嬉しくて笑う、怖くて震える、そして悲しい時には泣く。どれも自然なことである。もちろん、感情を抑えなければならない場面もあるが、それは他の誰かにコントロールされるものではない。人間であっても、動物であっても、それは少しも変わらないだろう。

 

 

 肌寒さを覚える朝の冷たい空気に肩をすぼめながら出勤したある日のことである。コンビニで買った温かな紅茶を片手に詰所の扉を開けると、若者たちがタブレットの画面を観て、にこにこと笑っていた。

「霧子さん、空くん、おはよう。何を観ているの?」

「清掃氏さん、おはようございます。犬や猫の動画です。可愛いですよね」

「どれどれ…、これは癒されるね」

 

 

三人で微笑んでいると、婆さんが詰所に入ってきた。

「あっ、会長、おはようございます。もうすっかり秋ですね」

 

 

「寒くて腹巻をしてきたわ。あんたたちもお腹を冷やさないように気を付けるのよ」

「はい、ありがとうございます」

「そのテレビみたいなので何を観てるのよ?」

「あっ、いや…、これはテレビではなくてですね…。観ているのはワンちゃんとネコちゃんのおもしろ動画です。会長は犬派ですか? それとも猫派ですか?」

「あん? ツルハはまだ開いてないわよ」

「そっ、そうですね…、まだ7時前ですから…」

若者たちは大笑いしていたが、俺は敢えてツッコミを入れなかった。婆さんは犬派でも猫派でもなくてツルハ、いや、鶴派ということで特に問題はないだろう。このすっとぼけぶりが若者たちの心を掴んで離さない理由だと思う。俺はその天真爛漫さが羨ましい。

 

 

「ほらっ、ゴミ出しに行くわよ」

「あっ、はい。霧子さんと空くんは着替えたら事務所の床清掃の準備をしておいてくれるかな?」

「はい、分かりました」

「よろしく!」

俺は若者たちにワックスがけの準備を頼み、婆さんと塵芥庫(じんかいこ = ゴミの保管場所)へ向かった。大した量ではないが、僅か一日で家庭の数週間分のゴミが溜まる。そして、そのほとんどは外部から持ち込まれたゴミである。この事実は多くの人に知ってもらいたい。

 

 

 

 

 さて…、台車で運んだゴミを集積場所に降ろしていると、犬の散歩をしている女性の姿が目に入った。ここ最近、よく見かける。

 

 

「会長、いつものワンちゃんが来ますよ」

「ポチが来たのね」

「えっ、ポチっていう名前なんですか?」

「知らないわ。でも、アタシはポチだと思っているの」

「そっ、そうなんですね。また吠えられますかね…。俺たちに敵対心でも持っているのかと…」

 

 

「違うわ。敵対心じゃなくてアタシたちが怖くて吠えているのよ。大きな袋(ゴミ)を積み上げていて、得体の知れない生き物に見えるんじゃないかしら」

「なるほど…、確かに得体は知れない老婆…」

「あん? ロバがどうしたって?」

「あっ、いや…、あれ…? 今日はおとなしいですね」

いつもなら大きな声で吠えてくるのに、この日は一瞬ビクッと身体を震わせると静かに近付いてきた。飼い主が上手く躾けた(しつけた)のだろうか。

「おはようございます。ワンちゃん、お利口になりましたね」

俺は女性にそう声をかけた。ワンちゃんはどこか怯えたような表情をしている。

「いつも吠えちゃってすみません…。それで…、これを買ったんですよ」

女性はポケットから小さなリモコンを取り出して見せてくれた。

「それは何ですか?」

「電気ショックを与えられるんです。このボタンを押すと、ビビビッと首輪に電流が流れて…。もう本当に効果絶大で…」

俺は返す言葉を見つけられなかった。これは躾(しつけ)とは言えないだろう。恐怖による支配でしかない。ワンちゃんの感情を電気ショックという恐怖で押さえつけているだけだ。もちろん、飼い主は藁(わら)にも縋る思いで購入したのかもしれない。だが、他に方法はなかったのだろうか…。

 

 

「ちょっとあんた、自分の首にそんなものを付けられたらどう思うのよ? ポチがこんなに怯えちゃってるじゃないの…。大丈夫、怖くないわよ」

婆さんが座り込んで頭を撫でると、ワンちゃんは嬉しそうに尻尾を振った。

 

 

「ウチのコの名前はポチじゃありません。それと…、私は人間なので言葉が通じます。だから、首輪を付けられることなんてありません」

「分からない人ね…。ワンちゃんだって名前を呼べば振り向くじゃないの…。言葉の意味は分からなくても、そこに込められた思いは伝わるのよ。アタシはそう思うわ」

俺もそう思う。人間の赤ちゃんだって言葉は分からなくても、親の愛はしっかりと伝わる。泣き止まないからといって、電気ショックを与える親がいるだろうか。いたとしたら、それは虐待以外の何物でもない。

「もっ、もう行きます。この道はもう…、二度と通りません。ご迷惑をおかけいたしました」

女性はリードを強く引き、来た道を戻っていった。婆さんの言葉が、いや、思いが伝わったのかは分からない。だが、一つだけ確信できたことがある。それはワンちゃんには婆さんの思いが伝わったということだ。大切な人との別れを惜しむように、何度も後ろを振り返った"ポチ"の姿が俺は忘れられない。

 

 

文:清掃氏 絵:清掃氏・娘子・ekakie(えかきえ)

 

 

 

↑次回のお話です。

 

 

拙著発売中です!