ここ札幌も暑い日が続いている。熱中症予防の為にも、こまめな水分補給は欠かせない。それに託(かこつ)け、婆さんたちも頻繁に姿を晦(くら)ます。ほんの数分前に目の前の階段を掃き始めたばかりなのに、気が付けば休憩室にWARPしている。それは、空間を歪曲しているかのような超高速移動である。
※変身シーンではありません。WARPのイメージです。
そんなある日の事である。婆さんたちと水分補給を兼ねて一息ついていると、勢いよく休憩室の扉が開いた。
「にっ、西国原(にしこくばる)係長…」
「皆さん、また休憩ですかぁ」
「もっ、申し訳ございません。喉が渇いたので…」
「それは仕方ありませんが、仕事はきちんと終わらせて下さいねぇ。本来の休憩時間以外に休んでいるのですから、時間内に終わらなかったら残業ですよぉ。無駄な残業代を発生させないで下さいねぇ」
彼はつい最近この現場の担当者になり、発注した資材(洗剤等の消耗品)の手配や勤怠の管理をしている。いわゆる事務方の人間で、清掃の実務は未経験である。それ故に、なかなか理解していただけないことが多い。
「係長さん、モップの毛先がぼろぼろになってきたから、替え糸を頼めないかしら?」
婆さんがこう言うと、彼は面倒な顔をしながら答えた。
「はぁ? 先月も頼みませんでしたっけぇ? 使い方を間違えているんじゃないですかぁ?」
「アタシたちは手入れもきちんとしているし、大切に使っているわよ。だけど、毎日使っているんだからねぇ…」
「はぁ? ボクがね、言っていることはそういうことじゃないんですよ! 大切に使っているかどうかじゃなくて、使い方を間違えているんじないかってこと! 分かりますぅ? まったく…、清掃員てのは……」
「じゃあ、係長さん、正しい使い方を教えてくれるかしら?」
「ボッ、ボクを馬鹿にするつもりですかぁ? ボクはねぇ、皆さんを管理するのが仕事なんです! ボクの仕事は掃除をすることじゃありません!」
「きぇぇぇぇい!」
婆さんが奇声を発したその時である。再び休憩室の扉が勢いよく開いた。
※画像はイメージです。実在の人物とは一切関係ありません。
「きっ、北大路会長(【第19話 AKB 】参照)! こっ、こんなところにまで来られるのですかぁ?」
先程まで悪態をついていた人間は跡形もなく消え去り、彼は直立不動の姿勢になっていた。
「私はね、全ての現場を回っているんだよ。現場にこそ、たくさんのヒントがあるんだよ」
「そっ、その通りでございますぅ! 私も清掃員の皆様から勉強をさせていただいておりましたぁ!」
「私もね、若い頃はここで清掃員として働いていたんだよ。今日はね、階段の掃き掃除でも手伝っていこうかと思ってね」
実際に作業をするか否か、技術があるか否か、そのようなことは関係がない。その気持ちが嬉しいのだ、その気遣いが人の心を掴むのだ。
「西国原くん、キミもやっていくかね? 清々しい気持ちになれるはずだ」
「はっ、はぃぃぃぃぃ! そのつもりでおりましたぁー!」
「西国原くん、清掃員が綺麗するものは何かね?」
「けっ、契約した清掃場所の全てですぅ」
「それだけかね?」
「あの…、えっと…、そのですね……」
「明日の朝、出勤するまでに考えておきなさい」
「はっ、はぃぃぃぃぃ!」
「ところで…、キミは私が入ってきた時に『こんなところ』と言った気がしたが…」
「いっ、いえ、それはですね、本社から遠く離れたこのような場所にまで足を運ばれておられる…、そのような意味で申し上げましたぁ」
「キミにとって、会社にとって、清掃員とはどんな存在かね?」
「せっ、清掃員の皆様は会社にとっての宝でありますぅ。清掃員の皆様がいて下さるからこそ、会社が成り立っておりますぅ」
「それならいいが…、言い争っているような声が聞こえたのは、私の空耳かね。私の先輩でもあるこちらの皆様に、後でゆっくりと話を聞いておくよ」
婆さんたちは彼を貶めるようなことは何も言わなかった。だが、北大路会長は何かを感じたのだろう。彼は担当を外れ、ここではない他の現場で清掃員として修業を積んでいる。
清掃員が綺麗にするもの…、それは物や場所だけではない。清掃の行き届いた美しい空間を提供することで、人の心を綺麗にすることもできる。そしてそれは、自分自身も例外ではない。綺麗な空間を見ると気持ちが良い、自分が綺麗にしたのだと思うともっと気持ちが良い、その空間を目にして清々しさを感じてくれる誰かがいたら、もっともっと気持ちが良い。清掃員は、自らを磨き、人の心を清めることのできる職業である。