見られて困るものはない。だが、見せたくないものはある。それは自分が困るからではない。見た人が良い気持ちにはならないと思うからだ。自分の過去は自分で断ち切る。そんなことを思いながら、俺はクローゼットの扉を開いた。

 

 ハンガーに吊るされた衣類の奥にあるダンボール箱の中には、捨てられずにしまっておいたものがたくさんある。隠していたのではないかと言われれば、そうなのかもしれない。手紙や写真、日記帳、昔の恋人からプレゼントされたもの……。もちろん、使えるものは使ってほしい。だが、残しても使い道のないものはこの手で処分する。

 

 片付けを始めると、しばしば手を止めてしまうことがある。それは"過去の自分"が語りかけてくるからだ。楽しかったよな、嬉しかったよな、苦しかったよな、悲しかったよな……。その声を無視するのは、なかなか難しい。声に出して返答はしないけれど、考え込んでしまう。この日もそうだった。

 

 

風薫る五月、街を歩くと色々な草花が咲きほこっています。仕事がんばっていることと思います。こちらは家族一同元気でがんばっています。            

もうすぐ待ちに待った給料日ですね。給料は先のことを考えて計画的に使ってください。とは言っても、あなたは請求書の額が給料を上回ってしまうのかと思うと残念でなりません。                                

少しずつでも出費を抑えて心身共にゆとりを持てるようになってください。    

 

 

 母からこの手紙を受け取ったのは、社会人になって間もない頃だ。俺は一人暮らしを始めていた。今思えば、同じ市内にアパートを借りる必要など何もなかっただろう。それでも実家を出たのは、人目を気にせずに女の子と話せる空間が欲しいとか、深夜に気兼ねなく外出したいとか、つまらない理由である。ただ、当時の俺は相当に困窮していた。遊んでいる余裕などないはずだった。

 

 それでも、見栄を張った、虚勢を張った。ブランド品を身に纏い、高級車を乗り回し、気に入った女の子にはプレゼント攻勢。家賃やショッピングローン、消費者金融への返済に追われ、母が言うように請求書の額が給料を上回っていた。どこかで借りてどこかへ返す、そんな自転車操業を繰り返していた。返済が遅れ、督促状が送られてきたことも一度や二度ではない。

 

 

 そんな生活を長く続けられるはずがない。そのうちに数百円のお弁当を買うことにも躊躇いを覚えるようになった。お金で人を繋ぎとめることは出来ても、自分の心、そして生活はどんどん疲弊していく……。それから一年が過ぎたある日、仕事から帰ると、また母から手紙が届いていた。

 

 新緑の山下公園を散歩してきました。私の姿が見えなくなるだけで泣いていた小さな頃のあなたを思い出します。                        

 仕事がんばっていますか? 昨日、あなたがお金を借りているサラ金から電話がありました。経済的欲望を抑えながらも、生活費に困るほどの借金があるのはどうしてなのですか? 私やお父さんが援助をすることも出来ますが、プライドの高いあなたはそれを許さないでしょうね。経済的生活力のないあなたがこれからどうやって生活していくのだろうと、毎日、不安と思案に明け暮れています。私の考えを押し付けるつもりはありませんが、親として、このように育ててしまったことを責めるのみで す。                                    

 先日、あなたが高校時代に家に連れてきたことのある香織さんを大船駅で見かけました。今のあなたのことを知ったら、彼女はどう思うでしょうか? あなたが人生の恩人だと慕っている彼女に今の自分を見せられますか?             

 一万円を同封します。一円でも出費が少なくなるように努力してみてください。これから傷つくことも悩みことも迷うこともあると思いますが、他人に迷惑をかけないように自分の力で克服していってください。そして、大きな人間になってください。

 先日は電話の声が暗かったので、少し心配しています。又、休息に来てください。

                                      

                                   母より

 

 

 手紙を読み終え、何日も自分に問い続けたことを覚えている。家族を苦しませ、大切な人を悲しませる人生で良いのか? 今の自分に誇りを持てるのか? このまま人生を終えても後悔はないのか? どれも答えは『No』だった。だから、俺は車も時計もスーツも売った。仕事も辞め、少ない退職金を借金の返済に充てた。母の言葉通り、他人に迷惑をかけず、自分の力で"整理"できた気がする。一人で北海道へ渡ったのは、それから数ヵ月後のことである。

 

 

 

 さて、話をダンボール箱の中身に戻そう。一通ずつ手紙に目を通していると、不意に部屋の扉が開き、次女が入ってきた。

「お父さん、何をしているの? わぁ、お手紙がいっぱい! 郵便屋さんごっこしよう!」

「あっ、いや……、その手紙は……」

「私が郵便屋さんになってお母さんに届けてくる!」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って!」

次女は俺の制止を聞かず、母から届いた手紙を持って部屋を出ていった。

 

 

 慌てて次女を追いかけていくと、手紙は妻に"配達"されていた。何やら神妙な顔つきをして文字を追っている……。

「あっ、いや……、その手紙は……。隠していたわけじゃなくて……」

「大変だったんだね……」

「いや、それはですね、若気の至りといいますか……」

「あはは、どうして敬語になっているの? 私、知っていたよ。結婚する前にお義母さんが教えてくれたから……」

「そっ、そうなんですね」

「あなたが色んな私を、全部の私を受けとめてくれたように、どんなあなたも私が好きになった人だから……。いつも私を大切にしてくれて、結婚してくれて、ありがとう」

「あっ、いや……、こちらこそありがとうございます」

「でも、どうしてこんな昔の手紙を読んでいたの?」

「いや、それは……」

生前整理をしていただなんて言えるわけがない。だが、妻は感じ取っていたようだ。

「残しておきたくないもの、あるよね。だけど、あなたの過去を知ったからって、私たちが出会ったことやこうして夫婦になったこと、かわいい子どもたちがいる今が変わるわけじゃない」

「それはそうだけどさ……」

「私は何も知らないままでいる方が悲しい。だって、あなたはこの世に一人しかいない私の夫で、私は世界で一人だけのあなたの妻だから……」

「妹子(妻の名)……」

 

 

思い切り妻を抱きしめたくなったが、次女がいるので我慢した。

「んっ、あれ? 二子ちゃんは?」

ふと周りを見渡すと、すぐそばに居たはずの次女の姿が見えなくなっていた。耳を澄ますと、一階からガサガサと音がする。きっとタンボール箱の中を見ているのだろう。俺は次女のもとへ行き、こう話しかけた。

「二子ちゃん、この箱の中にはさ、お父さんの大切な過去が入っているんだ。本当は捨てようと思っていたんだけど、しまっておくことにするよ。いつかお父さんがいなくなったら、お母さんとお姉ちゃんと三人で開けてみてね」

 

 

文:清掃氏 絵:似顔絵師きえ

 

 

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散歩のお供です。9000歩だったらあと1000歩……、いつもより多く歩くようになりました。激しい運動はできませんが、現在の蓄積が未来を形成していくのだと思い、日々歩いています。