないと考

えるからである。借金地獄のような状態である。これからの人生において、いつまで生き

られるか分からないが、この借りを返していって自分の心の中でマイフレンドであると実

感したいと考えています。

 人によって友達の定義は違うので決めつけはできないのですが、この曲でふとこんなこ

とを思いました。


U2-With Or Without You-





与えられることと与えること。どちらが簡単なのかを考えると

答えは永遠に与えられないということを与える迷宮に突入する。

そもそもの話で与える人間は何かを与えられているからだ。

もしも地球が終わるとして、それでも前向きに生きようとするか、やはり後ろ向きに生きるかは

この与えられるのと与えることとの関係に似ているような気がする。

なぜなら、人間の使命は死ぬことかもしれないから。


この曲の人物像は、もともと何も持っていない人間で、そんな人間の体をさらに縛り付け、身動き取れない状態の所を殴られて、あげく気絶させられた人間

でもそれでもまだ何かを欲しがっているという歌詞に聴こえた。

この気持ちはすごく共感ができる。

もうここまでだ。もうどうすることもできないという状況の果てで、それでも何かを信じて欲しがってしまう感覚。

富も名誉もあり、その上美も欲しいみたいな話ではなく、失うからそれを取り返そうとする感覚。

それは必要としているモノでもない。

与えられることにこしたことはないが求めることにこしたことはないが・・・

その永遠のループの先に見える本当に欲しがっているモノ。それを探したくなる気持ち。


結局、冒頭に記した与えられることと与えることのどちらが簡単か?

その問いかけに答えはないが、たまには与えることもあるが、それは与えられることを望んでいる。

与えられることもあるが、それは与えることを望んでいる。

その繰り返しこそ生きるということだと思う。



例え一度たりとも与えられることがなかったとしても、それでも人は与えるために生きているのかもしれない。

その逆も言える。
Mr.Children-名もなき詩-



大衆はこう表現する「史上最高のラブソング」だと。

その一方で、これまた大衆が「史上最高の鬱屈ソング」だと。

また、その解釈に対して「どちらのメッセージも込められている」という大衆も。


どの受け取り方も全て正しいと言え、全て正しくないとも言えるのがこの曲だと思う。

なぜなら解釈ということ自体が無意味な曲、

名もなき詩「NO TITLE」だからだ。


人は身近にあるものほど、それが大切であるという理屈が頭では分かっているつもりでも、ふとした瞬間に「果たしてそれを大切だと思う心を忘れてやいないだろうか?」という疑いの心に襲われる。

そしてその身近にあるものの一番身近なものこそ自分である。

自分がどう生きているか?どう生きるべきか?という、一番大切で当たり前な問いかけに、なぜか答えられない。

自分のことなのに自分で分からないイライラを、他人にぶつけることで、自分を確立している時がある。

そして重要なのは、そんな嘘の自分で築き上げた自分を誰もがもっているもの。という感覚がこの曲の前提であるということ。


その中でどういう人生を歩むかは人それぞれ自由ではあるが、しかし真実の自己にこだわり、嘘の作り上げた自分の檻から抜け出そうとする人間を、この曲では許していない。

妙なプライドを捨てろとはそういうことだと思う。本当の自分で生きようとすること自体、本当の自分ではないと。

そしてその檻の中で、人は絶望だの失望だのと嘆くが、それは妙なプライドがある証拠。

足元に転がる、自由、希望を見ろと。

「愛」という清い言葉に対するニュアンスや人々が抱いている感覚は、奪おうだの、与えようだの、そんな安っぽいプライドの上に存在するものではなく、成り行くままに生きた延長線上の檻の中で、ふとそこに落ちているもの。

まさにそれを見ろと。歌っている気がする。

そこで傷つくこともたくさんあるだろう。しかし、自分が人を傷つけた時のことを考えてみろと。

人を傷つけた分だけ自分に返ってくることを人は知っている。

檻から出ようと檻を殴れば、自分の拳に痛みが返ってくることを人は知っている。

だから、人を傷つけて立ち止まってしまうようなことは無意味。自分に返ってくるだけだと割り切ろうと。


そんなメッセージを、例えでもないし、ストレートでもない絶妙の表現で表しているのがこの曲である。

例えば、愛する人にフラれたとしよう。フラれて自分は傷ついていないというプライドさえなければ、

いつまでもこの曲を歌い続ける限り、自分の痛みは人の痛みと永遠に共有され続ける。

恋愛以外でもそうだ。



解釈がいらないと言ったのは、この曲は胸にしまい続けることに意味があると思うから。





 人間生まれてくる時は、最初に感情を表に出すことを覚える。しかし、人生を長く生き

ていくことで精神的に図太くなり、小さいことに悲観したり涙することをしなくなる。つ

まり、感情を表に出すことが少なくなるのである。なぜなら、一つ一つのことに感情を出

すことよりも理性において自分を抑えなくてはならないと頭で考えるようになったり、年

を重ねることで繊細さが失われていくからである。それが続けば、おそらく、人生という

ものにあきらめや嫌気を感じるようになるのであろう。なぜなら、人生は自分ではどうす

ることもできないと考えるからである。だから、自分の人生に対して希望、夢、奇跡を抱

いたとしても、すぐに打ち消してしまうようになる。
 
 そういう人間であったとしても心の奥深くではどうにもならないもどかしさというもの

を意識的にしろ無意識的にしろ溜めているものである。その思い、感情をさらけ出したい、

ありのままの自分を表現したくなるときが訪れるだろう。そういう時に恋をしたくなるの

かもしれない…

 ちなみに私が中学一年の時初めてこの歌を聴いたのだがその時はこのように言葉では表

現できなかったが、少なからず人生というものが暗くて生き続けることはつらいものだと

いうことを感じ取って、私自身が暗くなるきっかけになった曲のひとつである。