残念至極…。

まぁ、こういう結果になる事はある程度わかっていながらも、かつては定期特急・急行列車が走行する主要幹線に位置付けされていた函館本線の通称『山線』(長万部~小樽)が、北海道新幹線の並行在来線として経営分離されるのを機に全ての区間でバス転換される事が決まってしまったのは、寂しさを禁じえません。

 

かつてはC62形SLの重連牽引、末期にはDD51形ディーゼル機関車+14系座席車(+郵便車)で運転されていた急行『ニセコ』、キハ56系急行『宗谷』、キハ80系・183系特急『北海』などの優等列車も走行していた山線区間ですが、1961年10月(サンロクトオ)ダイヤ改正で道内初の特急『おおぞら』が、遠回りにも関わらず所要時間が有利な室蘭本線(いわゆる『海線』)・千歳線経由で運転されるようになってからは連続する急勾配区間と線形の悪さから、次第に山線経由の優等列車は減少し、海線区間・千歳線が線増などの改良をされるのとは裏腹に、特に改良される事のないまま山線は凋落の一途を辿りながらも、函館本線の名を名乗り続けてきました。

 

もっとも、沿線に都市が連続する海線区間+千歳線と対照的に、山線は特に大きなマチがなく、廃線となる区間で人口1万人を超えるマチといえば後志総合振興局(旧後志支庁)のある倶知安町、そして余市町とお隣の小樽市のみ、小樽は観光客の多いマチではあるものの、最盛期は20万人いた人口も急減し、今や11万人台と急速な斜陽化が進んでいます。

この事を背景に山線の近代化は遅れ、旧型客車による普通列車とタブレット閉塞が国鉄末期の1986年11月ダイヤ改正まで残っており、電子閉塞方式で自動閉塞化されたのと引き換えに全ての定期優等列車を海線経由に振り替える形で廃止され、以降長万部~小樽は気動車による普通・快速列車のみが走る名実共にローカル線へと転落し、函館本線は名ばかりという事態に陥ったのでした。

その後、キハ201という電車と協調運転が可能なハイテク車両を導入(現在も運転中)し、小樽からは電車併結で札幌へ直通するという施策も実施したものの、現在協調運転を実施しているのは倶知安からの朝の下り1本のみで、せっかくの機能を生かしきれていないのは勿体ないとしか言いようがありません。

廃線となる区間も現在、長万部~蘭越に関しては下り4本、上り5本と極端にまで減便されており、もはや公共交通機関の役目を果たしているとは言えない状況にまで陥っています。

 

今回の廃止の元凶となった北海道新幹線はいわゆる『北回りルート』が1973年に既に決定しており、山線区間を並行在来線扱いとしてJRが経営分離を表明して以降、その去就が注目されていました。ただ、山線区間は既に定期特急列車は走っておらず、在来線は地域輸送にほぼ特化されていたため新幹線とは棲み分けができるハズで、並行在来線扱いとする事には疑問ではありましたが(あくまでも個人の意見として)。しかし、新幹線とは二重投資となるため、経営の重荷になる路線は一刻も早く切りたいのがJRの本音なのでしょう。

しかし、並行在来線の中でも特に輸送量が少なく、既に貨物輸送もなかった事から経営分離後の鉄道による存続は困難、沿線自治体の負担が大きすぎるとして余市町を除く沿線市町は全て廃線・バス転換に合意、小樽・札幌方面への通勤通学客が比較的多い余市町だけが、廃線反対を訴え続けてきましたが、同町のお隣である小樽市はバス転換を主張、同市の合意がない限り鉄道存続は不可能である事から、結局余市町が折れる形で全線のバス転換に合意したのでした。

 

えーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーんショボーンえーん

 

その余市町内に唯一存在する余市駅。

先述の通り、当駅からの通勤・通学客が多い他、同町が創業地であるニッカウヰスキーの余市蒸留所などへの観光客の利用が多いため、当駅から小樽への区間だけでも鉄道を存続させられないモノか、という希望は潰えてしまいました。

ただ、バス転換がスムーズに進むかどうかは不透明で、ドライバー不足が問題になっている業界の現状を考慮しても多難な前途が予想されるでしょう…。特に朝ラッシュの通勤・通学客をどう運ぶか、新幹線開業までの間にそのためのビジョンを策定しなければなりません。

 

 

 

 

先述の通り余市町といえば、言わずと知れたニッカウヰスキー創業の地で、その余市蒸留所は駅から約200m先にあります。同社初のCMソング「♪ニッ~カニッカニッカウヰスキーはニッカ~」(※CMソングに後から映像をシンクロさせる手法で制作されたTVCM第1号との事)に合わせて踊る熊の人形と、ウイスキーの角ボトルをモチーフにした噴水(通称『ニッカ熊』)が駅前広場に設置されています。

鉄道ならばお酒を飲んでも移動できるんだから(勿論節度を持った上で)、せめて余市~小樽だけでも同社出資の3セク鉄道にでもなれば…という妄想を抱いてしまうのですが、例えニッカ創業の地といえども親会社のアサヒビールが許さないでしょうね…。

 

 

 

余市といえばもう一つ、ご当地キャラの『ソーラン武士!』なのですが、山線経由の臨時特急ニセコ号では上り列車の停車時間中に顔を出していました。

写真は昨年9月運転時のモノで、車両はJR北海道リゾート列車最後の生き残りであるノースレインボーエクスプレス車両が使用されました。同車も果たしていつまで活躍が続くのか…。

特急ニセコも、北海道新幹線開業に伴う廃止までの間は臨時列車として運転されるでしょうが、ノースレインボーを含め、キハ183系の全廃は年数的にも新幹線開業より先になると思われ、その後の期間はどうなるんだろう…?

 

 

 

山線が廃止されてしまえば、列車の中からこういった雄大かつ風光明媚な車窓風景は見られなくなり、北海道新幹線はトンネルで山間部を一気に貫くため、ほとんど車窓風景は楽しめないに等しいです。ホント、つまらない世の中と言いますか…。

 

 

 

さてコチラは2020年運転の特急ニセコ号。ニセコ駅で最新型H100形の普通列車と交換ですが、翌年のニセコ号はノースレインボー車両になったため、一般のキハ183系とH100形の並びはこの年限りでした。

 

 

 

同じく2020年シーズンの特急ニセコ号。ニセコ駅を発車する時の様子です。

ニセコ町のご当地キャラ『ニッキー』のお見送りがありました(上写真にも少し写っている)。

 

 

 

さて話題はずっと前に飛んで30年前の1992年3月にタイムスリップ。

特急北海や急行ニセコなき後、ニセコ連峰へのスキー客をターゲットに山線の新たなスターとして誕生したのがJR北海道リゾート列車第4弾となった『ニセコエクスプレス』(2017年引退。1両のみニセコ駅近くにて保存)。それまでの国鉄型気動車の改造から、キハ183系のシステムを応用した完全新製となり、山線を走行するため重心の関係上ハイデッカー構造を採用しなかっただけに少々地味な存在ではありましたが、当時のJR北海道の技術力の高さには目を見張るモノがありました。今はもう見る影もありませんが…。

尚、この時代は動態保存として復活したSL・C62 3牽引による『SLニセコ号』が夏季を中心に運転されていましたが、アホな私は結局一度も乗る事なく終わってしまいました(後のC11 207による再復活も含めて)。まぁ…既に無煙化世代という事もあり、気動車のほうに興味があったからというのもありますが(せめて旧型客車には乗っておくべきだった…)。

 

 

 

上写真ニセコエクスプレス4号(8006D)は千歳空港(現・南千歳)→ニセコで乗車。

コチラの写真はニセコ駅から札幌方面へ戻るために乗車したキハ40 183(現・1783)の長万部発札幌行単行気動車3275D(快速マリンライナー。小樽築港までは各停、以後は手稲以外通過)。この頃は山線区間から札幌への直通列車も何本か残っており、国鉄末期から気動車普通列車はキハ56系や46形なども使用されてはいましたが、メインはやっぱりヨンマル。実は、私が山線に初めて乗ったのは旧型客車時代に運転されていた函館→札幌の夜行普通列車(荷)41レ(荷物輸送がメインで、旅客はあくまでもついで)でしたが(父方の義祖父の葬儀の帰りに乗車。客車はオハフ33形。札幌から乗り換えたのは最新型だったキハ183系オホーツク)、以降キハ150形に乗るまで、山線の普通列車に関しては40以外に乗った事がありませんでした。

2枚目は、倶知安駅でキハ40 184(現1784)を増結するシーン。かつての倶知安機関区の名残で、木造の車庫が残っていました。後述の通り、倶知安駅のこれらの風景はすべて過去のモノに。

 

 

 

 

再び時代は飛んで2020年の倶知安駅へ。

そのキハ40も、キハ150と共に同年3月ダイヤ改正で電気式気動車H100形に置き換えられ、長年に渡る山線での活躍を終えました。この820は函館本線の札幌~旭川、また札沼線の非電化区間でも用いられていましたが同年5月に廃車解体されています。尚、同車は原形の予燃焼式エンジンを固持しており、直噴化改造はされていなかったためオリジナルのエンジン音が聴ける貴重な存在となっていました。

 

 

 

そして2021年…。

倶知安駅は元々在来線駅のあった場所に新幹線駅を建設する事となり、10月30日にその施設を駅裏手に移転した事によって従来のホームと線路は役目を終えました。

 

 

 

 

この新しい駅施設、あくまでも仮設前提なのかはわかりませんが結局たった数年で役目を終える事になりそうです。右側には留置車両用の立派な車庫まで建てられていますが…。

おまけに倶知安町は駅周辺の再開発を進めたいがために、廃線時期を早めたいとの事で(コレは長万部町も同様の意見を述べている)。廃線前提で巨費を費やしてわざわざ駅施設一式まで移転させるのはどうかと思いますね。新幹線の駅ができるマチだけはイイ思いして、鉄道のなくなるマチの事はどうでもいいのかと勘繰りたくもなりますが。

(以上3枚の写真はいずれも倶知安駅下り方踏切内から撮影)

 

 

 

とにかく、決まってしまったモノに対してはどうする事もできませんが、かつての幹線筋だった函館本線がブツ切りになってしまう事に対しては、一鉄道ファンとしては悲しむべき出来事で、有珠山噴火の際は海線の代替ルートとして寝台列車を含む特急列車や貨物列車の迂回路になった事もあるだけに、有事を想定して国の力でどうにか残せないモノか…と思うのですが、当のJR貨物自体がDF200形機関車の重量に線路が耐えられない(軸重はかつて山線で運用されていたDD51形よりさらに重い)という理由で代替ルートとしての利用を拒否しているという事で、結局活用される道も閉ざされてしまいました。ただ、山線より線路規格が低いと思っていた石北本線にもフツーに『タマネギ列車』として入線しているし、かつて重量級SLのC62形(※軸重軽減改造車)が運用されていただけに、不可能なワケがないと思うのはシロート考えでしょうか。まぁ、山線経由だと運転条件が厳しいので動力費も嵩むのが正直な処なのでしょうが…?線路を残しておくだけでも余計な経費を浪費するだけでしょうし。

とにかく、山線が廃線になってしまう前に、有事の際の貨物輸送ルートを策定しておかねばなりませんね。ただ…同じく新幹線開業後は並行在来線として経営分離される函館~長万部、とりわけ新函館北斗以北の区間もアヤシイとしか言いようがなく、旅客がダメでも貨物専用路線として生き残れるか…。同区間も廃線という事態になってしまえば、北海道~道外への物流は大打撃を被る事となり、重要なインフラとして国がきちんと面倒を見る位の事はして頂きたいと思うのですが。新幹線建設を推進しているのはまぎれもなく国なんですから!

 

長々と駄文ばかり述べましたが、今回はまとまりのないブログですみません。