二項対立とは、生と滅、幸と不幸という対立の状態をいい、生が無ければ滅も無く幸不幸も問題意識が無ければ二項対立にはならない。さて、全ての議論は言葉を通して行われる。この言葉は本質的に[分ける]性質がある。例えば犬といえば犬と犬でないものをその時点で分けていることになる。ウィトゲンシュタインによると論理形式には[語りえるもの] [示されるもの] [語りえないもの]があるという。ここでいう語りえるものとは自然科学全般。語りえないものとは、哲学などの答えがでないもの。示されるものとは、言葉では到達できない各人が最後に到達する地平である。そうして彼は言う[はしごを登りきった後には、登りきった者は、はしごを投げ捨てなければならない。]と。思考過程を止揚して到達した地平では結論だけあればいいということか。これは示されるものであり言葉は無用の長物のなる。禅の悟りにも似た境地かも知れない。また彼には古い東洋思想の不二一元論と同じものが見て取れる。独我論と実在論の一致は東洋の梵我一如と同じ様に思う。宇宙と自我が同じというこの理論が真であるならば無限大は無限小と結び付くのだろうか。何か神秘的な感じになる。


[嘔吐]はサルトルが七年をかけて執筆した哲学文学である。主人公ロカンタンの体験を通して人間が存在することについて語っている。ロカンタンが物に触れたときの不快感は何なのか、徐々に気付きだす。それはこの下り[私は、肩の荷が下りたとも、満足しているとも言う事は出来ない。反対に、私は圧倒されている。ただ私の目的は達せられた。知りたいと思ったことを知ったのである。一月以来私に起こったことを、すべて理解した。吐き気は私から離れなかったし、それがすぐに離れるだろうとも思わない。しかし私はもう、吐き気に襲われまい。吐き気とは、もはや病気でも、一時的なせき込みでもなく、この私自身なのだ。]で、なにを知ったのか、長いからかいつまんで書くと、[存在は皆余計なもので、存在はただそこにある偶然で、無根拠、無益、無意味である。]とまあ何ともつれない話だが、一つ確かなことがある。この下り[この意識の実存の意義とは、この意識が、自分が余計者であることを意識している点である]これを悟るとロカンタンはそれでも何か自分に試みる事はないかと思案するところでこの物語は終わっている。この最後のところが、次に出る哲学書[存在と無]へと繋がっていく。他者の存在についても鋭く考察している。ただ、例えば子供と一緒に川で石切り遊びをする場面で、手に持った小石に初めての違和感を感じるというところ等は、エポケー[思考停止]の概念を知った者じゃないと理解できないだろう。大体それを知っていても、私を含めて物を物自体として捉えなおすことができるものなのか。それはさておき、[嘔吐]における人間存在は、哲学の原初的な問いに対する答えとして今でも輝きを失っていないように思う。