中国へのODAと周恩来(2024.2.29) | 京翁の独り言

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 日本の対中ODAは1979年に始まった。中国が戦後賠償を放棄した見返り、との性質もあったとされる。ODAのうち、無償でお金を提供する「無償資金協力」は約1600億円、お金を貸す「円借款」は約3兆3千億円、「技術支援」の約1900億円で、計3兆6千億円余りを支援してきた。
   無償資金協力は2006年、円借款は2007年の時点でそれぞれ新規供与を終えた。そして、技術支援で継続していた事業も、22年3月末で42年の歴史が完全に終了した。
   援助の内容は、1980年代初期は港湾や発電施設などインフラ支援が主で、1990年代からは地下鉄建設や内陸部の貧困解消、環境対策など、時代が進むにつれて変わっていった。特に1980年代には円借款による鉄道、空港、港湾、発電所、病院などの多くの大規模インフラが日本の支援で整備され、改革開放政策を支え、近代化に貢献。中国が経済成長し、世界第2の経済大国となる道筋をつけた。
   1984年、北京に建設された中日友好病院がその一つだ。1981年から1983年度まで無償資金協力として約165億円が投じられ、最新の医療器材が導入され、その後も医師、看護師、臨床技師らへ医療技術を移転し、医療サービスも日本式となる近代的総合病院を建設した。2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)発生時には、重症患者受け入れ指定病院となり、2008年の北京五輪では政府公認の指定病院となるなど中国を代表する総合病院となった。
  1990年代には、新たな開発課題として北京国際空港を整備した。1993、1995、1996年に300億円の円借款を投じて国際線、国内線用の旅客ターミナルビル、貨物ターミナルビルを新設し、旅客処理能力が300万人から3600万人となり、世界有数の国際空港に生まれ変わった。
  また、感染症対策として世界保健機関(WHO)が定めた「西太平洋地域(日本や中国、フィリピンを含むアジア太平洋の37の国と地域)」におけるポリオ(急性灰白髄炎・小児麻痺)の撲滅にも日本のODAは寄与している。この西太平洋地域におけるポリオの患者総数の実に85%を中国が占めた時期があったが、90年から日本が技術協力を行ない、93年から無償資金協力など7億円が供与されたことで、中国はもちろん、西太平洋地域全域でポリオは撲滅された。
  2000年代には、日本の技術による内陸部の社会開発支援として「重慶のモノレール建設」がある。1993年に技術協力として、山が多く起伏の激しい重慶市の公共交通機関としてモノレールを提案。2001年に271億1千万円の円借款を供与して日立製作所が市中心部約13.5キロにモノレールを完成させ、交通渋滞と大気汚染が著しく改善された。
  21世紀の技術協力に、国境を越えて飛来する微小粒子物質PM2.5の大気汚染問題がある。2012年から2016年に汚染排出源の中国の鉄鋼業3社に対して、日本企業が日本の計測器を使用した、大気中の窒素酸化物を総量規制する改善法を指導、実現した。
  また、1986年から2015年度末までに中国全32州に医療・保健、農業などで約830人のボランティアを派遣、草の根レベルで技術協力事業などを進め、相互理解も進んだ。
  しかしながら、支援で建設された施設のほとんどで、日本側が働き掛けるまで、中国政府は日本の支援について国民に周知していない。北京国際空港など一部では、日本の援助を示す銘板が掲示されているが、大部分で日本の表示がなく、また、「ODAでつくられたことであることを示すプレートが外されたた」など、日本の貢献を知る中国の一般国民は少ない。戦後賠償の代替と捉えた中国政府が「日本の支援は当然」と周知しなかったことが原因とされる。
  日本では、日本から援助を受けながら、その一方で他の途上国に戦略的な支援を行った中国に、「日本の支援が中国の市民に知られていない」との不満が高まった。日本のODAが改革開放政策を支え、中国の近代化に貢献したことを日中両国の国民が正しく理解しなければ、真の日中友好は生まれないとの懸念からだ。事実上の戦後賠償である日本のODAが、中国の経済発展に貢献した事実を中国の国民が正しく理解しない限り、日中友好親善は実現できない。
 

日本对中国ODA开始于1979年。据说这也是对中国放弃战后赔偿的补偿。ODA之中,无偿提供资金的“赠款援助”约为1600亿日元,贷款的“日元贷款”约为3.3万亿日元,“技术援助”约为1900亿日元。我们提供了超过一共计3.6万亿日元的支持。
  新的赠款援助和日元贷款分别于2006年和2007年完成。截至2022年3月,该项目作为技术援助持续进行了42年,彻底结束。 
  20世纪80年代初期,援助内容主要是港口、发电设施等基础设施支持,90年代以后,随着时间的推移,援助内容发生变化,包括地铁建设、内陆地区扶贫、环保措施等。 特别是20世纪80年代,利用日本官方发展援助“日元贷款”建设了铁路、机场、港口、发电厂、医院等许多大型基础设施,支持了改革开放政策,为中国的现代化建设做出了贡献。日本提供对中国的经济增长为其成为世界第二大经济大国的条理。
  1984年在北京建成的中日友好医院就是一个例子。 1981年至1983年投入约165亿日元无偿援助,引进最新医疗设备。此后,医疗技术被转移到医生、护士、临床技术人员等,建成具有日式医疗服务的现代化综合医院。 2003年非典爆发期间,医院成为收治重症患者的定点医院,2008年北京奥运会期间,成为政府批准的定点医院,成为中国领先的综合医院之一。 
  20世纪90年代,北京国际机场成为新的发展课题。 1993年、1995年和1996年,投资300亿日元贷款,修建新的国际和国内航班客运大楼和货运大楼,将旅客吞吐量从300万人次增加到3600万人次,成为世界领先的机场之一的国际机场了。 
  此外,将根据世界卫生组织(WHO)的决定,在西太平洋地区(日本、中国、菲律宾等亚太地区37个国家和地区)消灭脊髓灰质炎(急性脊髓灰质炎和小儿麻痹症)作为预防传染病的措施,日本的官方发展援助(ODA)也为此做出了贡献。 曾几何时,中国占西太平洋地区小儿麻痹症患者总数的85%,但日本从1990年开始提供技术合作,自1993年起已提供7亿日元无偿援助,小儿麻痹症已被根除。不仅在中国,而且在整个西太平洋地区。 
  2000年代,重庆单轨铁路建设是利用日本技术支持内陆地区社会发展的典范。 1993年,作为技术合作的一部分,我们提出了单轨铁路作为重庆这座山区崎岖城市的公共交通系统。 2001年,日立製作所利用271.1亿日元贷款建成了一条通往市中心约13.5公里的单轨铁路线,显著改善了交通拥堵和空气污染。 
  21世纪的技术合作涉及跨越国界的细颗粒物PM2.5造成的空气污染问题。 2012年至2016年,一家日本公司利用日本测量仪器,为中国3家污染源钢铁企业提供了如何改善大气中氮氧化物总量的指导。 
  此外,从1986年到2015年底,共向全国32个省份派遣了约830名志愿者,在医药、卫生、农业等领域,推进基层技术合作项目,增进相互了解。 
  但在大部分援建设施中,中国政府直到日方主动联系后才向公众通报日本的援助情况。 有些地方,比如北京国际机场,有显示日本援助的牌匾,但大多数地方都没有日本的标签,而且“表明是用ODA制作的牌子都被拿掉了”,很少有普通的日本的贡献中国民众是知道的。这被认为是因为中国政府将其视为战后赔偿的替代品,并没有明确表示日本的支持是必然的。 
  日本国内对中国在接受日本援助的同时向其他发展中国家提供战略支持的不满情绪日益高涨,称“日本的援助不为中国公民所知”。 这是因为,只有日中两国人民正确认识日本的官方发展援助支持了改革开放政策、为中国现代化建设做出了贡献,日中两国人民才能真正实现日中友好。 除非中国人民正确认识日本的官方发展援助(实际上是战后赔款)对中国经济发展的贡献,否则日中友好就不可能实现。
1.周恩来和京都
1917年:周恩来先生来日本留学过两年。他19岁住在东京学了日语。他从小就很聪明。可是生活很贫穷。所以南开初中的同学们出钱来济他。他没考上东京师范学校。松本龟次郎是他的日语老师。
1918年:他来到京都。他在京都大学旁听了河上肇的课学了马克思,列宁。
1919年:他来岚山的时候写了两首诗「雨中岚山」(1919年4月5号)和「雨后岚山」。当时的中国困难而烦恼的时候(日本侵略了中国)。「雨中岚山」诗中「光明」表现「共 产主义」,也表现他下定决心要把中国人民解放。他为了参加五四运动回国。
2.周恩来对日本的贡献
1954年:周恩来总理送时任中国红十字会会长的李德全女士访日,并且公开了侵略中国战犯的名单。然后把三万两千日本人送回祖国。其中包括近千战犯。当时遵从周恩来总理的指示,没有任何一名战犯被处以死刑或无期徒刑。
1972年:周恩来总理与日本的田中角荣首相会谈,恢复中日郊交正常化。
1978年:邓小平开始「改革开放」为了恢复文化大革命的经济。
「政府开发援助ODA」
1979年:日本的大平正芳首相开始对中国开展政府间开发援助。他说「富裕的中国会创造出富裕的世界和平」。这是第一次周边国家对中国提供政府援助的。政府开发援助是「提供贷款」「无偿资金援助」和「技术合作」。技术合作了环境保持,教育,农业等方面。当时的「政府援助」是提供贷款,建立铁道,发电站等大型基础设施。从1979年到2022年42年间,日本政府给中国政府「政府开发援助」3兆6500亿日元为了中国开发和中国近代化建设。从这些事例可以看出,日中两国本应互相援助,成为好伙伴。希望中日两国永远友好下去。
*听说第二次世界大战以后,苏联国对日本的北海道有过领土要求,但周恩来总理不认可这件事。日本跟中国在二战以后35年间曾经没有邦交。1972年在周恩来与日本田中角荣首相的努力下,中日两国恢复邦交。周恩来总理很宽容,不要求日本赔偿。今天日本人都敬佩他。我们觉得他是很伟大的领导者。