連載記事『特急にっぽん縦断2022』ですが、膨大過ぎてなかなかフデ(?)が進まない…😣
「乗り鉄するヒマあったら早よブログアップしろや😠」と言われても仕方ない…。本当にスミマセン🙇‍♂️もうしばらくお待ち頂ければ幸いです。
 
さて…今回は、11月7・8両日留萌本線普通列車の代走として運用されたキハ40 1758に乗車した時の事を紹介します。通常同線は旭川運転所所属キハ54or150の両形式が運用されていますが、双方とも検査や不具合などのため予備車不足なのか?定期運用から離れて久しいキハ40、しかも朱色5号『タラコ』が代走というのは、来年大部分の区間が廃線になる同線にとって大きなトピックであり、団臨を除く一般客が乗れる列車としては2016年12月の留萌~増毛が部分廃線された際に運転された臨時列車以来かと思われます。
(2016年12月4日留萌駅にて撮影の臨時列車9423D)
 
 
 
私が乗車したのは11月8日(火)。本来は別な目的の乗り鉄(詳細は割愛)で札幌10:00発の3011Mライラック11号に乗っていたのですが、深川駅4番線に『タラコ』が留萌本線4925Dとして停車していた事から急遽予定変更、留萌からすぐに折り返す4926Dは深川から再度13:28発4927Dとして留萌へ向かうため、旭川から折り返しのライラック22号で深川駅に戻ってきました。
 
 
 
深川駅名物(?)といえるのが、この「鉄分多め」なホワイトボードですが、キハ54のイラストと真布駅が描かれていました。本来は上半分も商品PRと絡めて車両やバスのイラストが描かれているのですが、今回は控えめ…。
 
 
 
さて、お目当てのタラコ40は所定の13:13から4分程遅れて到着。いくら機関換装車とはいえ、出力は54や150には到底敵わないので恵比島~峠下の急勾配を通常通りのダイヤで走行するのは不可能です。
それにしても、釧路40の特別色全車がまさか旭川に転属して再び活躍するとは思ってもみませんでしたねぇ。何故代走がタラコ(しかも留萌~増毛の臨時列車と同じ1758)になったのかはファンサービスの一環なのか、たまたまなのか不明ですが…。標記はいまだに釧クシ(釧路運輸車両所)のままです。釧クシといえば、同所のキハ54が鹿飛び出しによる急停車で車輪フラットが多発、いっぺんに4両も使用不能になったため車両不足が深刻で、執筆中の段階ではいまだに花咲線と釧網本線の列車が多数運休という異常事態に陥っています。
 
 
 
20名程度の乗客は大半が乗り鉄や廃線前の『お名残乗車』であろう方でしたが、平日だけにリタイヤ組の年配者が多かったです。石狩沼田~留萌の廃線が決まり、休日ともなると全国各地から鉄道ファンが押し寄せて混雑しているようですが…。もし土日と被ったらヒドイ事になっていたでしょうね。
 
 
 
1758の出自を示す(?)このアルミサッシの落書き。
池田高校ⅡA…。まさに新製配置が池田機関区であった事の証。キハ40系は40数年、数多くの「青春」を乗せて走ってきました。
 
 
 
深川駅発車後は、残念ながら雲が厚みを増して小雨が降りしきるあいにくの空模様になってしまいました。雨竜川を渡り、来年からは暫定的な終着駅となる石狩沼田駅へ。
それでも結局は廃線の運命…まさに五十歩百歩というべきか。
 
 
 
石狩沼田駅を発車後、50年前に廃線となった札沼線の廃線跡が分かれていくのですが、その廃線跡もすぐ先からは田畑に取り込まれて痕跡すらわからなくなっています。
 
 
 
1969年に営業休止(1971年廃止)された留萠鉄道が発着していた恵比島駅に停車。
かつてブロック造りの駅舎と跨線橋、千鳥状に配置されていた相対式ホームのある立派な駅だった面影はなく…。後年、連続テレビ小説『すずらん』のロケ地として一躍脚光を浴びたのも今は昔。一応、当駅から深川へ通学する生徒が利用しているようですが、他に日常的な利用はなく時折駅を訪問する客が乗り降りするだけという寂しい状況です。
 
 
 
留萌本線最大の難所、25‰の急勾配と急曲線が連続する区間を走行。
そもそもがキハ54や150に合わせたダイヤ設定のため、非力なキハ40での運用は遅れの原因にもなるのですが…その40(しかも機関ノーマル)はかつて急行『るもい』で使用されていた事もありました。
この峠越え区間の踏切で撮り鉄3人がカメラを構えていましたが、彼等はレンタカーで移動しており、追っかけのため並行する国道をかなりの速度でブッ飛ばし、次の撮影地まで向かっていました。深川駅のホワイトボードには「ど~かひとつ、マナーを守って撮影をお願いします」と書かれていましたが、勿論撮り鉄の運転マナーもですよ!!捕まればいいのに…😠
 
 
 
留萌本線で唯一列車交換可能な峠下駅に停車しますが、2021年3月ダイヤ改正で減便されたためこの時間帯の交換列車はナシ。
 
 
 
留萌川を何度か渡り、やがて市街地へ入り、かつて羽幌線が分岐していた地点を過ぎると最後の橋梁を渡り、留萌駅構内に入ります。
 
 
 
終着・留萌駅には定刻より3分程遅れて到着。
 
 
 
こうして見ると、JR化初期の頃を彷彿させるシーン…。
私が初めて留萠本線に乗ったのは1990年(ワンマン化直前)でしたが、その時も当然タラコ40(100番台)。ただ、既に羽幌線ホームとそれに通じる長~い跨線橋は解体撤去済でした。
 
 
 
主要駅らしく広いコンコースの留萌駅舎ですが、ひと通り降車客がいなくなればひっそり…。
 
 
 
改札案内は液晶ディスプレイを使用。下には車両運用上による遅れを案内する掲示がありました。車両はそのまま16:17発の4928Dとなりますが、他の列車が10分前後で折り返すのに対して1時間50分程の空きが。私はその間徒歩15分程度の距離にある留萌市立図書館(※最近は各地の図書館で鉄道やマチに関連する資料を探すのがマイブーム)に行くつもりでしたが、到着時点で激しい雨が降っており、タクシー使ってまで行くのも勿体ないため、おとなしく待合室で過ごす事にしました…。
 
 
 
雨があがった処で立派なSRC造りの駅舎を撮影。側面にはちょうど55年前の建築を示す銘板が。施工は凖大手ゼネコン・フジタの前身だった『藤田組』。規模としては1965年建築の稚内駅(先代駅舎)と変わらない程で、それだけに重要な駅だった事が窺えます。
国鉄時代の旭川鉄道管理局管内では営業成績が上位だったにも関わらず、あまりにも凋落が激しかったのは留萌本線を取り巻く環境が著しく悪化したとしか言いようがありません。水産業や港湾関連の他には特にコレといった産業もなく、あとは官公庁で成り立っている衰退するマチの典型ともいうべきか。ピークの1960年代の半ばには4万人を超えた人口も今や半数以下となっており、北海道の港町に共通した悩みともいえるでしょう…。
 
 
 
さて、帰りの4928Dの改札が始まったのでホームに入ります。出改札業務自体はこの列車を最後に終了し、以後は無人駅扱いとなりますが駅員は終日勤務しており、近距離きっぷ用の自動券売機は窓口営業終了後も稼働しています。
 
 
 
前照灯が点灯、夕闇せまる中出発が近づいて参りました。
 
 
 
16:17、留萌駅を後にして一路深川へ。
この後すぐ日没を迎えるのですが、雲が多くてキレイな夕陽を望む事はできませんでした。
 
 
 
復路も往路とほぼ同様の乗客数で、1BOX席に1~2人、残りはロングシートに数名といった具合。案の定折返し乗車の乗り鉄が大半で、一般利用客はごく僅かだったと思われます。
 
 
 
復路はほとんど車窓を楽しむ事ができませんでしたが、ここにきて留萌本線でタラコ40に乗れた事は廃線前の良い思い出になりました。
終着・深川駅4番線には所定の17:15から4分遅れの17:19に到着しますが、そうなると接続する札幌行3036Mライラック36号(17:19発)には間に合わない…。
 
 
 
…と思っていたらノープロブレム。留萌本線からの乗換客に配慮し、ちゃんと接続を取ってくれたのでした。私も急いで1番線ホームに向かい、無事乗換完了。ライラック36号は約3分遅れで深川駅を発車したのでした。
 
 
 
私はこの後美唄駅で下車し、引退迫るキハ183系に乗るため73Dオホーツク3号に乗って上川まで向かい、そこからまた74Dオホーツク4号で札幌に向けて戻る…という乗り鉄をしてきたのですが、以後は割愛。今回は留萌本線で代走を務めたキハ40の乗車記のみ紹介させて頂きました。