法華経に長者窮子の譬えがある。ここに利子の話があるとする。
信解品の「出入息利」という経文から、利子で儲けていると考えているようだ。
この利息を取るためには、貨幣経済が発達してないと出来ないとする。
つまり、仏教学者は法華経は後世に造られたものとする。
私はそのようには思わない。
貧しい人がいて、長者がいれば、
貧しい人が困ると食物を借りにいったり、種を借りに行ったりするだろう。
そのとき、「返すときは倍にします」等は言うだろう。
種の場合は倍でもたいした利子ではない。収穫は何十倍である。
また、須達長者が地面に金を並べて祇園精舎を立てようとしたことからもけっこう経済は発達していたと考えられる。
さらに言うと、後世、譬えを理解しやすいものに代えても問題がない。
言葉を伝えているのではなく、法を伝えるために経典はある。