法華経の十如是と大智度論の九種の違い① | kitani1のブログ

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「大智度論」に十如是と同様ととらえられている文がある。

一々の法に九種有り。
一には、体有り。
二には、各々法有り、眼耳は同じく四大造なりと雖も、而も眼のみ独り能く見、耳には見る功無きが如し。また、火は熱を以て法と為し、而も潤す能わざるが如し。
三には、諸法各々力有り、火は焼くを以て力と為し、水は潤すを以て力と為すが如し。
四には、諸法は各々自ずから因有り。
五には、諸法は各々自ずから縁有り。
六には、諸法は各々自ずから果有り。
七には、諸法は各々自ずから性有り。
八には、諸法は各々限礙有り。
九には、諸法は各々開通方便有り。
諸法の生ずる時は、体及び余の法、凡て九事有り。此の法には各々体法有りて具足するをしる。

これが天台大師の法華文句にも紹介されている。
そこには達磨鬱多と言う人物の説として次の文が紹介されている。
 達磨鬱多は、此の九種を将って法華の中の十如を会す。
各々法ありとは、即ち是れ法華の中の如是作なり。各々限礙ありとは、即ち是れ法華の中の如是相なり。各々果ありとは、即ち是れ法華の中の如是果、如是報なり。各々開通方便ありとは、即ち是れ法華の中の如是本末究竟等なり。余は名同じ、解すべし。

達磨鬱多は、以下のようにしている。
大智度論を前に書き、法華経を後に書く
「体」は「如是体」
「法」は「如是作」
「力」は「如是力」
「因」は「如是因」
「縁」は「如是縁」
「果」は「如是果、如是報」
「性」は「如是性」
「限礙」は「如是相」
「開通方便」は「如是本末究竟等」

ところが矛盾を感じる部分がある。
「法」は眼耳は同じく四大造なりと雖も、而も眼のみ独り能く見、耳には見る功無きが如し。また、火は熱を以て法と為し、而も潤す能わざるが如し。
としてあり、本質が持つ、働きと差別(違い)を示す。
繰り返すと、
「耳は音を聞くが、見ることはできない」「火は熱を持つが、水のように潤す力はない」
と違いを法としている。
つまり、「四大造なり」としていることから「造られる違い」ともなる。
これは如是相・如是性に近いと考える。
このことは最後の文の「体及び余の法、凡て九事有り。此の法には各々体法有りて具足するをしる」と「体」と「法」を区別していないことからもわかる。

「力」にも「火は焼くを以て力と為し」
とあり、「火」は「熱」を本質として、「ものを焼く」力があるとつながっていることからも「如是性」と言えそうだ。

三の「力」は「如是力」や「如是作」に通じると考える。
 

そうなると七の「性」はどう考えるとよいかと言えば、
「性」「限礙」を合わせて、「如是報」と考える。
「果」によって造られた「性」とその限界「限礙」とできる。

次に、「開通方便」だ。
「方便」は「菩薩の道」「般若波羅密」と考える。
大智度論は般若経の解説だ。般若経では「方便」は菩薩の道であり、般若波羅密を示すらしい。
法界すべてが、般若波羅密に通じることを「開通方便」としている、と今は考えている。

妙楽大師は文句記に
「今正しく解せんと欲して先に大論を引く。即ち達磨の用いる所なり。論を引く意は但泛く類例を為す。的く同に非ざるなり」
とされている。
つまり、「達磨も用いているように、天台大師も類例示すために大論を引かれたが、全く同じではない」とされる。

参考 譬喩品には
「唯如来のみあって、此の衆生の種・相・体・性、何の事を念じ、何の事を思し、何の事を修し、云何に念じ、云何に思し、云何に修し、何の法を以て念じ、何の法を以て思し、何の法を以て修し、何の法を以て何の法を得ということを知れり。衆生の種々の地に住せるを、唯如来のみあって実の如く之を見て明了無碍なり」