法華経に関する擬難がある。その一つが、
「一念三千が説かれていない。天台大師が説かれているっているだけ」
仏教学者は自分が理解できないことは「なかったことにする」例の一つだ。
一念三千が説かれている事は簡単に証明できる。
十如是に釈尊の成道を当てはめればよい。
釈尊の成道前の如是相と釈尊が成道したという如是報が、本末究竟して等し(如是本末究竟)である。
つまり、「迷いの九界の相と悟りの報に究極的には差別がない」とする。
ここでほぼ十界互具が証明できた。これに十如是を掛け合わせれば千如是となる。
相に現れる差別相は、三世間として現れる。これによって三千世間となり、一念三千が成立した。
ただ、「究竟して等」が十界互具とするのは少し早計である。
十如是が説かれた後、「開仏知見」(仏智見を開く)とある。衆生に仏智見がなければ開くことができない。
つまり、ここで、元々あったということがわかり互具が成立する。