トルコと聞いて何を想像するでしょうか。

 魅惑という言葉でしょうか、それとも、ジュータンでしょうか

・・・

 私は少し変わっていて「英会話」を思い出します。

 私が学生だった昭和30年代後半は、東京オリンピック

(39年・1964)を真近に控え、国際社会とのつながりが深

くなり始めていた頃でした。

 こうした社会情勢に影響されてか、私はE・S・S(English

Speaking Society)という英会話クラブで青春していました

。クラブといっても、きちんとした教材があるわけでもなく、

指導してくれる先生もいませんでした。

 練習といえば、寄せ集めの教材で仲間同士での会話が

中心でした。

 こんなやりかたで本当にいいのか、不安と試行錯誤の毎

日でした。

 そこで私たちはそんなハンデイーをカバーしようと、町中

に出かけては外国人に話しかけ、生(なま)の英語に接し

日ごろの成果を確認していました。

 いつものように外国人ハントに行き、一人のアメリカ人と

知り合いになり、これが縁で何年か文通が続きました。そ

の人はパン・アメリカン航空(アメリカの航空会社で今はな

い)のトルコ イスタンブール支店に勤めていました。

 何度目かの文通で、「遊びに来ないか」と誘われました

が、学生の身で海外旅行など許される筈もありません。

 当時の為替レートは固定相場制で、1usドル360円、そ

れに外貨割当制だったため外国旅行など「夢のまた夢」で

した。それに、当時の海外旅行のキャッチフーズには、必

ずといっていいほど「夢の・・・」とか「憧れの・・・」といった

接頭語がついていました。

 私はオリンピックの年に社会人になりましたが、初任給

は1万7千円でした。これでは到底海外旅行など叶う筈も

ありません。

 今は海外旅行も身近になり、今回のトルコ旅行は、何か

英会話とあのアメリカ人がとりもってくれたような気がして

なりません。

 海外旅行の度に「大きな皮のカバンをさげたアメリカ人

の姿」が鮮やかに蘇えってきます。

 では前置きはこのくらいにして私のトルコの旅にご案内

しましょう。

 

  東西文化が出会う国「トルコ」

 エーゲ海とマルマラ海を結ぶチャナッカレ海峡を挟んで、

ヨーロッパとアジアの二つの大陸にまたがった国「トルコ

」は、こうした条件もあってか、すでに紀元前2000年頃

には鉄のヒッタイト文化が生まれていた。

 それ以降トルコは、ギリシャ、マケドニア、ローマといろ

いろな時代を経てオスマントルコ時代に至るまで、幾多の

文化が、ある時は融合し、ある時は衝突し、そしてまたあ

る時は破壊しあいながら独特の文化を形成してきた。

 今回は、中国西安からローマまでの長いシルクロードの

中で、「隊商の道」と呼ばれる「トルコ アナトリア地方」を

巡るコースを計画した。

 

(1)イスタンブール空港

  到着した時は雲一つなく絶好の旅行日和であった。

  早速車に乗り込み出発した。

 

      ▲チャナッカレ海峡フェリー

        わずか30分ほどの短い船旅であるが、船内まで

        物売りの子供がが押しかけてきた。根負けして織

        物を買ってしまった。物売りの乗船は黙認されて

        いるようだが、一等室への出入りは禁止されてい

        るとのこと。

      

(2)チャナッカレ海峡

  エーゲ海とマルマラ海を結ぶ海峡

 

(3)キリトバヒール要塞

  オスマントルコは、長年、ロシアの南下侵略に悩まされて

  きた。そのためヨーロッパ各国と同盟し対抗する一方、こ

  うした要塞を造り守りを固めた

 

(4)トロイの遺跡

  チャナッカレの郊外30㎞にある古代遺跡。

  横へ横へと発展拡大するのが一般的な街づくりの手法だ

  が、トロイの街づくりは今までの街の上に新しい街を造る

  いわゆる上へと積み上げるものであった

  そのためトロイの街は、紀元前3000年から同300年ま

  での2700年間が積み重なっている

▲遺跡の風景

▲トロイの木馬

  トロイとギリシャの戦いは、10年の歳月をかけても決着

  がつかなかった。そこでギリシャ軍は一計を案じて巨大な

  木馬を作り撤退を装った。

  トロイ軍は、それを戦利品として没収し城内に運び込み、

  戦勝を祝った。深夜トロイ軍が寝静まった頃、木馬の中

  に隠れていたギリシャ軍が、トロイの街に火を放ち一夜

  のうちに廃墟となってしまった。

  後年この戦争をギリシャの詩人ホメロスは伝説だとして

  叙事詩「イリアス」に発表したが、それを信じなかったド

  イツ商人シュリーマンはついにトロイの遺跡を発見した。

  しかし悲しいかなシュリーマンは考古学者ではなく商人

  だったためその価値がわからず、せっかくの文化財は

  散逸してしまい、本国に持ち帰った出土品も戦争で破

  壊され歴史の舞台から消えてしまった。

 

        エーゲ海を左手に見ながら車は

           一路トロイからイズミールへ

(5)イズミール

   イスタンブール、首都アンカラに次ぐトルコ第三の都市。

   紀元前9世紀頃、イオニア文化の中心地で、それ以降

   ギリシャ・ローマ時代を経て、今は西欧風の街並みが

   続く国際都市で、エーゲ海観光の基地になっている。

 

(6)カデイフェ・カレ城

  イズミールの南にあるローマ時代の城。今は城壁を残す

  のみだが、城跡からは市街はもちろん雄大なエーゲ海が

  一望出来る。

 

(7)古代アゴラ

  ローマ時代の市場跡(イズミール)

+

  エーゲ海に沿って・・・

   エーゲ海沿岸は、屈曲に富む絶好のドライブコースで

  洒落たドライブインや手作りの土産物屋が並んでいる

 

▲私たちが近寄ると、「ハンドメイド、ハンドメイド」と言い

  ながら商品を指さし見せてくれた

 

(8)ベルガマ

   今から2000年ほど前のヘレニズム時代の都市国家で、

   エジプトのアレクサンドリアと並び称された学芸の中心都

   市として栄華を極めた。

   そしてこの都市国家は、アクロポリス(生活居住区)とアク

   スレピオン(医療保健施設)からなり、エフェス(後述)と並

   び「エーゲ海の二つのバラ」と言われた。

▲神殿跡

 

 

▲大劇場

  15000人収容だが、劇場を建てる基準はその都市

  人口の10%なので、ベルガマの人口は15万人だと

  推定される。

▲アスクレオイオン

  今から1200年前のローマ時代の医療保健施設。

  患者たちは水で体を清めて、この施設では対症療法だけ

  でなく、観劇やスポーツを楽しみながら、日光浴・泥湯・マ

  ッサージなどの健康法を採り入れ、その上音楽療法まで

  あったというから驚きである。

 

(9)聖母マリアの家

  キリストの死後、聖母マリアの消息は全くの謎であった。

  ある日エフェスの信者がは夢の中で「聖母マリアは、清ら

  かな清水が湧き出ている岩山の麓で眠っている」とのお

  告げを受けた。それがこの場所である。

 

(10)アルテミス神殿跡

  世界七不思議に数えられた壮麗な神殿の一つだったが、

  BC400年頃、ただ歴史に名を残したい、という理由だけ

  で神殿に火を放った男のために、一夜のうちに消え失せ

  てしまった。

  崩れ去った石は、いつの間にかどこかへ持ち去られ、今

  はたった一本の石柱が復元されているのみで、一面に

  寂しさと虚しさが漂っていた。

 

(11)ヒエラポリス

  今からおよそ3000年前のヘレニズム時代からローマ・ビ

  ザンチン時代にかけての古代遺跡。

  城内には劇場・神殿・市場跡・浴場跡などが残っているが

  訪れた時はすでに夕刻だったためゆっくり見れなかったの

  が残念だった。

 

(12)パムッカレ

  トルコ屈指の温泉保養地。

▲▼白い幻想の世界

  これは温泉水に含まれているカルシュームに炭酸が作用

  して形成された「石灰棚」。

  地名のパムッカレは「綿の城」という意味で、この石灰棚に

  由来して名付けられたという。

  この丘を遠くから見るとまるで雪山か氷山のように見えた。

▲ちょっと低めの35.5℃

  日本で温泉といえば「入る・つかる」を連想するが、ここ

  やヨーロッパなどでは「飲用」が一般的である。

 

   英会話がとりもったトルコ周遊の旅(その2)へつづく