法華経、華厳経、般若経が説く空仮中を再投稿する | kitani1のブログ

kitani1のブログ

ブログの説明を入力します。

法華経、華厳経、般若経が説く空仮中の違いを以前に書いたが、少し理解が進んだので加筆しておく。


仏教学者が使う空仮中の三諦を現した文としてあげるのは経典でなく、多くは竜樹菩薩の中論である。


般若経の範囲で論じてある中論では
「衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり」
無を空として、仮名を仮、中道が中となっている。
空を開いて、仮とし、中を導き出している。


華厳経では
「心は工みなる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世間の中に法として造らざることなし。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり。心の外に別の法無し。心仏及び衆生是の三差別無し」
「法(中)」・「心(空)」・「仏及び衆生(仮)」の「差別無し」として円融三諦を暗示す。しかし、「造る」から「造」の法門であり、不完全である。また、菩薩だけに説いている事からも不完全だとわかる。


法華経では
「如是相(仮)、如是性(空)、如是体(中)、・・如是本末究竟等」
「相と性と体が究竟して等しい」と円融三諦を示す。


言い直せば、仮に空中が具わり、空に中仮が具わり、中に仮空が具わると法華経は「具」説くが、
華厳経、般若経は「造」とする。


中論を上げて、円融三諦を説いているとする学者がいるが、華厳経のように「差別無し」、
法華経では「究竟して等し」と、積極的な究竟は説かれていない。法華経を知って中論を見ると同じ事を説こうとしたことは分かるが、中論では空仮中という言葉の紹介の面が強いようだ。