法華経方便品から十界互具がなぜ成立するのか | kitani1のブログ

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十界互具とは

十界即ち、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界のそれぞれに十界が具わるという教えだ。

地獄界にも地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏が具わるという事だ。

ちょっと考えれば普通に起こっている。

穏やかな人界を示していた人が、不治の病気と診断されて、苦しみの地獄界になる。

通常にある事だ。

しかし、地獄界の衆生にも、縁によって仏界を現じることがある、ということになる。

 

ではなぜ仏界を生じるのか、といえば、元々具わっているからだ、とする教えが十界互具。

 

では法華経方便品のどこからそのような考えが読み取れるのか、と疑問を持ち、天台大師の造り出したものであり、法華経の本来の教えではないとする多くの学者がいる。

私自身、天台大師の教えをしっかり勉強していない(たぶん分からないと思う)ので、独自の論理を造り出した。

 

法華経方便品に十如是がある。

即ち「諸法実相、所謂諸法、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」である。

「諸法の実相は、相・性・体があり、力をもち、力があれば作用があり、作用があれば、因縁を生じ、果報がある。この相から報までは、究極のところでは等しい」

この十如是を釈尊の成道に当てはめると、

つまり、無明を持つ迷いのシッダールタ(釈尊)が修行して、悟りを得て仏なった、

を当てはめると、「迷いの『相』のシッダールタ」と「悟りを得て『報い』としての釈尊」

が究極のところで等しい。

つまり、迷いの姿も、悟りを得た仏も、究極のところでは変わらない。

 

ここで十界互具はほぼ示しているが、だめ押しがある。

「釈尊は、衆生をして、仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現しもう」

所謂、四仏知見の最初だ。

ここに「仏知見を開く」とある。衆生に元々ないものなら開く事はできない。

衆生に仏の悟りが具わっている事を明確にされた。

 

舎利弗は、この四仏知見を予想して、「具足の道を聞かんと欲す」と釈尊に念願している。

 

少し、長くなるが、

十如是は、妙法蓮華経の翻訳者鳩摩羅什が大智度論から引用したのではないかとの意見がある。似たような部分がある。しかし、私は逆だと考える。

龍樹菩薩が法華経から一部から差し支えない程度に引用したと考えている。

(あくまで龍樹菩薩の役割は、般若経を解説することであり、法華経の「具足の法門」にはほとんど踏み込んでいない)

天台大師も達磨(大師ではないようだ)の意見として、大智度論の示すものと、法華経の十如是は同じと考える人がいると紹介している。妙楽大師はそこの部分を、天台大師は紹介しただけで天台大師の意見と違うとされているようだ。

 

十界互具によって、

二乗成仏が成立する。二乗にも仏界が具わる。悪人、女人、竜女にも仏界が具わる。

また、具わっていれば、仏知見を開けば、即身成仏もあり得る。

さらにいえば、久遠実成の釈尊が、無明を持っている凡夫として生まれてくることも、無明が具わっていることになるため問題が無い。

 

久遠実成の釈尊を法身の久遠を説いたと考える向きが多いが、法身は肉身を持って生まれたことは説明できない。

実は、修行の結果、仏の智慧を開いた報いとしての成道した報身仏の久遠を説いている。また、仏の智慧を説く応身仏の久遠ともいえる。

法華経で法身の久遠を示しているのは多宝如来である。肉身を示さない法身のままで、法華経が説かれる時出現される。

 

法を体現する仏とすれば法身、仏の智慧を開いたとすれば報身、仏法を説く仏は応身である。

これを久遠五百塵点より繰り返されている。つまり、三身の久遠を説いたともいえる。