タイトルは少し哲学めいた物を付けたが、内容としては複雑というわけではない。結論から述べると[言いたいことを言う]これは、正しいことだが、本質的に処理されるかは全くの別問題。
ということ、
この出来事は、人から『出来れば良い』とも言われ…できないまま時を探していれば『大丈夫?』と何気ない一言をかけてくれるかもしれない。そんな言葉を掛けるのは簡単だろう、ここが難しい所なのだが…社会的な環境において、それは普遍的に行われる。『あの人が……』と涙ながらに訴えている人がいればドン引きする人、または心配をする人。さぁ何が起こっているか。言った本人としてはかの時点で暴行もしていないし、社会的な意味合いで言えば…[発言の自由]が勿論あるわけなのだから、この発言は本来丁寧に扱われるべきであろう。こういった状況を、皆さんも思い出していただきたい…人として、『なぜ?』と思うことが都合の悪いこととして処理される感覚…さぞかし、その子は周りの目を気にして更に本音を言うことを閉ざしてしまうだろう。これは言わば、[一人の人間の犠牲により、周りが生涯得をする仕組み]を作り上げられていることを意味する。少しわかりやすく、矢印で説明してみよう。
❶本音を真面目に伝えた⇨届かなかった⇨自分はダメだと自己肯定感、それに論理能力の上昇機会がなくなる。
それにより、同時並行で
キャラを演じる⇨本音ではなく、その場で存在が認められるような物言いをしたりする。⇨笑いや、そういった気遣いをそもそもする必要はあるのか?という❶の人格が現れる。よって、[言いたいこと]の信号が点いたとき、『言えないのはおかしい!』と至極真っ当な物言いをするようになったのだ。つまり、なぜか?というものを意図的に封印された人が、その力を…取り戻したいと思うなら、ベストは学校を辞めることになりそうだが…それは難しいだろう。なにせ、毒親家庭で転校など言い出した時にはまずいことになりかねない。私が今こうしてブログを書いているのは、社会的に…というより、味方の人をただ見つけたいという一心なのだ。学校や職場などにおいて、いるけど繋がれない。というのはもどかしいものだろう、逆にこう考えてみてはどうか…『それは恥ずかしい』とかって敬遠していたものこそが、あなたの本質なのかもしれないと。私は今すぐにでも可能なのであれば、本屋に立ち寄り興味がある本を探してみることをおすすめする。それと、たとえば本を適当に目を瞑ってでもいいので手に取って何分か決めて読んでみる。そこで疑問に思った物を大事にする、これが私としては…もしかするとしてる時は楽しいだろうし(勝手にそうなれば良い)だけであろう。最初こそどうでもいいと感じていたとしても、だからといってその疑問がなくなるわけではない。出力はそうでも、入ってから情報の中で純粋にそう思えることを大切にしてみたい。