1987年の国鉄分割民営化から、いよいよ35年が経とうとしています。

その前に国鉄改革の一環として、『国鉄再建法』に基づいて赤字路線の整理が行われ、『特定地方交通線』として多くの路線が失われていきました。

国鉄時代に存廃が決着しなかった路線についてはJR各社に引き継がれ、民営化後3年が経った1990年までの間に残り全線が第3セクター鉄道もしくはバスに転換という形で、特定地方交通線として廃線第1号となった1983年の白糠線から約6年半で赤字路線の整理を終える事になり、実に3000㎞余りのローカル線が国鉄、もしくはJR各社の手から離れる事となったのでした。

 

その特定地方交通線の中で、国鉄時代として最後に廃線となったのが日本海沿いに留萠(現・留萌)~羽幌~幌延を結んでいた羽幌線でした。最終営業日となったのが35年前の3月29日。国鉄が114年余り(公共企業体の『日本国有鉄道』としては38年)の歴史に幕を下ろす2日前で、まさに駆け込み的ともいえましょうか。141.1㎞という距離も国鉄時代に廃止された路線としては最長距離でありますが、いわゆる『長大4線』(名寄本線・天北線・標津線・池北線)のように一時廃止申請の保留(後に解除)はされず、結局JRに引き継がれる事はありませんでした(長大4線も唯一3セク鉄道となった池北線を含め、いずれも最終的にはバス転換され、全て鉄道路線としては消滅)。

 

当の私自身、羽幌線には乗った事がありませんが、特定地方交通線として廃線となった路線の中では最も乗ってみたかった路線でもあります。大半の区間が日本海沿いを走行し、とりわけ初山別~豊岬の金駒内陸橋は撮影スポットとしても有名で、そこから眺める海岸風景はさぞかし素晴らしかった事でしょう。そして海に沈む夕陽を車窓から眺めてみたかったモノです。また、道北ならではの荒涼とした風景と、北へ向かうに従って、天気が良ければ車窓から利尻山が見えるという魅力もありました。在りし日の鉄道風景は、今や鉄道関連図書やネット上の記事でしか知る事ができません。

残念ながら廃線当時はまだ子供という身分上、当時住んでいた網走からはあまりにも遠かったという事もあり、1人で宿泊施設を利用する旅行はできませんでした。親戚縁者が沿線、もしくは近くに住んでいれば実現できたかもしれませんが。今思えば、旭川の親戚に泊まればそこからの日帰り旅も決して不可能ではありませんでしたが…。勿論この時期は時刻表を駆使した複雑な乗り継ぎ旅の実行力も備わっておらず、あと10年、20年早く生まれていれば…と悔やんだモノです。

今回は、国鉄分割民営化の犠牲となった羽幌線を悼むべく、記事を書かせて頂きます。

(羽幌線末期の乗車券。未使用硬券の小平から鬼鹿ゆき乗車券は営業最終日の日付。左の車内補充券は3月12日の豊岬→旭川。100㎞超の長距離券で、なおかつ乗換のため深川の途中下車印が押されている。担当の深川車掌区は羽幌線の廃線に伴い旭川車掌区に統合)

 

 

 

羽幌線の歴史

北海道の日本海側はかつてニシンの豊漁で隆盛を極めており、留萌市は今も数の子の生産日本一を誇っています。そのニシンをはじめとする豊富な水産物輸送等を目的として元々羽幌線は留萠線の一部として開業した経緯を持っており、留萠から順次建設、1927(昭和2)年に大椴まで開業し、その後1931(昭和6)年に古丹別(現在の苫前町役場所在地)まで開業したのち羽幌線に路線名を変更、翌年に羽幌まで線路が繋がりました。奥地には留萌炭田の一部であった羽幌炭鉱が存在していた事から、その良質な石炭(※「煙の少ない羽幌炭」として宣伝されていた)を輸送するため1941(昭和16)年に築別まで路線を延長、そこから先は私鉄の羽幌炭礦鉄道によって築別炭鉱まで路線が開設され、折りしも太平洋戦争に突入した事から石炭輸送で活況を呈します。

 

一方、幌延側は天塩線の路線名で建設が進められ、戦前の1936(昭和11)年に遠別まで開業。その後延伸は戦争もあって一旦中断、戦後も幌延からの盲腸線のままで推移しますが、1950年代半ばには気動車導入に伴い仮乗降場の増設も行われています。

(羽幌線築別~初山別開業当時の時刻表。当初から気動車が運転されていたため築別及び羽幌で運転系統が分断されていた事が判る。天塩線の作返などの仮乗降場は既に開業していたが、この時点では道内版時刻表に未掲載。日本交通公社『道内各線時刻表』1957年12月号より引用)

 

 

 

戦後の1953(昭和28)年から築別から羽幌線の延伸を再開(工事線としては遠羽線と呼ばれていた)、1958(昭和33)年になってようやく遠別まで繋がり留萠~羽幌が全通、同時に天塩線を羽幌線に編入し、140㎞超の長大路線が完成したのでした。同年には羽幌炭礦鉄道の気動車が築別から片乗り入れする形で羽幌への直通運転が開始されています。

(羽幌線全線開業当時の時刻表。やはり仮乗降場は一部を除き未掲載。築別及び羽幌以南が気動車未導入だったため、全通後しばらくの間は両駅での乗換を余儀なくされていた。また、羽幌炭礦鉄道の羽幌乗り入れは12月からとなっており、この時点の同社列車時刻は9月1日現在の記事のため乗り入れダイヤとはなっていない。日本交通公社『道内全線時刻表』1958年12~(1959年)1月号より引用)

 

 

 

1961(昭和36)年には留萠本線と羽幌線にとって初の優等列車となる、小樽・札幌~築別を直通運転する気動車準急『るもい』(※急行『はぼろ』登場後、運転区間は幾度か変遷している)が登場、翌年10月には路線末期まで運転される事となる札幌~幌延の気動車急行『はぼろ』(札幌~深川は名寄本線直通急行『紋別』に併結)が誕生、同時に客貨混合列車を分離、旅客列車の全列車が気動車化され、この頃が羽幌線全盛期ともいえました。また、その1962年の海水浴シーズンからは旭川~留萠~鬼鹿の『かもめ号』(※運転開始当初は客車列車。留萌まで増毛行を併結、羽幌線廃線後は増毛行が1995年まで運転)、そして1969年から夏の観光シーズン限定で札幌~羽幌(※札幌~深川は下り列車が『かむい』、上り列車は『天北』にそれぞれ併結。いずれも1980年代前半の場合)の急行『天売観光号』(後に『天売』)が臨時列車として廃線前年の1986年の夏まで毎年運転されるようになります。

(急行『はぼろ』登場当時の時刻表。同列車と入れ替わりに準急『るもい』は羽幌線には入らず、小樽~増毛の列車に鞍替えしている。また、旅客列車の全列車気動車化に伴って羽幌線を全線直通する普通列車も設定された。また、未掲載だった仮乗降場もこの時点では掲載されるようになっている。日本交通公社『道内全線時刻表』1962年8~9月号より引用)

 

 

 

(『はぼろ』『天売』といった急行列車に使用されていたキハ56系のキハ56 136(札ナホ))※1990年滝川駅にて撮影。写真はイメージです。

 

 

 

しかし、戦後になってからの全線開業は時既に遅しの感は否めず、1950年代半ばのニシン漁の急激な不漁、高度成長期における都会への人口流出による沿線の過疎化、そして道路整備も進んだ事からモータリゼーションの波に呑まれ、他のローカル線の例に漏れず1960年代半ば(ちょうど『団塊の世代』が高校生の頃)をピークに乗客が減少。

その一方で、同時期には沿線の中心である羽幌町は炭鉱労働者とその家族を中心に人口3万人を超え(昭和40年国勢調査)、市政施行(いわゆる『3万人市』)まで検討していた程でしたが、折悪くエネルギー革命による石炭産業の斜陽化による炭鉱労働者の都市部への流出、それによる人手不足と、採炭条件の悪化も相俟って羽幌炭鉱は出炭減、そしてドイツから導入したといわれる水力採炭システム導入の失敗などが重なり、炭鉱と鉄道を兼業していた羽幌炭礦鉄道は1970(昭和45)年に炭鉱の閉山(いわゆる『企業ぐるみ閉山』)を余儀なくされ、役目を終えた鉄道も同年暮れに廃線となりました。少しずつ減少していた町の人口は炭鉱関係者の町外流出に伴い急減、慌てた町は市政施行を実現させるべく、町ぐるみで同年の国勢調査の人口をごまかすという『羽幌町人口水増し事件』が起こるという事態にまで発展します。同年には路線の中枢ともいえる羽幌駅舎が鉄筋コンクリート平屋建ての新駅舎に改築され、面目を一新したばかりでした。

(炭鉱閉山後も廃墟として残されている羽幌鉱業所(築別鉱)ホッパー跡。右側奥の立坑には羽幌炭礦鉄道の社紋が見える)※1999年撮影。写真はイメージです。

 

 

 

これより前の1968年8月に国鉄諮問委員会が廃線を勧告したいわゆる『赤字83線』選定にあたっては、羽幌線は長大路線である事と、豊富な石炭の貨物輸送があったという背景で対象から外れましたが、特に北部の区間は人口希薄な地域のため旅客・貨物共に輸送量は少ないため、1970(昭和45)年から駅の無人化や乗降客数の少ない仮乗降場の廃止(下ノ滝と西振老)、主要駅以外での貨物・荷物の取扱廃止など、大幅な合理化が順次進められました。

築別炭鉱の大口貨物を失った羽幌線は巨大な赤字ローカル線に転落、旅客ばかりでなく他の一般貨物もトラック輸送の発達に伴い輸送量は減少、1982(昭和57)年には国鉄再建法による第2次特定地方交通線に選定、廃止対象路線となりました。石炭列車廃止後も細々と残っていた一般の貨物輸送と、郵便荷物輸送は1984(昭和59)年2月ダイヤ改正で廃止となっています。

 

勿論沿線では廃止反対運動も行われましたが、日本海沿い特有の冬の厳しい自然環境の中を走る羽幌線は鉄道マン泣かせの路線でもあり、冬季は暴風雪により運休というのも珍しくなく、地域の鉄道に対する信頼はほとんどないに等しいモノでした。このため反対運動も他の路線と比較してあまり盛り上がる事もなかったようです。

それというのも、冬季における路線バス運行のノウハウに長けている沿岸バス(本社・羽幌町)の存在が大きく、列車は運休していても除雪体制の整った国道を走るバスは通常運転というケースが珍しくなかったようで、さらにバス運賃も国鉄より安い賃率だったため流石にそれに抗う事はできませんでした。廃線承認にあたって『長大4線』と同様の枠組みにならなかったのは、ほぼ全線に渡って並行する同社のバスの路線と競合していたからです。存廃を判断すべく、比較的利用客と運転本数の多い留萠~羽幌の第3セクター鉄道化の可能性を模索しましたが、1985(昭和60)年に行われたコンサルタントによる調査の結果6年で運営資金が底を尽くと判断され、結局断念しています。

1986(昭和61)年8月にバス転換が正式決定、11月1日の国鉄最後のダイヤ改正に伴って長らく札幌~羽幌~幌延を結んでいた急行『はぼろ』が廃止(深川~幌延の普通列車に格下げ)、そして国鉄分割民営化を3日後に控えた1987(昭和62)年3月29日の営業を以て、留萌~大椴開業以来60年、全通からわずか29年の歴史に幕を下ろしたのでした。

(廃線直前の時期から旭川~幌延で運転された臨時列車『さようなら羽幌号』で配布された乗車証明書。トップ画像はその表面)※元羽幌線某駅勤務の方から提供

 

 

 

(路線営業最終期の羽幌線時刻表。道内版ではないため仮乗降場は掲載なし。また残念ながら臨時列車『さようなら羽幌号』も掲載されていない。日本国有鉄道 業務用時刻表1987年3月号より。廃線時期が近かった湧網線や士幌線などの鉄道代替バス時刻表は掲載されているが、羽幌線に関しては原稿締切の関係か非掲載)

 

 

 

翌30日からは沿岸バスによって代替バスが運行され、他の鉄道転換バス路線が軒並み廃止や大幅減便される中、現在も留萌市立病院~幌延駅~豊富駅と旧羽幌線沿線に沿った路線が健在で、この他に区間便も設定されていますが、やはりバス業界も厳しさを増す昨今では補助金頼みの運営には変わりありません。これとは他に鉄道の廃線前から運転されていた『特急はぼろ号』(羽幌線の急行列車にトドメを刺した)が札幌~羽幌・豊富の区間で運転されており都市間輸送を担っていますが、羽幌~札幌の区間便1往復は今年4月1日から廃止される事になっています(同便は既に新型コロナウイルスの影響で運休中)。

(転換バス初期の時刻表。流石に現在より本数が多いが、それでも転換当初から比較しても極端な減便まではされていない。下には旧羽幌炭礦鉄道ルートに沿ったバス路線も掲載されているが、流石にソチラに関しては後に廃止されている。北海道旅客鉄道刊・北海道ダイヤ時刻表1987年10月号より)

 

 

 

羽幌線で活躍した車両(全線開通後)

 

羽幌線は線路規格が低い事から、軸重軽減のためD51形SLの従台車を改造した国鉄制式最後のSLとなったD61形(深川機関区留萠支区配置)が石炭列車を牽引していた事が有名ですが、それ以前より混合列車や貨物列車には9600形(同区)も使用され、無煙化以降の貨物列車は深川機関区のDE10形ディーゼル機関車に交代。除雪用としてはDE15形も使用されていました。

気動車はキハ21、22形(旭川、深川の各機関区)、また北部では区間運転用として稚内機関区のキハ03形レールバスも一時期使用されていました。先述の羽幌炭礦鉄道の乗り入れ車は同社のキハ1000形(国鉄キハ07タイプ)、後に同社オリジナルのキハ22形(同社線廃止後は茨城交通へ譲渡)を使用、羽幌線の気動車に併結して羽幌まで乗り入れています。また急行『はぼろ』は苗穂機関区のキハ27形+22形の編成でスタートし、後にキハ56系(苗穂機関区または札幌運転区)の編成に統一されています。郵便荷物輸送用としてはキハ21形を改造したキユニ21形(深川機関区)が使用され、後に準急型キハ26形を改造したキユニ26形(旭川機関区)も加わり、1984年2月に郵便荷物輸送が廃止されるまで活躍しました。

道北一帯のキハ21形はデッキ無のため酷寒地での使用は不向きなため、1960年代後半までにほとんどの車両が函館運転所などの道南へ転属、以降は急行『るもい』として旭川へ直通する列車(※上りのみで、羽幌線内は普通列車。末期は上りが廃止され旭川→留萌の下り1本のみとなっていた)も含めて旭川・深川のキハ22形がメインとなり、1980年代になると旭川機関区のキハ40形が運用に加わる事になります。合理化のため1980年代半ばに深川機関区の車両配置は旭川機関区(後に運転区)に一本化、同区のキハ22・40形をメインに24形も運用に入る事がありました。

(旭川運転区時代に羽幌線でも使用されていたキハ22 328。JR化後の1989年に苫小牧へ転属)※1991年長万部駅で撮影。写真はイメージです。

 

(キハ40などと共通運用で使用されていたキハ24 7(旭アサ))※1991年北見駅にて撮影。写真はイメージです。

 

 

 

変わった処では、路線末期にキロ29・59形のお座敷車両『くつろぎ』が臨時急行『天売』に併結される形で入線したり、道内リゾート列車の元祖キハ59系『アルファコンチネンタルエクスプレス』によるANAスカイホリデーの道外発着ツアー団体臨時列車が運転された実績があります(※1986年6月4・11・18・25の各日。初日はANA機で来道したツアー客を乗せ、千歳空港→追分→岩見沢→深川→幌延→稚内で運転。1泊後の翌日は稚内から宗谷・名寄・湧網線経由で網走へという、夢のような列車だった。3・4日目は主にバス移動で観光地を巡り、列車そのものは4日目に再び池田→札幌でツアー客を乗せて運転。5日目は札幌観光が中心で、同日に千歳空港からのANA機で帰路に就くという行程。今でいう『THE ROYAL EXPRESS北海道』に似たパターンだが、コースの魅力は当時には到底敵わない)

苗穂工場内に併設の北海道鉄道技術館に前頭部の車体のみ展示されている『アルファコンチネンタルエクスプレス』キハ59 1。羽幌線のみならず、道内各地の今はなき路線にも多数入線実績がある。

 

 

羽幌線なき後の留萌駅

かつて羽幌線があった頃を偲ばせるのは1967(昭和42)年に建築された立派な現駅舎と、広い貨物ヤードを挟んで設置されていた羽幌線の4・5番ホームへ通じていた長~い跨線橋を切り取った跡の張り出し位なモノで、かつて石炭列車がヤードや機関支区跡地を含めて再開発されて公園化(船場公園)され、今はもう見る影もありません。

その留萌駅も、留萌本線の廃線問題で存続の危機にあり、当の留萌市ですら廃線を容認、駅跡を再開発したいという意向という事だそうで。実際に、列車を使う留萌市民は少数派になってしまい、市民の間にも強硬な廃線反対運動も起こっていないようで、もう諦めムードが漂っています。いずれはこの駅舎も消えてなくなる運命なのか…。

これに対して、沼田町を中心とした他の沿線自治体は廃線反対運動を展開していますが、函館本線の『山線』ですら余市町を含めた全区間の廃線が決まってしまった事から、存続を巡る情勢はかなり厳しいモノになってきたといえるでしょう…。

(以下の写真は2020年撮影)

 

 

 

羽幌線ホーム跡付近から北を見た図。5番線跡より北はちょうど土手になっており、その間を登る階段はかつて鉄道用地に敷かれていたレールの枕木でしょうか。土手の上にあるレンガ色の建物は公衆トイレ。

下写真は土手に上がって見た4・5番ホーム跡と、その奥に広がる船場公園、そして留萌駅。

2020年時点では、留萌駅の跨線橋を通じて船場公園へ相互に行き来する事ができましたが、翌2021年になって跨線橋がファスナー付きのシートで閉鎖されたため、実際に行き来できるかどうかは不明です。

 

 

 

留萌駅西方の踏切跡から同駅を遠望。

増毛への路線が廃線となり、1・2番線(その間に中線がある)にはそれぞれ車止めが設置され、その部分でレールが切られてしまっています。

同じ踏切跡から西方を見ると、増毛へ続いていたレールと、運河を渡っていたトラス橋梁が2つ残されていますが、レールのない方の橋梁はかつて留萌港にあった石炭積み出し施設に通じていた臨港線で、先述の羽幌炭鉱からの石炭の一部もこの線を利用して船積みされていました。他の留萌炭田や、芦別などからの石炭もここに運ばれてきましたが、私は薄学にして留萠本線の石炭列車がいつ廃止になったのか、いまだに判らずじまい…。国鉄分割民営化直前の時点ではまだ石炭列車が走っていたというのを確認しているのですが(鉄道ファン1987年6月号106頁参照)。一応貨物輸送はJR貨物に引き継がれた事になっていました(※但し、『鉄道ダイヤ情報』1987年8月号には「貨物列車の運転線区」に定期・臨時も含めて留萠本線が記載されておらず、民営化後は石炭列車の運行はなかったと思われる。後に正式に廃止)。

 

 

 

さて…コチラは2022年3月初旬の留萌駅。

留萌本線で使われていた2番ホームも、2016(平成28)年12月の留萌~増毛が廃線になって以降使われておらず、冬は雪に埋もれて跨線橋も閉鎖されています。2番ホーム(番線上は3番線で中線が2番線)に通じる線路は2020年時点では使用可能でしたが、この時点では既に使われなくなっており、出発信号機には中線の分も含めて×印が付けられています。

かつての羽幌線と同様、近年は留萌本線自体も冬季にはしょっちゅう運休しており、もはや地元住民からの鉄道に対する信頼はないといっても過言ではないでしょう…。私は往年の留萠駅をリアルタイムで見た事はありませんが、かつて広い構内に貨車がひしめき合い、3方向への列車が発着していた駅の哀れな末路を見せつけられる思いでした。実際、この時に乗車した列車は往路が10人程、帰路に至っては5人程度当駅からの乗降があっただけで、なおかつ乗り鉄が大半を占めるようでは、路線の使命を終えたという事を素直に認めざるを得ないのかもしれません。並行する深川留萌自動車道の存在も、その事に拍車を掛けているかのようで。

 

 

 

結局、留萌本線自体も遅かれ早かれ羽幌線と同じ運命を辿る事になるのは間違いなく、そうなれば留萌管内からも鉄道が全て消えてしまう事になりそうです。しかし…羽幌線が改名せず深川~幌延で留萠本線となっていたら、一体どうなっていたんだろう?最悪、輸送密度が押し下げられて特定地方交通線の除外規定(深川~増毛の留萠本線は平均乗車㎞が30㎞を越え、かつ選定基準期間の輸送密度が1000人以上だった事で廃止対象から免れた)にも該当せず全線が廃止対象になっていたのかもしれません。そして留萠~増毛は別線区として第1次廃止対象路線となり、2016(平成28)年まで生き残る事もなかったのでしょう。とは言え、JRに引き継がれながらも時代に取り残されたまま輸送改善も進まず、その一方で過疎化の進む地域社会、そして競合するバス路線と留萌まで延伸された高規格道路…。元々は幹線(※実際、貨物取扱量は旭川鉄道管理局管内で北旭川駅を差し置いて断トツトップだった時代もあった)ともいうべきだった留萌本線も、羽幌線と増毛への線路が切り捨てられた現在はもはや枝葉末節的な存在までに凋落し、存在意義をすっかり失っています。流石にここまで落ちぶれてしまえばもう為す術もなく、あとはただ廃線を待つのみなのか…。

残された留萌本線こそ、哀れという他ない…。

 

 

参考文献:鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル 1985年9月号』他各号、鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション11北海道の鉄道1950~60」、北海道新聞社刊 堀淳一著「北海道 鉄道跡を紀行する」、日本国有鉄道旭川鉄道管理局刊「旭川・鉄道八十八年の歩み」、日本国有鉄道北海道総局監修「北海道鉄道百景」、日本交通公社「道内各線時刻表(北海道時刻表)」など各種時刻表、その他鉄道関連書籍、Wikipedia「羽幌線」「羽幌炭礦鉄道」

 

記事の加筆修正及び、古い時刻表の画像を追加しました(4月20日追記)。記事の修正は適宜行っております。ご了承ください。