リーフレット「仏教と悟り」のテキスト改 | kitani1のブログ

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【サイコパスと仏教】

名古屋大学の女子学生が77歳の女性を殺害した事件を多くの人が覚えているだろう。女子学生は人を殺すことに異常な興味を示し、取調べでも「子供のころから人を殺してみたかった」と供述した。いくつかの余罪も持っていた。サイコパスではないかと言う識者もいた。
 サイコパスとは「人間的な感情が少なく、欲望をおさえられない異常な精神を持つ人」とされる。しかも表面上は善人を装うことができる。
 仏教的にみれば、不思議な感情の持ち主ではない。「餓鬼界」や「修羅界」と呼ばれる心の状態だ。
 仏教では、人は十界と言われる十種類の心身の状態があると説く。十界を略記すると以下の状態である。
地獄界:瞋(いか)りと苦しみにおおわれる
餓鬼界:欲望に突き動かされている
畜生界:愚かで本能のままに行動する
修羅界:人に勝ろうと争い、おとしめる
人 界:穏やかで冷静
天 界:喜びに満ちている
声聞界:学問に励む
縁覚界:黙々と研究・研鑽を深める
菩薩界:人を救う事に喜びを感じる
仏 界:真の悟りを得る

 前記の女子学生の姿は、単に人を殺したいだけであれば、餓鬼界であり、人が苦しむ姿を見てみたいならば、上位にいる自分を確かめたい修羅界と言える。特に餓鬼界は、自分が破滅に向かう事を分かっていても、欲望に突き進む。
 例えば、蚊は汗のにおいに寄ってくる。たたかれて殺されそうになっても、やめることができない。これは餓鬼の姿である。人の心にも蚊と同じ心がある。世間で起こる異常な事件も十界を思い浮かべると読み解ける。

【十界と「縁」】
 自らを破滅させる心をなくせるのだろうか。
 十界は「縁」によって起こる。例えば、困っている人を見ると助けようとする菩薩の心が起こる人もいれば、さらにいじめたくなる修羅の心が起こる人もいる。また、弱みにつけ込む詐欺を思い浮かべる餓鬼の人もいるだろう。どのような心が起こるにせよ、「困っている人」が縁となっている。「病気」「就職」「お金」等の「縁」によって、人にいろいろな心が起こる。しかし、全てこの十界に収まる。そして、仏教では、この十界は我々に元々具(そな)わっている、と説く。

【仏界とは】
 仏界の「悟り」と言えば「虚無」的な思想を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、これは釈尊(お釈迦様)が当時の学者肌の弟子達に説かれた初門の教えである。
 初門であるため、釈尊の行動と矛盾する。釈尊は背中の痛みを抱えながらの「衆生救済」の生涯だ。これは虚無的な姿ではない。また、この初門の教えは「悟りを得ると輪廻から離れ、生まれ変わることがない」とするが、数学の証明のように、無限大の向こうを見てみると矛盾がある。つまり、無限の人が悟りを得たと仮定すると、衆生はいなくなる。これは、釈尊が否定した「有・無」の世界観だ。
 釈尊の究極の教えである法華経では「常楽我浄」を説く。
 釈尊は「今までの四十二年間方便を説き、真実を説かなかった。今から真実の経典を説く」と宣言し、法華経を説いた。「常楽我浄」は「我(が)への執着から離れ、人々を救済する、常によろこびに満ちた境涯」だ。「因果の平等の智慧」を身につけ、「自由自在の行動」で、しかも堂々とした「崩れない尊厳」をもたらし、人々を救済する。簡単に言えば「すべての悩みが解決できる境涯」である。

【仏界にいたる「縁」】
 では、どのような縁によって仏界が現れるのか。
 「座禅?」。確かに釈尊は禅定(座禅)によって悟りを開いた、とされる。大集経という経典では釈尊滅後千年は禅定が盛んになる時代とされる。しかし、現代は釈尊と因縁の違う衆生が生まれる末法という時代であり、禅定では悟れない。釈尊は、釈尊の時代も含め法華経を信じる事こそが悟りへの道と説かれている。
 さらに素直に信じられない末法の衆生のために、法華経に予言を残されている。則ち、末法は、上行菩薩が出現して「たびたびの流罪」「刀の難」等の法難にあいながら末法の法華経を弘める、と説かれる。
 上行菩薩として末法に誕生された日蓮大聖人は、法華経が説く正体を「南無妙法蓮華経」の本尊と明かされ、この本尊に向かい「南無妙法蓮華経」と唱える縁により、我々に具わる仏界が出現する、とされる。

【他の経典を圧倒する法華経】
 般若心経の有名な「色即是空・空即是色」について多くの仏教者は解説している。しかし、まとを射たものを知らない。「色即是空」は解説するが、なぜ「空即是色」と併記されているのか、確かな解説を見ない。
 「色」を単純に言えば、表面に見える物質的な現象だ。総合的には、仏教用語の「仮名(けみょう)」あるいは「仮」と言い換えられる。
 日本の仏教各宗派の祖といわれる龍樹菩薩が、摩訶般若経の解説「大智度論」の中で「世の中に起こることは空であり、仮名であり、中道(中)である(因縁生の法、是を空相と名づけ、亦仮名と名づけ、亦中道と説く)」とする。つまり、世の中は空でもあり(色即是空)、仮でもあり(空即是色)、中でもある(色即是空・空即是色)と、空仮中の三諦を示しているとする。
 法華経ではこの三諦を「如是相(仮)・如是性(空)・如是体(中)」とし、さらに、「究極の処では等しい」と三諦の円融を説く。
 これは、現代科学と同様の結論だ。
 アインシュタインの有名な、E=mc2、則ち、質量(物質)はエネルギーとなる。エネルギーと物質は、仏法では空と仮にあたる。量子力学の世界ではエネルギーと物質だけでは説明できず、「場」を持ち出す。「場」は仏法の「中」に通じる。つまり、仏法の観点から見れば、エネルギー・物質・場には差別がないとなる。法華経には、現代科学に通じる知見が三千年前から説かれている。

このように真理を説く法華経こそ、自己改革の力であり、悟りに導き、さらに人々も真の幸せに向わせる。

 この仏法は、日蓮大聖人の一番弟子日興上人に伝えられ、日興上人が建立された静岡県の日蓮正宗総本山大石寺に厳然と伝わる。