大日経にある「虚空」とは? | kitani1のブログ

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以前にも書いたが、

大日経はいろいろの経典の文言が入り交じっている印象を持つ。

曼荼羅等が注目されているが、私は「諸法実相」をどの様に説いているか興味がある。

 

大日経をまた、二度ほど読んでみたが、

諸法は「虚空」とするようだ。

では虚空とは何か、これがわからない。

 

岩波仏教辞典には

「現在の概念でいえば,ほぼ空間に相当する.そこでは,いっさいのものがなんの礙(さまた)げもなく,自由に存在し運動し変化し機能することができる.このため<空(くう)>の説明にも活用された.インド人もギリシア人も,地水火風を四大(しだい)と称して最重要視したうえで,虚空はそれらに場所を提供するところから,第五の要素として扱い,ここに一種のエーテルを認めた説もある.

『仏教で,全存在を諸要素(二法)に分類して,有為(うい)法(つくられたもの)と無為(むい)法(つくられたのではないもの)とに二分するさい,部派仏教の多くは虚空を無為法の一つに数える』

が,無為法としての虚空は,自然界に経験される虚空界(事物としての虚空)とは区別される別のものである.なお,虚空は上述の無礙(むげ)のほか,無限や遍満(へんまん)などの喩えにも用いられる.」

 

よくわからない。

私が『』で囲んだ部分が仏教的な説明らしい。「虚空とは?」と真言宗の人に尋ねてみたい。

「虚空」とは一般的には「全空間」、

仏教的には「全空間に内在する法」といった感じではないだろうか。

 

つまり、「諸法は虚空」とは「体空」を宇宙法界ともつなげて示したものと考えている。

 

小乗経は「但空」

方等部大乗経では「体空」

般若経・華厳経では「但中」

法華経では「不但中」

である。

大日経も「体空」を示した方等部の経典と考える。

 

顕正会の浅井氏は

「我(われ)即宇宙法界、宇宙法界即我」と仏を表現している。

直ちに間違いであるとは断定できないが、

「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」1419

「依正不二」「而二不二」の原理等を踏まえて考える必要があるだろう。

そうでなければ、「体空」に迷い込んでしまう。