空海は
大日経の「秘密主、云何なるか菩提。謂はく実の如く自心を知る」
を以って、法華経と同等と云う。
これからは、一念三千は生まれない。従って、二乗・悪人・女人成仏は説くことが出来ない。
そもそも、「自心」をどのように知るか説かれていない。
つまり、法華経が説かれて始めて、
「もしかしたら、法華経に似ている」と出来る。
これは他の大乗教の経典にもある。
例えば
般若経の「色即是空・空即是色」は中道を説き、「円融を説く」といえる、とはしない。
法華経が説かれて、般若経が円融を指し示している、と出来るからだ。
「色即是空・空即是色」は色でもなく、空でもない中道を指し示している、までしか言えない。
必要十分条件とはならない。
例えば、
リンゴを示すのに、「リンゴは果物」は間違いではないが、果物がリンゴとは限らない。