はじめに

・レポートのタイトル「遠からず離れて」について

ここではテキストである絲屋版管野須賀子についての詳細なレポートをするのではなく、近年の管野須賀子論を踏まえたものをレポートした方が、いいだろうと判断した。つまり、絲屋版管野須賀子を読んでいることを前提にして、また少なくとも須賀子に対するあらかた知っている先入観を前提に、レポートした方が、実り多きものになるのではいか。そんな思いから「遠からず離れて」と附けた(「遠く」は離れていない)。

 

・次に「道艸」については、目的地に向かうための寄り道という意味ではなく、須賀子の生涯という道端に生えているもろもろの事柄(艸)という意味で附した。勿論、須賀子の認めた「死出の道艸」から拝借したのだが、須賀子は前者の死出に向かうための寄り道という意味から使用したものであり、私がここで使う言葉とは意味が違うことを断っておきたい。

 

・レポートするに当って管野すがを戸籍名の「スガ」でなく、彼女自身がつねに署名し、また当時の友人・知人間でも知られ呼ばれていた「須賀子」で呼ぶことにする。当時の女性たちは物書きの筆名でなくとも、戸籍名よりも好んだ文字でみずから署名することが多かったようである。

 

・絲屋版菅野須賀子は、執筆当時の社会主義に目覚めるまでの須賀子の一次資料が少なく、荒畑寒村や関山直太朗などの二次資料を基にして書かれていることから今日の時点から須賀子の実像にはなかなか迫りきれないというウィークポイントがあることは否めない。にも拘らず、須賀子という人間に深い愛情に満ち、その歴史的役割を正当に評価し伝えようと努力されている。明治の時代に激しく生きた女性革命家の姿に深い感銘を読者にもたらすものとなっている。

 

管野須賀子の年譜

・清水卯之助著『記者・クリスチャン・革命家 管野須賀子の生涯』掲載の年譜(『管野須賀子全集』3弘隆社刊)を参照した。

明治14(1881) 1歳

6月 7日 大阪市北区絹笠町に生れる。「すが」と命名。父義秀33歳、母のぶ25歳の長女。

明治17(1884) 4歳

6月10日 弟正雄(四男)出生。

明治19(1886) 6歳

今橋小学校へ入学(四年制)。

明治20(1887) 7歳

2月25日 妹ひで(次女)出生。

4月 高台小学校(西区南堀江下通2丁目)へ転校。

明治21(1888) 8歳

東京市麻布区三河台町33番地へ本籍を移す。麻布小学校へ転校(二年生)。

明治22(1889) 9歳

赤坂区丹後町72番地に移籍。赤坂小学校へ転校(三年生)。 

明治23(1890) 10歳

12月19日 帰阪、北区天満橋筋2丁目208番屋敷に移籍。滝川小学校へ転校(四年生)。

明治24(1891) 11歳

3月 滝川小学校卒業

4月 (えい)(しん)高等小学校分校(四年制)に入学。

5月 北区臼屋町86番屋敷に移転。

明治25(1892) 12歳

11月12日 母のぶ病死(36歳)。盈進高等小学校を二年生で中退、弟妹の面倒を見る。

12月10日 北区松枝町58番屋敷に移転。

明治26(1893) 13歳

継母(年齢、氏名ともに不明)入り込む。

明治27(1894) 14歳

2月13日 愛媛県西宇和郡()(づち)村イ214番戸に転籍(父の鉱山業に伴う)。

明治28(1895) 15歳

3月6日 大分県大野郡長谷川村256番地に転籍。

9月 竹田尋常高等小学校補習科へ入学。

9月6日 大分県直入郡豊岡村54番地に転籍(この時から「すが」「ひで」が、「スガ」「ヒデ」に変更。戸籍法改正か)。

明治29(1896) 16歳

1月20日 大分県直入郡竹田町875番地に転籍。

3月31日 竹田尋常高等小学校補習科卒業。

7月25日 次男益男大阪で病死(21歳)。須賀子帰阪し止まる。

明治30(1897) 17歳

9月25日 大阪府西成郡豊崎村大字本庄小字ボタロ111番屋敷に転籍、父帰阪。

10月5日 同地で祖母りゑ病死(78歳)。

明治31(1898) 18歳

自活のため上京。京橋の看護婦会に入り、見習修業。

明治32(1899) 19歳

9月7日 東京市深川区東六間堀町2番地雑貨商(中村屋)小宮福太郎(27歳)と正式結婚。小宮スガとなる。

9月12日 父の本籍が大阪府西成郡豊崎村宮のネキ195番へ変わる。

明治34(1901) 21歳

春 大病を患い、頭痛が後遺症となる。

冬 在京の父発病(脳卒中)。

明治35(1902) 22歳

1月 父の希望で大阪府下豊崎村にかえり療養に専念。弟正雄の師宇田川文海を知る。

7月1日 文海の紹介で創業の「大阪朝報」に入社。ペンネームを「幽月」「須賀子」とする。

8月19日 小宮福太郎と協議離婚成立。管野スガ(戸籍)に戻る。

8月27日 東区淡路町4丁目24番地へ転籍。

11月9日 赤痢にかかり、一週間(桃山)()病院へ。

明治36(1903) 23歳

1月25日 『大阪朝報』三面主任に抜擢さる。

3月1日 大阪で第五回内国勧業博覧会開かれ、担当記者となる。

4月4日 大阪婦人矯風会講演の島田三郎に、博覧会余興の「浪花踊り」反対を訴える。

4月6日 中之島公会堂の社会主義演説会講師木下尚江に、「浪花踊り」反対を演説してもらい感激する。

4月22日 『大阪朝報』休刊。

5月15日 大阪婦人矯風会(会長林歌子)へ入会し専従。

10月中旬 弟正雄渡米。

11月8日 天満基督教会で長田時行牧師から受洗。

12月5日 大阪婦人矯風会の年会で文書課長に推薦さる。

*この一年間『基督教世界』および天理教『みちのとも』に執筆多数。

明治37(1904) 24歳

2月 日露戦争勃発、矯風会活動多忙。

7月12日 全国婦人矯風会大会のため林会長らとともに上京。

7月18日 有楽町の平民社に堺利彦を訪問。伊藤銀月とも会う。

週刊『平民新聞』10月9日号に1円寄付。

週刊『平民新聞』10月13日号に「大阪平民新聞読書会」の会員募集。

11月12日 東成郡墨江村上住吉184へ転籍。

週刊『平民新聞』12月25日号に『大阪タイムス』入社の記。

12月3日 大阪婦人矯風会年会で文書課長に再選。

*この年、歳末頃大阪から京都へ移転。

明治38(1905) 25歳

1月 京都の異母兄にはじめて会う。この頃、宇田川文海と義絶。

週刊『平民新聞』1月15日号に須賀子の名で「大阪社会主義同志会」設立発表。

1月30日 大阪の戦死者紀年追弔会で矯風会代表として弔辞朗読。

『直言』2月12日号に須賀子名義で寄付金。

3月19日 京都四条教会(牧野虎次牧師)へ転入。

5月6日 関西婦人大祈禱会に出席(京都室町教会)。

5月31日 大阪婦人矯風会会長林歌子渡米。

6月3日 父義秀死亡(57歳)。本籍を京都府葛野郡朱雀野村に移す。

夏頃 静養のため妙心寺海福院に二ヵ月ほど止宿。

9月頃 牧野牧師の紹介で同志社教会ミセス・ゴルドン宅に住み込む。

10月頃 堺利彦より『牟婁新報』赴任をすすめられ、同社社長毛利柴庵と会見。社外記者となる。

『牟婁新報』11月6日号に、半自伝小説「露子」を発表しはじめる。

12月2日 大阪婦人矯風会文書課長に三選される。

明治39(1906) 26歳

2月4日 紀州田辺町の『牟婁新報』に単身赴任。専任記者荒畑寒村(20歳)と識る。

3月7日 妹秀子、来田。

3月13日 毛利社長、官吏侮辱罪で田辺監獄に収容。須賀子、仮編集長となる。

4月16日 寒村退社、帰京。

4月27日 毛利出獄。

5月29日 『牟婁新報』を辞任、秀子とともに帰洛(室町通上長者町下ル川端方)。

7月末頃 河原町荒神口通りの仮寓へ寒村来訪。一ヵ月滞在中結婚を約す。

9月9日 『読売新聞』に「わが人形」発表。

10月12日 妹秀子とともに東京に移る。牛込区市ヶ谷田町2ノ16、三宅方に下宿。

10月中頃 堺利彦から寒村との結婚を認められるが同居せず。

10月28日 堺方の「社会主義婦人会」に出席、本格的な社会主義婦人の一員となる。

12月21日 『毎日電報』発刊、社会部記者となる。

明治40(1907) 27歳

1月15日 日刊『平民新聞』創刊。寒村が記者となる。寒村の小説「舞ひ姫」激励会を、三宅方の二階で行う。

日刊『平民新聞』2月3日号に、寒村と大杉栄が淀橋町柏木342に移転広告。

2月22日 淀屋橋町柏木142番地で妹秀子死去(21歳)。

2月23日 落合火葬場で荼毘、代々木の正春寺に葬る。

4月11日 毛利柴庵と堺が訪問、正春寺に参り四十九日忌の読経。

4月14日 日刊『平民新聞』廃刊、寒村失業。

4月25日 石川三四郎、山口義三の入獄を日比谷公園で見送る。

5月上旬 療養のため伊豆初島に転地、新藤彦平方に下宿。「理想郷」を、『毎日電報』に送稿。

7月頃 帰郷、復社。

8月19日 ケア・ハアディ歓迎会に出席。

10月7日 『大阪日報』に就職のため寒村下阪。寒村と事実上の決裂。

11月9日 大杉栄の出獄を、堀保子と巣鴨監獄に出迎える。

12月末頃 療養のため、房州保田の吉浜海岸(あき)()清七方に下宿。

明治41(1908) 28歳

2月末まで 網元秋良屋に滞在し、『毎日電報』へ4回寄稿。

2月上旬 寒村が秋良屋を訪ね、20日間ほど同居し帰阪。

3月上旬 帰京、復社。

4月中 『大阪日報』を辞め寒村も帰京、同居せず。

6月22日 「赤旗事件」起こり検挙、未決監に入る。寒村も逮捕収監。

8月29日 無罪判決。寒村は懲役1年半。『毎日電報』を馘首(かくしゅ)

9月はじめ 柏木平民社に幸徳秋水を訪問。

秋頃 柏木365の中国人の合宿「神谷荘」の住み込み手伝いとなる。

明治42(1909) 29歳

1月15日 神谷荘へ箱根林泉寺住職内山愚童来訪、ダイナマイトが話題となる。

2月13日 巣鴨平民社で来訪の宮下太吉に会い、爆裂弾を話題にする。

2月中旬 幸徳の援助で鎌倉(逗子の正覚寺)へ転地療養。三月帰京。

3月18日 巣鴨から千駄ヶ谷に移った平民社に住み込み、幸徳の助手となる。

5月25日 須賀子編集発行人の『自由思想』第1号発禁(新聞紙法違反)。

6月6日 宮下太吉が信州明科の官営製材所へ転勤の途中立ち寄り、爆裂弾の話をする。

6月10日 『自由思想』第2号、発禁、発行停止。

7月15日 新聞紙法違反で病床から検挙される。

8月14日 東京監獄から千葉監獄で服役中の荒畑寒村へ離婚状を送る。

9月1日 罰金4百円の判決で釈放、平民社にもどる。

9月13日 『東京朝日新聞』に「社会主義の女」として紹介さる。

9月22日 幸徳と記念撮影。

10月8日 銭湯へ行く途中、路上で卒倒。

11月1日 加藤病院へ入院。

11月3日 宮下太吉が勤務先の信州明科の山中で、爆裂弾の試作実験に成功。

11月30日 宮下太吉が上京、平民社で一泊、爆裂弾の実験報告。

明治43(1910) 30歳

1月1日 幸徳、須賀子、宮下、新村忠雄らが爆裂弾の空缶で投擲のマネをする。

1月23日 古河力作が1月2日に続いて平民社へ来訪。須賀子、新村と三人で投弾の図上演習をする。

1月下旬 一年半の刑を終え、寒村出獄。

3月22日 平民社を閉じ幸徳と湯河原温泉天野屋旅館に赴く――小泉三申らの依属による『通俗日本戦国史』全十巻執筆のため。幸徳は『基督抹殺論』から先に取りかかる。

4月15日 『自由思想』罰金刑の上告を止め、須賀子は換金刑に服する決意。

5月1日 入獄(労刑百日)準備のため単身帰京、平民社前の増田謹三郎方に置いて貰う。

5月9日 寒村がピストル(大阪で入手)を携え天野屋旅館を襲うが、幸徳も上京中で、二人に復讐することができなかった。

5月17日 新村、古河らと投弾の順番をくじ引きできめ、その実行は須賀子出獄予定の秋以後とする。

5月18日 須賀子三度目の入獄。新村、吉川など見送り、新村から幸徳へ須賀子収監の電報。

5月25日 信州明科で宮下太吉の爆裂弾事件発覚。宮下、新村、古河ら5人が逮捕される。

5月31日 「爆発物取締罰則違反」容疑から、一転して「刑法第73条」いわゆる「大逆事件」に切り替え、幸徳、管野を加えて7人が起訴、送監される。

6月1日 「逆徒」として幸徳が湯河原で逮捕される。

6月2日 須賀子の第1回検事聴取はじまる。

6月3日 須賀子の第1回判事訊問はじまる。

6月上旬 獄中から秘密通信「針文字」を横山弁護士に送り、センセーションを呼ぶ。(「時事新報」掲載)

6月17日 潮判事に、幸徳との絶縁を伝言する。

10月27日 第14回の判事訊問で予審終了。

11月16日 12月10日からの公判開始の通知が来る。接見・通信の禁止も解除。

12月29日 非公開の特別裁判の閉廷。

明治44(1911) 30歳

1月18日 判決公判。26名の被告中24名に死刑宣告。「死出の道艸」執筆開始。

1月19日 うち12名が無期に減刑。

1月24日 11名の死刑執行。須賀子は時間の都合で翌日回し。

1月25日 須賀子絞首台に立つ――午前8時28分絶命。

1月26日 東京監獄不浄門より遺体下げ渡し、増田謹三郎引き取る。

1月27日 通夜に荒畑寒村、安成貞雄来訪。

1月28日 早朝出棺、妹秀子の眠る代々木の正春寺に合葬。

 

管野須賀子は、魔女、妖婦?

・管野須賀子(1881~1911)は、明治末年に大逆事件で処刑された12名のうち、唯ひとりの女性であった。彼女は、無法きわまりないでっち上げをおこなった国家権力と対峙して一歩も引かず、最後まで信念をまげることなく泰然として絞首台にのぼった。須賀子は女であったがゆえに、「魔女」「妖婦」などといったおよそ彼女の実像とはかけ離れたレッテルを張られ、男性との関係について、さまざまな憶測のもとに、彼女の人間性をはずかしめおとしめるような興味本位の扱われ方がなされてきた。大逆事件の真相が明らかにされてきた今日においてもそれは大きく影響して、須賀子の男性関係を放縦かつ非道徳的なものとみなし、この見地から彼女の思想や行動を解しようとする傾向が強いのは現在も変わらない。

 

四冊の管野須賀子評伝

①絲屋寿雄著『管野すが――平民社の婦人革命家』1970岩波新書

②大谷渡著『管野スガと石上露子』1989東方出版

③清水卯之助著『記者・クリスチャン・革命家 管野須賀子の生涯』2002和泉書院

④関口すみ子著『管野スガ再考 婦人矯風会から大逆事件へ』2014白澤社/現代書館

*それぞれ十数年の間隔を置いて世に出ている。因みに、『管野須賀子全集』は清水卯之助編で全三巻、弘隆社から1984年に出ている。

 

①絲屋版は執筆当時参照できる須賀子の過去につての資料は、基本的に荒畑寒村の自伝や思い出に依拠している。31歳で刑死した須賀子に比し94歳まで生きた寒村、とくに彼女から聴いたとする結婚以前の放縦な《男性遍歴》なるものを語っている。自分との破局や秋水との結びつきの原因をそこに求めようとしているかのようだ。絲屋版も須賀子に同情しながら寒村自伝に深く立ち入らずに、とくに大阪時代の須賀子が文学修業で師事した宇田川文海の愛人説や自己嫌悪からキリスト教入信動機などをそのまま受け入れている。戦後の多くの須賀子像は寒村自伝に無批判に追随してきた。「管野須賀子魔女・妖婦伝説」の(らん)(しょう)はここにある。

②大谷版は、この須賀子魔女・妖婦伝説に否定的な見解を新資料の提示をもって実証しようとした。これまで寒村の言説に疑いを持つ者はいなかったが、大谷は初めて寒村の説く須賀子は虚像と一刀両断し、須賀子研究に一石を投じた。まず寒村が須賀子の「自暴自棄」の端緒を十代の頃、継母の奸計で坑夫に凌辱されたという事件についての真実性に疑義をはさんでいる。修業時代の師・宇田川文海との人間関係については、宇田川の思想、人となりを詳述し、温かい師弟関係の域を出るものではなかったと下している。大阪婦人矯風会・キリスト教との接近も須賀子の成長過程での主体的な活動範囲の拡張であるとした。それは『大阪朝報』の記者活動や天理教機関誌『みちのとも』、矯風会関係資料、基督教会資料などによって検証されている。よしんばすべてが大谷版の主張通りでないにしても、須賀子の成長過程前史における真摯な足跡が実証されたものである。

 

③清水版においても最も意を用いたのは、魔女・妖婦伝説を排する須賀子の人間像の構築にある。大谷版がやや理想化されている須賀子像とするなら、清水版はより生身の実像を追求するものだといえるのではなかろうか。清水は「寒村という人は終生須賀子にコンプレックスと度し難い恨みをもって、彼女を淫婦妖婦に仕立てるのに筆を惜しまず、機会あるごとに中傷している」と手厳しく批判している。が、個々の事実については、必ずしも全否定はしてない。坑夫凌辱一件については、ほぼ事実であろう。宇田川文海との人間関係において生活のため貞操を売ったという見方は避けている。あくまでも師弟愛からその域を超えて発展した可能性はあるのではないかという。田辺の『牟婁新報』時代の毛利柴庵や清滝智竜との情事については、まったくの虚構としてしりぞけている。『大阪朝報』時代の須賀子の記者生活についても詳述し、大谷版同様先駆的な女性ジャーナリストとしての活躍に高い評価を与えている。

 

④関口版では、大谷版から始まった実証性がより徹底されている。実物のコピーをカットとして頁内に附しながら、魔女・妖婦伝説を逐一暴き立て、実像に決着を迫るものである。先行する大谷版や清水版にはない視野の広い研究ともなっている。寒村が『自伝』の中で、なぜ須賀子が「一種の(えん)()な色気を漂わせていた」、「実に不思議な魔力を持っていた」と強調するのか。つまり、大逆事件で処刑された須賀子が、以降共有された記憶の中で「魔女」「妖婦」と語られるにいたった理由・経緯を明らかにする必要があるとした。そこで引き合いに出されたのが、寒村の親代わりである堺利彦が、北京で新聞特派員をしていた級友の石川半山(安次郎)に書き送った手紙、「幽月の事」1911.3.15である。

 

 それから幽月の事を少し書いて、君の好奇心を満足させてやらう、彼女が初めて

 我々の眼界の中に入つて来たのは、安部、木下、片山あたりが大阪で社会主義の演

 説をやつたとき、彼女が聴衆の中から出て来て弁士等に面会を求めたと云ふのだ。

 それで木下が洗礼を施したと云つて居るのだらう、次に彼女は僕等の有楽町の平民

 社に尋ねて来た。其時は大阪婦人矯風会の代表者として東京の大会に出席したので

 あつた、だから其時には彼女はまだクリスチャンぶつて居たのだ、而して実は宇田

 川文海君の保護下に立つて、其老情を慰めて居たのだ、然るに彼女は東京に於て何

 処で何うして懇意になつたか知らぬが、忽然(こつぜん)として伊藤銀月君と夫婦の約束をした

 と云ふのだ、是に就ては文海老から僕の所に、保護者という名の下に、嫉妬まぢり

 の老の繰言を約二間半ばかり書いてよこした事があつた……紀州田辺の毛利柴庵か

 ら婦人記者を一人世話して呉れといふ注文のあつた時、僕は京都に居た幽月を紹介

 してやつた、柴庵は直ぐに幽月を呼んだ、程なく柴庵はチヨツト幽月を摘んだ……

 彼女は決して美人では無かつた……然し彼女は一種の魔力を有して居た、一種妖艶

 の趣きを備えて居た……

 

・堺利彦は須賀子に対して親身であったとは言い難い。寒村が敗戦後繰り広げた、セクシュアリティまみれの「妖婦」という須賀子の表象は、実は堺利彦が石川半山のために練り上げたものとみられるのである。関口版によると「寒村自伝」も何度か再販する度に書き直されていて、須賀子についても表現がこのような共有された記憶によって変っていったという。

 

判決文の中の須賀子と「死出の道艸」

また須賀子の大逆事件に関する調書も、どこまでが彼女の本当の証言なのか、それはあくまで読み手の配慮なくしてまともに読むことはできない。素直に読むと誰々が白状したと判事にいわれると、それまで「覚えていない」と無関係な者をかばっていた須賀子が、ありそうもないことをぺらぺらと話し、まるで須賀子の調書が24人の判決の参考になったかのように映る。それと比べ、「死出の道艸」にある須賀子の態度はまったく別である。

 

 今回の事件は無政府主義者の陰謀といふよりも、寧ろ検事の手によって作られた陰

 謀といふ方が適当である。公判廷にあらはれた七十三条の内容は、真相は驚くばか

 り馬鹿気たもので、其外観と実質の似はないこと、譬へば軽焼煎餅か三文文士の小

 説見た様なものであつた。検事の所謂幸徳直轄の下の陰謀予備即ち幸徳、宮下、新

 村、古河、私と此五人の陰謀の外は、総て煙の様な過去の座談を強いて此事件に結

 びつけて了つたのである。

 此事件は無政府主義者の陰謀也、何某は無政府主義者の友人也、故に何某は此陰謀

 に加担せりといふ、誤った、無法極まる三段論法から出発して検挙に着手し、功

 名、手柄を争つて一人でも多く被告を出そうと苦心・惨憺の結果は終に、詐欺・ペ

 テン・強迫の甚だしきに至つては昔の拷問にも比しいウツツ責同様の悪辣極まる手

 段をとつて、無政府主義者ならぬ世間一般の人達でも、少しく新知識ある者が、政

 治に不満でもある場合には、平気で口にして居る様な只一場の座談を嗅ぎ出し、夫

 をさもさも深い意味であるかの如く総て此事件に結びつけて了つたのである。

                                 (絲P188)

 

 この文章を読む限り、須賀子の判事による調書も全てとはいわないが怪しくなる。読み手として調書は、ある程度配慮して読まないわけにはゆかなくなるのではなかろうか。魔女・妖婦伝説のバイアスがかかるとこんなことにも気づかなくなるのだろう。

 

『牟婁新報』時代の須賀子の女権思想

・「浪花踊り」反対から娼妓廃絶運動、生活破壊に至る戦争被害者の救援運動、そして『牟婁新報』仮編集長と須賀子の成長の過程を見ると、『牟婁新報』での須賀子のラジカルなフェミニズムの活動は一つの頂きをなしている。和歌山での公娼制反対の論陣など、平民社の活動に連なる須賀子の顔である。ここでは、『牟婁新報』第580号(1906.4.15.)に発表された女権論「肱鉄砲」なる文章を引用し、その一端を紹介する。書き出しから男性中心社会への戦闘的気魄に満ちたものだといえる。

 

 曰く婦人問題、曰く女学生問題、と近年(にわ)かに女の問題は、所謂識者の口に筆に難

 解の謎の如く、是非論評せらるゝに至れるが、而も其多くは身勝手なる男子が(やや)

 醒せんとしつゝある、我等婦人の気運を見て、驚きの余り我田引水の愚論を喋々せ

 るものにして、耳を傾くるの価値あるものは、殆んど皆無と言ひても差し支えなき

 程なり。……

 妾は男子の(暁天の星なる真の純潔なる士は例外)口より婦人貞操論を聞く度に、

 常にチャンチャラ可笑しくて噴飯(ふんぱん)し居るなり。……臆面も無く婦人貞操論を口にす

 るイケ図々しさに至つては、只唯、呆れ入らざるを得ざるなり。是れ畢竟、婦人を

 奴隷視し、侮辱するの甚だしきものなればなり。……

 此根本問題の解決は、勿論社会主義に俟たざる可らずと雖も、而も我等婦人は尚夫

 以外に、此我儘勝手なる男子閥とも戦わざる可からざるなり。……我が未婚の婦人

 よ、堅固なる肘鉄砲に常に戦闘的準備を怠る勿れ。……

 起てよ婦人。……結婚を急ぐ勿れ、売買結婚に甘んずる勿れ、而して己の修養に勉

 めよ。                            (全集②より)

 

・はじめ須賀子は小説家を目ざしていた。作中の人物像に陰影がなく喰い足りない感じがする。また筋立ての基本となるのが、善を虐げるものは罰せられねばならぬという悪を憎む正義の念が見えみえである。しかし、これを幼稚で素朴な正義感だと一蹴することはできない。無法な権力に対する(ぼう)(れい)の糾弾は、このような純粋な正義の念が根底にあってのことである。女権思想において男子閥を敵に回し渡りあうその姿に、寝技を云々する気はとうてい起きなくなってしまう。

 

獄中での須賀子の歌

・獄中に記された「日記」には歌が幾つものあったようであるが、その日記は見つかっていない。戦後見つかった「死出の道艸」には、23首の歌が日記から引かれ書き留められている。歌を紹介する前に、この「死出の道艸」発見の経緯を神崎清と黒岩比佐子の文章を引く。

 

 古い天皇制絶対国家の権威が崩壊し、大逆事件の追求が自然に解禁となった敗戦直

 後の昭和二十二年七月、当時雑誌『真相』を発行していた人民社の佐和慶太郎氏

 を、銀座裏の三木ビルにおとずれたさい、人民社の金庫のなかから、問題のすが子

 の日記をはじめ、大逆事件被告の獄中手記の数々を発見した、というよりは、現物

 の実在を確認することができたのであった。    (神崎清編『明治文学全集96』)

 

『パンとペン』の著者黒岩比佐子は、神崎氏と佐和氏にその入手経路をたずねた。すると……

 

 身元のわからない二人の怪しげな男が、書類の束をこっそり売り込みに来たので、

 文献保護の意味で買い取っておいた、という話だった。アメリカ占領軍の上陸前に

 慌てて焼却しようとした書類の山に、管野すがや幸徳秋水の著名がある原稿が紛れ

 ているのに気づいた小役人が、金になるのではないかと考えて、炎のなかから救い

 出した。それが怪しげな仲介者の手に渡り、佐和氏の人民社に持ち込まれた、とい

 うことらしい。

 こうして発見された「死出の道艸」は、「青線をひいた和罫紙六十一枚とじに、毛筆

 で墨書したもの。表紙一枚、序一枚、本文四十一枚で、のこりの十八枚は、まだ白

 紙のまま」だったという。鉛筆で「堺へ下附願」の文字が書き入れてあるものの、

 ついに堺利彦の手に渡ることはなく、三十六年後に奇跡的に蘇った管野すがの絶筆

 ――。              (芳書月刊2008.2.収録「死出の道艸」を読む)

 

このような経緯から陽の目を見ることになった「死出の道艸」である。その中に写された23首のうち5首ばかり引いておく。

 

 燃えがらの灰の下より細々と

             煙ののぼるあさましき恋

 

 強き強き革命の子が弱き弱き

             涙の子かとわが姿見る

 

 更けぬれば手負は泣きぬ古ききず

             新しききず痛みはじむと

 

 目は言いぬ許し給へとされどわが

             目は北海の水にも似し

 

 わが胸の言の柱の一つづつ

             崩れ行く日を秋風の吹く

 

・さて、これらの歌を読んでどう感じるだろうか。上手い下手ではなく、内在的に読む努力をすれば、そこに「絶縁した秋水」、「守ろうとした秋水」そして「元の鞘(千代子)に戻ろうとする秋水」への獄中での想いがよく綴られているように思われる。孤独は須賀子の故郷であったのであろう。いや、無政府主義者として生ききることにこそ、「己を飾らず偽らず欺かず」生ききることを良しとした最後の須賀子がいる。

 

最後に……

『牟婁新報』第588号に須賀子は「女としての希望」を発表している。

 

 半面のただ女としての、妾の希望を述べんも興ある可し。繰返し云ふ、こは優しき

 半面の妾なり。

 優しき半面の、女としての妾の希望は何ぞや。理想の(つま)を見出す事なり。笑ひ給ふ

 勿れ、読者。……

 理想の夫とは如何なる人ぞ。仮令(たとい)不具なりとも、容姿に就いては一点の希望なし、

 又勿論、資産などは、妾の眼には塵埃も同様なり。只、要するものは二つあるの

 み。

 何ぞや、熱烈なる愛情と、宇宙を呑むの気概と、之なり。而して今の世に()れられ

 ぬ男なり。

 而して、今一つ妾に希望あり。熱烈なる相愛の夫婦が、私するものとては、只相互

 の愛情のみにして、余力を挙げて社会の為に捧げ、己が為すべきの務めを終わりた

 るの日、即ち、(かん)()として相抱いて情死をなす……是れ妾の理想なり。

 

・最期、絞首台に立ち「わが主義のために死す、万歳」と叫んで散っていった管野須賀子。「情死」は見果てぬ夢であったか、それとも己が主義のために「犠牲」となることこそ「情死」と同等であると考えたか……。

 

「辞世の歌」

 やがて来む終の日思ひ限りなき

             命を思ひ微笑みて居ぬ