千葉県市川市にあるやすらぎ治療室。今、ミケちゃんはお店の看板猫として、優しく温かな人たちに囲まれて暮らしています。生まれた時から恵まれた環境にいたわけではありません。夏はトラックの下で暑さをしのぎ、冬は冷たいコンクリートの上で凍えながら眠っていたミケちゃんを迎え入れてくれたのは、院長のやすらぎさんです。

 

ミケちゃんが迎え入れられるまでのお話はこちら!

 

 

 

 そんなやすらぎさんもミケちゃんと同じくらい波瀾万丈な人生を送ってきました。二人が引き寄せられたのは、必然の運命だったのかもしれません。今日はミケちゃんにも聞かせてあげたいやすらぎさんの軌跡を綴ります。

 

 

 

 

番外編 ミケちゃんとやすらぎさん - もう一つの物語 -

 

 僕は北海道の出身です。温泉で有名な登別市で生まれ、すぐに隣の室蘭市へ移り、高台にある団地で暮らしていました。港が見える景観の良い場所だったことを覚えています。3歳上の兄と坂道でかけっこをするなど、体を動かすことが大好きな子どもでした。

 

 関東へ来たのは4歳の時です。父が勤めていた会社の独身寮の管理人室へ引っ越し、母はそこで清掃や調理の仕事を始めました。寮には娯楽室があり、ボクシングの世界タイトルマッチが放送されると、寮生のお兄さんたちに誘われ、僕も一緒にテレビを観て日本人選手を応援しました。輪島功一選手やガッツ石松選手、具志堅用高選手のファイトを観て、自然とボクシングが好きになっていったのです。

 

 

 たくさんの寮生に囲まれ、賑やかで楽しかった毎日。ずっと続くと思っていたそんな日々が一変したのは、小学校6年生になった頃でした。父が会社を退職し、住み続けることが出来なくなったのです。僕たちは市川市にある借家に引っ越しました。そして、その頃から父は転職を繰り返すようになり、家族の笑い声が聞こえなくなっていきました。父もきっと自分の居場所を見つけられずに苦しんでいたのだと思います。だから、僕は父を励ましました。でも……。

 

「借りたお金は返してもらわないと困るんですよね……。分かっていますぅ?」

中学3年生の頃になると、複数の消費者金融から取り立ての電話がかかってくるようになりました。父は家族に内緒で借金を重ねていたのです。借りたお金を何に使っていいたのかは分かりません。もしかしたら、本当は働いていなくて、給料として家に入れていたのかもしれません。

「お父さん、どうしてだよ?」

問い詰めても、父は何も話してくれませんでした。母は台所の椅子に座って、毎晩泣いています。僕はそんな母の姿を見るのが苦しくて、悲しくて、やるせなくて、兄と二人で父に訴えました。

「もう出ていってくれよ!」

 

 

 それからしばらくして、父は離婚届を置いて家を出ていきました。そして、僕たちは松戸市にある借家に引っ越しました。その借家はもう何年も人が住んでいなくて、雨漏りがするようなぼろぼろの家です。母方の親戚の叔父さんが北海道から出てきて、何とか住める状態にまで直してくれました。

 

 高校に入学すると、僕は母のパート先だったスーパーでアルバイトを始めました。家庭の事情を慮ってくださった店長の計らいです。平日は学校が終わってから22時まで、学校が休みの日は昼から夜まで働きました。ただ、勉強をする時間がなくなり、成績はクラスでほぼ最下位でした。また、当時そのお店ではバイクの購入資金や小遣い稼ぎでアルバイトをしている年上の"不良系"の人が多く、心無い言葉を何度も浴びせられました。

 

 

 そんな僕の心の支えとなってくれたのは、プロボクサーの穂積秀一選手でした。中学生の時にファンレターを送ってから交流が続き、電話や手紙で僕を励まし続けてくれました。いつも交通費を添えて試合のチケットを送ってくださり、僕はそのチケットを握りしめて後楽園ホールへ応援に行くのが生き甲斐でした。ボクシングの熱さ、そして穂積さんの存在が辛い毎日を乗り越える力になったのです。

 

 大学への進学は、成績はもちろん、家庭の状況を考え、諦めていました。ただ、もう勉強が出来なくなると思うと、逆に向学心が湧いてきて、机に向かう時間が増えていったことも確かです。その結果、模擬試験の成績も上がり、高校3年生の夏休み前にあった進路相談では担任の先生から進学を勧められました。ですが、家計が苦しかったこともあり、僕は就職するつもりであることを伝えました。

「そうか……。でもな、夜間大学っていうのもあるんだぞ。私が卒業した早稲田大学は奨学金制度も充実しているし、第二文学部なら授業は夜だから昼間は働けるよ。早稲田はユニークな学生がたくさんいるから、長い人生の中で必ずプラスになると思うよ」

 

 

 先生のこの言葉に影響を受けた僕は、暇を見つけては教科書を開くようになり、試験にも無事合格し、奨学金を受けて早稲田大学第二文学部へ入学することが出来ました。ただ、入学金は免除されても、日々の生活費や授業料を稼がなくてはならないことに変わりはありません。僕の足は次第に大学から遠ざかっていきました。

 

 そんな中で、一つだけ休まずに出席した授業があります。それは毎週金曜日の午後にあった体育実技のボクシングの授業です。アルバイト先の昼休みをその時だけは多めにもらい、早稲田駅で下車をして体育館へ向かいました。職場にはいない自分と同世代の若者たちの中を歩くこの時だけは、自分も学生なのだと実感できたことを思い出します。

 

 授業に出席していると、講師を務めていたボクシングの監督から入部を勧められました。でも、入部どころではなかったのが現実です。出席もままならない状況では奨学金も打ち切られてしまう為、大学生活は1年で終わりだと覚悟していました。そして、その年の暮れには地元の公務員試験に合格し、採用通知も受け取りました。

「これで大学生活も終わりか……。ボクシング、もっと学びたかったな……」

 

 

 だけど、人生は何が起こるか分かりません。年が明け、退学届を持って大学の事務室へ入ろうとした時、掲示板の貼り紙が目に飛び込んできました。

【学生職員募集! 賞与年3回!】

「これなら働きながら大学へ通える。ボクシングも出来るかもしれない……」

僕はすぐに事務員と相談をして応募しました。そして、国際部という交換留学生に関する部署で採用をしていただけることになりました。辛くも大学生活を継続させられることになったのです。

 

 ボクシング部に入部したのは、大学2年生の秋でした。体育の授業で講師のアシスタントをしていた先輩が声をかけてくださったのがきっかけです。見学のつもりで練習を見に行くと、部員たちの真剣な姿に心の昂りを覚え、居ても立っても居られなくなりました。

「僕も彼らと一緒に練習したい……」

そんな気持ちを汲み取ってくれたのか、練習後に先輩から自己紹介をするように促されました。

「初めまして、やすらぎです。今日から……、よろしくお願いいたします!」

皆が万雷の拍手で迎え入れてくれ、この時、僕はやっと早稲田大学の一員となれたと思えました。

 

 

 

 それから時は流れて大学3年生の6月のこと……。ボクシング部の練習を終えて帰宅する途中、何故だか胸騒ぎがして、僕は駅の公衆電話から自宅に電話をかけました。今まで、そんなことは一度もなかったのに……。

「もしもし、やすらぎだけど……。お母さん、変わったことは何もない?」

「あぁ、やすらぎ! どうして電話をくれたの?」

「何だか胸騒ぎがして……」

「私は何ともないよ。だけど……、ニュースを観ていたら、お父さんがデパートの火災で亡くなったって……」

「えっ……………」

父は5年前に家を出てから音信不通で、何をして暮らしていたのかも分かりません。家族を残して出ていった父には、恨みや憎しみのような感情も少なからずありました。でも、この世にたった一人しかいない父親です。翌日、僕は新聞記事を頼りにして、一人で父の家を訪ねました。そこで目にした父の姿は、顔が真っ黒に変わり果てていて……。

「息子さんですか?」

「はい……」

「私は船橋にある東武百貨店の者です。お父様は当店で警備員の仕事をされていました。火災が発生し、消火活動に向かった火元のボイラー室で倒れ、一酸化炭素中毒で……」

「……………」

「お父様は本当に立派でした。身を挺して勇敢にお客様の救助活動をおこない、『行くぞ!』と現場へ向かい、消火器を抱えたまま……」

「お父さん……」

どうしてか涙は出てきませんでした。でも、それまで胸の中にあった憤りやわだかまりがすーっと消えていくのを感じました。もう恨みも憎しみもありません。今では父を尊敬しています。

 

 

 ボクシングは大学卒業後も続け、26歳になった時にプロボクサーのライセンスを取得し、後楽園ホールで試合をしました。当時は"みなし公務員"という立場でしたので、会社には言わずリングネームで活動をしていました。そして、その年の夏のことです。毎月購読していたボクシングマガジンの"読者の広場"に、こんな投稿が掲載されていました。

『私はボクシングが好きな20歳の女性です。ボクシングが真剣に好きな方、お手紙をください』

当時は女性のボクシングファンは珍しく、ジムに通う女性も少なかったので、僕はどのような理由でボクシング好きになったのかと興味が湧き、手紙を書きました。

 

 手紙のやり取りを重ねると、彼女の真面目さやボクシングに対する真摯な気持ちが伝わってきました。ただ、「会おう」などという気持ちは全くありませんでした。こちらからそのようなことを書いた時点で、せっかくの関係が終わってしまうと思ったからです。純粋にボクシングを愛する人との交流は、性別に関係なく貴重なもので、それを壊したくなかったのです。

 

 

 彼女と会うことになったのは、それから数ヵ月後のことでした。都内で妹さんと会う約束があり、「その前に少し時間があるので会いましょう」と連絡があったのです。待ち合わせ場所は、渋谷の109の入り口になりました。でも、お互いにどんな人なのか全く分かりません。僕からは「練習中のけがで右手にヒビが入っています。痛々しく包帯を巻いている人を見かけたら、そちらから声をかけてください」と伝えました。

 

 当日はドキドキしながら、キョロキョロしながら、待つこと10分。声をかけてきた女性を見て、僕は仰天しました。

「あっ、あのっ、やすらぎさんでしょうか?」

「はっ、はい!」

 

 

 彼女はまさかのパンクファッションだったのです。これから妹さんとパンクライブへ行くとのことでした。この日はカフェでお茶をした後に代々木公園を散歩しました。会話はあまり弾まず、「もう連絡はないだろう」と諦めた気持ちになったことを覚えています。でも、それからしばらくして長く熱い手紙が届き、お付き合いを始めることになったのです。

 

 僕は今でも彼女の地元へ初めて行った日のことが忘れられません。高崎駅で待ち合わせをして、彼女の車で群馬サファリパークへ行きました。サファリパークを出た後は駅へ戻るのだろうと思っていたのですが、そのまま駅を通り過ぎ、住んでいる家を教えてくれたのです。

「ここが私の家です……」

その家は僕が住んでいた借家と比べるのは失礼だとしても、決して立派だとは言えない木造の古い平屋でした。僕ならば、教えることを躊躇っていたと思います。事実、僕は自分の家を友達に見られるのが嫌でした。友達に「遊びに行ってもいい?」と言われた時は、適当な理由をつけて断っていたものです。だからなのか、彼女の内面にとても美しいものが見えた気がしました。「彼女は隠し事をしたり、自分を偽ったりしない人だ。彼女といれば、きっと僕も成長できる」、僕はそう強く思いました。彼女と結婚したのは、それから4年後のことです。

 

 

 

 さて、僕がマッサージ師になろうと決意したのは29歳の時です。社会人として働く日々の中で、ボクシング部の同期が大手商社を退職してマッサージ師になったと聞き、彼の仕事場を訪ねました。

「とってもラクになったわ。ありがとう!」

施術を受けたお客様が笑顔でお礼を伝える姿を見て感動しました。実は僕自身もボクシングの現役時代にマッサージを受けたことがあり、その仕事に興味を持っていたのですが、専門学校の授業料が400万円以上かかるということで断念していたのです。でも、この日、同期の彼から「思い切ってこの世界に入ってよかった」という話を聞き、自分も同じ道に進もうと決心しました。専門学校の面接試験の日、担当官の先生からいただいた、「人の痛みが分かる人がいちばん成功します」という金言は、僕のマッサージ師としての理念になっています。

 

 今年で治療室を開業してから20年が経ちました。来室される方にやすらいだ気持ちになってほしいという思いで、『やすらぎ治療室』と名付けました。開業してからしばらく経った頃に、女性のお客様が来室され、「ここは風水の先生に見ていただいたのですか?」と聞かれたことがあります。そのようなことは全くなかったのですが、「風水的にここはベストです。ものすごく良い気が流れています。この場所で、このままのレイアウトでぜひ続けてください」と言われました。後に知ったことですが、その方は有名な風水師の先生のもとで執筆をされているライターさんでした。確かに、開業祝いでいただいたお花が何年も枯れなかったり、観葉植物が勢いよく成長したり、また、自分自身もこの20年、一度も体調を崩すことなく仕事を続けられています。

 

 そんな良い『気』に導かれたのかもしれません。9年前の春、天から突然舞い降りてきたような天使、ミケちゃんとの出会いがありました。澄んだ瞳で真っ直ぐに僕たちを見つめるミケちゃん。ミケちゃんには何か特別なオーラを感じました。一途で健気なその瞳で、いつも多くのことを教えてくれている気がします。それは人間としてだけではなく、もっと大きくて深い、生きものとしてこの世界を生きる上で大切なことです。毎日更新しているミケちゃんのTwitterを通じて、その大切な何かを伝えていくことが僕の使命ではないかと思っています。

 

 

原文:冨森 猛  イラスト:青水あらた(フジヨシダ) 構成・編集:清掃氏

 

 

 

やすらぎ治療室のホームページはこちら!

 

ミケちゃんのTwitter

 

やすらぎ治療室のTwitter

 

青水あらたさんのTwitter

 

清掃氏のTwitter

 

 

拙著発売中です。

 

不器用な私でも簡単にみじん切りが出来ます。タマネギと格闘して涙を流すこともなくなりました。

 

 

 

あとがきとして

 

きっと人生は自分が思っているよりずっと短いものです。でも、そこには無限の物語があります。あなたが歩いてきた道やそこで見てきた景色を紡いでみませんか? 全力でサポートいたします!

 

清掃氏