そのこだわりは、理解されないかもしれない。その思い入れは、共感されないかもしれない。それでも、人には大切にしているものがある。たとえそれが、自分以外の誰かには、気にも留められないちっぽけなものであったとしても…。


 それはある休日の午後のことである。コンコースの床清掃をしていると、ベンチの下に小さなぬいぐるみが落ちていた。薄汚れていて、縫い目が解れていて、ゴミとして処理をするのが妥当だと思われる状態だ。だが、俺は捨てられなかった。

「お願いです、捨てないで下さい。僕を大切にしてくれる人がいるんです。迷惑はかけません。もう少しだけ…、待たせて下さい」

そんなふうに訴えられ、語りかけられた気がしたのだ。




 俺はぬいぐるみを拾い上げ、清掃用具室の棚に座らせておいた。それを目にした婆さんが言った。

「あら、可愛いねぇ」

「ベンチの下に落ちていたんですよ」

「落としちゃったのかしらねぇ。それとも、誰かが拾ってくれると思って置いていったのかしら…」

「ぬいぐるみって捨てにくいですよね。何だか、かわいそうで…」

「顔に似合わず優しいわねぇ」

「いっ、いや…、これでも昔はぬいぐるみがたくさん並んでいるお店の店長をしていたこともあるんですよ。自分でも似合わないと思っていましたけれど…」

「あら、それは初耳ね。どんなお店だったのかしら?」

「オリジナルのキャラクターショップみたいなお店ですよ。札幌にもありますし、ほとんどの都道府県にあると思います。自分のお店で買った大きなアザラシの抱き枕を、今でも使っています。ふわふわしていて気持ちいいんですよ」

「アタシも欲しいわ」

「いっ、いや…、何だか尋常ではない悪寒が…」

「きぇぇぇぇい」




 それから一週間が経った頃だろうか。ぬいぐるみが落ちていた場所のベンチを清掃していると、手を繋いだ親子が歩いてきた。

「すみません…、先週の日曜日だと思うんですけど、ぬいぐるみの落とし物がありませんでしたか? ボロボロだったんで、もしも捨てられてしまっていても仕方がないものなんですけど…」

「クマのぬいぐるみですか?」

「そっ、そうです! まだありますか?」

「もちろん、ありますよ。ベンチの下に落ちていましたので、拾っておきました。お持ちいたしますので、少々お待ちいただけますか?」

「はっ、はい! ありがとうございます! ヒデキくん、良かったわね、お兄さんが拾っておいてくれたって!」

「うっ、うん!」


 俺は清掃用具室へぬいぐるみを取りに行った。婆さんが手入れをしたので、拾った時よりも綺麗な状態になっている。親子の下へ戻り、ぬいぐるみを手渡すと、男の子は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「本当にありがとうございました。綺麗に手入れまでして下さって…。この子、男の子なのにぬいぐるみが大好きで…。このぬいぐるみがないと眠れないって、夜になると泣いていたんです。それで、先週立ち寄った場所を順番に回っていたところなんです」

「お兄ちゃん、ありがとう!」

「クマちゃんも自分のおうちに帰れるって喜んでいると思うよ」

「うん!」




 別れ際、男の子が手にしたぬいぐるみと目が合った。そして、言葉を投げかけられた気がした。

「拾ってくれて、綺麗にしてくれて、本当にありがとうございました。僕を救ってくれた清掃員の皆さんのことは、決して忘れません。僕は僕の大切な人をこれからも見守り続けます。皆さんも、大切な人を、大切なものを、いつまでも守ってあげて下さい。どうかお元気で…、さようなら……」


 この日の夜、俺は部屋の本棚に立てかけてあるぬいぐるみを久しぶりに手に取った。男の子の下へ戻ったぬいぐるみと同じ、クマのぬいぐるみである。幼い頃、泣き虫で友達と遊ぶのが苦手だった俺に、母が買ってくれた大切な『友人』だ。年月が経ち、俺の頭に白い髪が混じってきたように、『彼』もだいぶ色褪せた。だが、思いは、思い出は、いつまでも色褪せない。


  誰にでも大切なものがある。それはもしかしたら、他の誰かに一笑に付(ふ)されてしまうものかもしれない。だが、俺はそれでもいい。笑われたって、馬鹿にされたって、俺は大切なものを大切にしたい。そして、他の誰かの大切なものを感じ取り、思いやり、守ることのできる人間でありたい。