カチッ、カチッ……。いや、ドクン、ドクン……。誰の胸にも時計がある。その針が刻む時間は永遠ではない。医師が修理をして少しだけ長く動かすことは出来るけれど、いつか必ず止まってしまう。もしも1ヵ月後に止まってしまうことが分かっていたら、何をするだろう。開き直って豪遊をするか、出来る限り多くの友人に別れを告げに行くか、それともただじっと空を眺めているか……。どれも正解で、どれも間違いではない。ただ、大切なことは何をするかではなく、どう生きるかだと思う。

 

 

 

 2月末、俺は自宅へ戻った。入院中に退職手続きを進め、もう仕事へ行く必要はない。だが、子どもたちには横になっている姿ばかりを見せたくないし、そんな毎日を続けていては気も滅入ってしまう。当初は図書館や映画館に足を運んでいたが、安閑としている自分に疑問を覚えるようになった。俺、抗っているか? 削られていく命をただ眺めているだけじゃないか? 限りある時間をこのまま終えて思い残すことはないのか?

 

 ただ、すぐには出来ることが思い浮かばなかった。体調が安定せず、また、治療の為に通院することも少なくなく、毎日働くのは難しい。納期のある内職やシフト制の仕事も迷惑をかけてしまうことがあるだろう。もう社会に貢献できることは何もないのか? 一面に広がる雪原で途方に暮れ、一人で立ち尽くしているような気持ちになった。

 

 

 毎日、飽き足らずに降り続く雪……。その雪で埋まってしまう通り道……。ある朝、目が覚めてカーテンを開けると、降り積もった雪をスコップでかき分けている妻の姿が見えた。申し訳なさと悔しさが幾重にも交錯していく。俺はたまらずに窓から顔を出して声をかけた。

「おはよう……。一人でやらせちゃってごめんね」

「大丈夫! 道くらい私だって作れるよ」

道くらい……。妻に教えられた気がした。そう、道は自分で切り拓くものなんだ。真っ直ぐじゃなくたって、デコボコだって、いいじゃないか! 俺にだって、道くらい作れるはず。この日から、俺は自宅だけではなく、近所に住む高齢者の家の除雪を手伝い始めた。もちろん、報酬などはない。だけど、心地良い汗を流せて、そして何よりも「ありがとう」と言ってもらえることが嬉しかった。こんな俺でもまだ誰かの力になれるんだって……。

 

 

 綺麗事かもしれない。自己満足かもしれない。偽善だと言う人もいるかもしれない。だが、そうだとしても非難される覚えはない。毎日は出来なくて、週に一度だけのこともあったけれど、俺は道を作り続けた。そして、雪解けが進んだある日のこと……。

「ねぇ、あなた、久しぶりに街へ行かない? 炊飯器の調子が悪いから、新しいものを買おうかなって……」

「うん、いいよ」

俺は妻と二人で街にある大きな家電量販店へ足を運んだ。炊飯器は数千円から十万円超えのものまであり、簡単には決められない。

「いっぱい種類があって迷うね」

「そうだね。でも、妹子(妻の名)がいいなって思ったものを買いなよ。あっ、ちょっとトイレへ行ってきていいかな」

俺はフロアの案内図を見てトイレへ向かった。中に入ると、清掃員が洗面台の鏡を拭いていた。

 

 

「んっ? あれ? さっ、サブさん(【純情見習い編 第11話 トイレの神様】参照)ですか?」

「あれま! 清掃氏さんじゃないかい!」

「おっ、お元気そうですね! 今はこのお店の清掃をしているんですか?」

「駅は広いから体がきつくなってきてね……」

「そっ、そうですよね。ご無理をなさらないでくださいね」

「会長さんとは連絡を取っているのかい? 今はサービス付き何とかっていうホテルみたいな高齢者住宅で暮らしているよ。コロナで中には入れないけれど、電話をしたら飛んで出てくるんじゃないかい?」

「あっ、いや……、飛んで出てこられても……。ちょっと体調を崩して入院をしていたので、しばらくご連絡はしていませんでした」

「もう大丈夫なのかい?」

「あっ、いや……、まぁ、何とか……」

まさか余命宣告を受けたなんて言えるわけがない。俺は妻が待っていることを告げて、トイレを出ようとした。

「ほれっ、会長さんに電話をかけてみなさい。1って所をを押すと繋がるよ」

「ワンタッチダイヤルの1番が会長なんですね……」

断り切れずに"1"をタップして耳に当てると、婆さんは呼び出し音が鳴る前に応答した。

「アタシよ!」

 

 

「はっ、早っ! 電話に出るのが早過ぎませんか? 常に待機しているんですか?」

「あん? その声は清掃氏さんね。あんた、入院していたんだってね」

「よっ、よくご存知で……」

「ババアのネットワークをナメちゃダメよ!」

「いっ、いや……、ナメてはいませんけれど……」

「今はサブさんの所にいるのね。ハイヤーを呼んで、スグに行くわ」

「いっ、いや……、今日は勘弁してください。妻と買い物中なんですよ」

「デートの邪魔をしちゃ悪いわね。あんた、明日は家にいるの?」

「はっ、はい……」

「お邪魔してもいいかしら?」

「だっ、大丈夫です……」

「じゃあ、ちょっとサブさんに代わってくれるかしら?」

「はっ、はい……」

電光石火? 疾風迅雷? 何だか訳の分からないうちに婆さんがやって来ることになった。いや、そんなことよりも早く妻のもとへ戻らなければ……。サブさんが気を利かせて外へ出てくれたので、俺は用を済ませてトイレを後にした。

 

 

 翌日、いつもより時間をかけて通り道を作っていると、黒塗りのタクシーが目の前に停まった。

「ごっ、ご無沙汰しております!」

「あんまり顔色が良くないわね……」

「どっ、どうぞ家の中へ……」

「これから病院だから立ち話でいいわ。今日はあんたに仕事を紹介しに来たのよ。その様子だと毎日働くのはしんどいんでしょ?」

「あっ、いや……」

婆さんは俺の病気のことをどこまで知っているのだろう。ただ、そのお話はありがたかった。傷病手当金にも受給期間があり、いつまでも受け取れるものではない。

「アタシが住んでいる老人ホームの清掃を欣ちゃん(【純情見習い編 第19話 AKB】参照)の会社がやっているの。調子がいい時だけでも働いてみたらどうかしら? その気になったら、欣ちゃんに電話してみなさい。会社の電話番号は覚えているわよね? 欣ちゃんね、あんたが辞めた後もずっと気にかけていたわよ」

「本当にありがたいことです。でも、俺はもう……」

「あんたさ、アタシより先にあの世へ行こうなんて神様が許さないわよ。生きていれば、怪我をすることだって病気になることだってあるわ。思うように生きられなくて悲観的になってしまうこともあるわよね。でもね、どんな時も希望だけは絶対に捨てちゃダメよ。知恵と知識、そして経験、時には神頼み、あらゆるものを総動員して抗い続けるのよ。幸せな未来が望めると思い続けて生きること、それが道を切り拓くってことよ!」

「かっ、会長……」

「じゃあね、あんたが来るのを待っているわよ!」

 

 

 それから数ヵ月、俺はまだ婆さんを待たせたままだ。寝たきりで一日が終わってしまうことも少なくない。だけど、寿命時計はしっかりと動いている。

 

 

文:清掃氏 絵:清掃氏・似顔絵師きえ

 

 

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