遡ること2ヵ月、降り積もった雪に覆われていたアスファルトが少しずつ顔を出してきた3月の初めことだ。昼食を食べ終え、利用者と雑談をしていると女性職員が話しかけてきた。彼女たちは俺よりもずっと年が若いが、長く福祉の世界で働いている先輩たちである。

「清掃氏さん、ちょっといいですか?」

「はい、何でしょうか?」

何やら不機嫌そうな顔をしている。作成した書類に間違いでもあったのだろうか。そうだとしたら、真摯に詫びる他はない。

 

 

「清掃氏さんにとって優しさとは何ですか?」

「えっ、優しさですか? 難しいことを聞きますね……。俺は、いや、私はこれまで福祉とは畑違いの仕事をしてきたので、皆さんのように専門知識は持ち合わせていませんが、損得を考えず相手の為に接することですかね……」

「それは出来ていますか?」

「出来ているか出来ていないかは分かりませんが、そうしているつもりです」

「……全然できていませんよ」

「えっ……」

「優しい言葉をかけること、出来ないことを手伝うこと、それは正しい優しさではありません。私たちの仕事は利用者の障がいや病気をしっかりと把握して、その人が社会で生きていく為に本当に必要なことを共に考えていくことなんです。清掃氏さんの優しさは本人の為になっていますか?」

「いや、おっしゃりたいことは分かりますし、その通りだと思います。ですが、職員が全員その理屈通りに働いていたら、ただ息苦しいだけの場所になってしまいませんか? 私が利用者だったら、そんな就労支援事業所には通いたくありません」

「理屈じゃなくて道理です。清掃氏さんのお考えはよく分かりました。これからも仕事を続けていくなら、正しい優しさと本当の福祉を学んでください」

彼女たちはそう言い残すと、口を真一文字に結んでフロアを出ていった。正しい優しさって何だ? 本当の福祉って何だ? 教科書に書いてあることが絶対的な正義か? 言い返したいことはたくさんあったが、俺は言葉を飲み込んだ。

 

 

 気にしなくていい、そう言ってくれる上司や同僚もいた。だけど、俺はそれが出来ない心の弱い人間で……。遣う必要のない気を遣って心が疲弊していく、そう言えば分かりやすいだろうか。思い返せば、いつもそうだった。自分の言動によって不快な思いをしている人間がいるのだと思うと、そこにいてはならない気がしてくる。他の誰かに嫌な思いをさせたくないし、自分自身も嫌な思いをしたくない。だから、意見をぶつけ合うこと、人と向き合うことから、逃げながら生きてきた。

 

 だけど、そんな日々が続くと、決まって顔の見えない誰かが現れ、夢の中に言葉を残していく……。

── お前の優しさは間違えている……。 いい人だと思われたいだけじゃないのか? 本当は誰かを守りたいんじゃなくて、自分を守る為の優しさなんだろ? ──

 

 

 

「あなた、昨夜もうなされていたよ。辛いことがあるなら、一人で抱え込まないで話してね」

「いや、大丈夫だよ。ちょっと疲れているだけだと思う」

「それならいいけど……。子どもたちが何度も目を覚ましてしまって……」

毎晩のようにうなされている父親を見ていたら、子どもたちは不安になるだろう。そんな姿は見せたくない。いつも笑っていてほしい。

「そっか……、ごめんね。今夜から一人で寝るようにするよ。子どもたちが寝不足になったら大変だからさ」

「あなた……」

妻には何も話せなかった。心配をかけたくなくて、家では明るく振る舞った。だけど、しばらくすると、毎晩深夜に目が覚めて眠れなくなり……。中途覚醒というのものだろうか。睡眠不足が続くと、思考力が低下し、感情表現が乏しくなっていく。それまで5分で仕上げられた文章が1時間かかっても書けなくなった。些細なことで笑ったり、和んだり、いつも心を揺らしていた自分がどこかへ消えてしまった。

 

 

 それでも、仕事は休まなかった。こんな俺を慕ってくれる人も、頼ってくれる人もいる。そんな人たちを見捨てたくない。

「清掃氏さん、最近元気がないけど大丈夫ですか?」

 

 

「清掃氏さん、何か悩み事でもあるんですか?」

 

 

「清掃氏さんが落ち込んでいる姿を見ると悲しくなります」

 

 

彼ら彼女らは人の心を敏感に汲み取る。障がいの特性がそうさせるのか、それとも健常者と言われる人間よりもずっと繊細な心を持っているからなのか……。そして、この人も……。

「あんた、最近すっかりと口数が減ったわね」

 

 

「あっ、いや……、まぁ、色々ありまして……。会長はいつも元気で羨ましいです。あっ、今日は見慣れないものを飲んでいますね。ばあちゃんの初恋檸檬ドリンク??」

「孫がカマゾンで買って送ってくれたのよ」

「カマゾンじゃなくてアマゾンです……」

「どっちでもいいのよ。あんた、何だか疲れた顔をしているわ。今の自分を初恋の人に見せられる?」

「あっ、いや……、初恋の人は関係ないんじゃ……」

「大アリよ! アタシの言い方が悪かったわ。あんたが初めて恋した相手じゃなくて、初めて恋した相手があんただった人よ! 奥さんの……、 妹子さんの……、辛そうな顔が目に浮かぶわ。でも、あんたのことだから家では作り笑いを浮かべて強がっているんでしょ……」

「……………」

「人生なんて色々あって当たり前で、色々ない人生なんてないわ。優しさ……、難しいわよね。その人がいるから立ち上がれる、その人がかけてくれた言葉が一歩踏み出す勇気に繋がる、その人が笑ってくれるから明日も生きようと思える、そんなふうに心地よい優しさがあれば、子どもを叱るように相手が顔をしかめてしまう優しさもあるわよね? でもね、アタシは思うの。その優しさに救われている人がいるなら、どんな優しさだっていいじゃないの。正しいとか間違えているとか、第三者に批評されて使い分ける優しさに心があると思う? アタシはそんなものクソ食らえよ」

 

 

「かっ、会長……。誰かに聞いたんですね……」

「風の便りよ。余計なお世話だとは分かっていたけど、妹子さんにも電話しておいたわ。一緒に病院へ行ってあげなさいって……。眠れないんでしょ? あんたはまだ2時とか3時に起きる年齢じゃないわ、ガハハハハ」

 

 

 

 この日の夜、子どもたちが眠ると、妻が"俺の寝室"に入ってきた。

「また家族みんなで眠れるようになるといいね」

「そうだね……」

「子どもたちがお父さんと一緒に寝たいって寂しがっているよ。私だって同じ……。そうだ、今日は二人で寝ちゃおっか?」

「いや、夜中に二子ちゃん(次女)が目を覚ましたら、お母さんがいないって泣いちゃうから……」

「娘子(長女)に言われたの。二子ちゃんのことは私に任せて、お母さんはお父さんと寝てあげてって……」

「泣かせるなぁ……」

「あなたに似て優しい子だから……。もっと早く隣に来てあげられなくてごめんね」

「いや、俺の方こそ話せなくて……、一人で閉じこもってしまってごめん」

「ううん……、私はずっとあなたの優しさに救われてきたよ。清掃員の仕事を始めた時も……、母と私を置いてけぼりにしていなくなっちゃった父と再会する時も……、保護者のお母さんたちが怖くなって小学校の先生を続けられなくなった時も……、本当にいつも……、出会ってからずっと……」

「妹子……」

 

 

 それから数日後、俺は妻に付き添われて心療内科へ行った。診察の結果は抑うつ状態……。今も薬を飲んでいる。だけど、顔の見えないアイツが夢に現れることはなくなった。次に出てきた時は、こう言ってやろう。

── 間違えたって……、間違えていたっていいじゃん。教科書に書いてある正解だけを辿っていく人生に喜びを感じられるか? そこに心はあるのか? 俺は計算機になんてなりたくない。この優しさを必要としてくれる人だっているんだ。それも一つの答えじゃないか? ──

 

 

文:清掃氏 絵:清掃氏・ekakie(えかきえ)コムギ

 

 

 

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